2015年11月20日金曜日

消極的な敵意・積極的な善意

ふと思い立って、芥川龍之介の『鼻』を再読。持っていた文庫本は、引っ越しを繰り返すうちに処分してしまったので、恐縮ながら青空文庫さんのお世話になる。

大概の解説は、『傍観者の利己主義』が作品の主題、だとしているけれど……

更に踏み込んで、支援者の「ネガティヴなイネーブリング」まで看破しえた点にこそ、芥川龍之介の天才が現れていると私は思う。

すなわち、不遇に在って自尊心を傷つけられていた主人公・禅智内供が、中盤で一旦は『のびのびした気分になった』ものの、自分を取り巻く『傍観者の利己主義』を感じ取って、より深刻な鬱屈に陥ってしまった際。最も辛辣な陰口を叩くに至ったのは意外にも、内供への同情を動かされ支援を申し出た『弟子の僧』だった……という迫真。

傍観者の『消極的な敵意』は確かに不快だが、ご当人が本来お持ちの能動的な意欲に集中なされば、大きく影響を及ぼすことは無い。実際、禅智内供も『法華経書写の功を積んだ時』にも、同じく『のびのびした気分になった』ご経験をお持ちなのだ。

しかし支援者である筈の最も近しい者が、当事者の眼前に文字通り『ぶら下っている』問題の解決を、助けるように見えつつ却って“難儀”を増悪させる事態、すなわちネガティヴなイネーブリングは積極的な善意が動機だから、実は一層、厄介である。

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内供の“難儀”は、食事の際に少々不便なほど長すぎる鼻、それ自体ではない。

著者が解説しているように、自分だけが特異な“多様性”を抱える疎外感と、奇異の目に晒され続けたゆえの『自尊心の毀損』つまりは“二次障害”が、『鼻を苦に病んだ重な理由』。だから、弟子の僧が同情から施した『長い鼻を短くする法』は、積極的な善意に拠るものだったとしても、問題を解決するどころか一層こじらせちゃったわけで。

互いに最も近しく在るがゆえ、却って当事者と支援者の間に横たわる、深くて大きな心理的乖離を克明に活写しているのが、『長い鼻を短くする法』を詳述した場面。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子(けぬき)で脂(あぶら)をとるのを眺めていた。
親切を施されても尚、『不愉快に思われた』のは、理の当然。支援者たる弟子の僧は、当事者たる内供の“難儀”を、人間の尊厳に抵触する『自尊心の毀損』ではなく、より浅薄な、相貌に対する単純な劣等感、と誤解していたのだから。

加えてこの場面は、同情を動かされた支援者が避けがたい陥穽、すなわち親切を施す者の優越感を、巧みに描いて誠に秀逸だ。床板に横たわり己の『皹(あかぎれ)のきれている』足で鼻を踏まれている師匠を、『時々気の毒そうな顔をして』『禿頭を見下しながら』弟子の心を満たしていた感情は、その実、奈辺に在ったのか……想像に難くない。

《以下、芥川龍之介 作『鼻』のネタバレ御注意!》

果たして、浅薄な同情から優越感を代償に『鼻の療治をしたあの弟子の僧』は、『傍観者の利己主義』に起因する一層深刻な禅智内供の懊悩に、もはや同情を動かされない。施しを与えた者の優越を嵩にかかり、上から目線の批判的な陰口を叩くようになる。

大概の解説は、『五十歳を越え』『内道場供奉(ないどうじょうぐぶ)の職に陞(のぼ)った』高僧にもかかわらず、『悪戯(いたずら)な中童子』へ八つ当たりする主人公を大人げない、と揶揄しているけれど……

それもまた、読者が『傍観者の利己主義』に陥っているんじゃ、と私は思う。『自尊心の毀損』は高僧の英明をも曇らせるほど、人間の尊厳を損なう“二次障害”なのだから。

その生い立ちから『傍観者の利己主義』に度々苛まれてきたであろう著者は、直裁に『内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた』と断ずる一方、終幕で『鼻が一夜の中に、また元の通り長くなった』事実に、今度は誰の助けも借りること無く『はればれした心もち』で応じた主人公へ、美しい散華を奉ずる。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏(いちょう)や橡(とち)が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金(きん)を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている。
清々しい早暁の冷気と薄明に包まれた内供が、抱える“難儀”を自ら承認し納得し適応すれば『もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない』のだと、囁いて下さったご賢察。

利己的な傍観者たちが向ける消極的な敵意だけでなく、浅薄な同情から優越感を代償に積極的な善意を押しつけようとする者のイネーブリングをも乗り越え、『のびのびした気分』『はればれした心もち』へ到達する法を、ご教示下さっているのだと私は思う。

にしても、こうすれば万事解決!なんて耳に心地の良い甘言は、たとえ支援者を名乗る相手でも、易々と応じてはなりませんなぁ。禅智内供が、弟子の足で毎週踏まれずには居られないカラダにならなくて、ホント良かった(違)


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