8月に生まれた娘の誕生日は、例年、夏休みの真っ最中。鉄分多めの相方からは夏の旅行を、私からは道中に読む本を贈るのが、いつしか誕生祝いの習いとなった。
時々、車窓に目を遣りながら小さな手で紐解く本が、児童書から小説へ変わって、はや幾年。今年は遂に、彼女の方から「忙しいから遠出は無理」と旅行を断られ、代わりにトーハクの「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」へ行こう!と纏まる。
美術は大の苦手だが、史記・三国志クラスタなので同行するか…と思われた相方は別件が入って、娘と二人、鶯谷駅の南口から炎天下の新坂を上る。敢えて上野で降りないのは、混雑を避け目的地へ速達する、お馴染み“急がば回れ”のアプローチ。
坂上に設けられた墓参者目当てのタクシープールを横断し、職員通用門を横目に正門へ向かって辿るのは、彼女が小学校へ上がる前から通い慣れた、人通りの疎らな舗道。訪れた日は、楠並木の梢から降ってくる蝉時雨が、殊の外、賑やかだった。
***
「あの人は相変わらず、やりたい放題だねぇ」
「でも当時の所有者は、皇帝だったからねぇ」
特別展を堪能した後、敷地内のレストランで遅い昼食。他愛ない会話の主人公は、昨年観た「上海博物館 中国絵画の至宝」展以来、母娘揃って一方的に親近感を抱いている、乾隆帝こと愛新覚羅弘暦陛下である。
如何なる『神品至宝』であっても、余白があれば御名御璽だけでは飽き足らず、自作の漢詩を讃として書き込みまくり、時には、若い頃に献じた頌詞を、後年、削除・改訂までなさっていた、マニアックな御仁だ。
「“持ち物には名前を書きましょう”的なw」
「“見ましたハンコ+ひとこと”みたいなw」
叶う事ならトーハクの“中のヒト”になりたい、と志している娘。将来は台北や北京の博物院まで、満洲族でありながら、漢族伝統の文物を蒐集かつ溺愛しまくった『十全老人』が、故宮に遺したコレクションを観に行きたいらしい。
***
午後も、娘の希望で“総合文化展”を観る次第となった。まずは、お気に入りの東洋館から、特別展に合わせて企画された、特集展示「日本人が愛した官窯青磁」へ。
金繕いが施され口縁に覆輪が嵌められた、南宋官窯の逸品『青磁輪花鉢』。完形としては世界に4点しかない稀少な米色青磁や、川端康成が愛蔵した端正な青磁盤。生産窯不詳ながら、印象的な造形と深遠な釉調の美しさゆえ国宝となった『青磁下蕪瓶』と並んで、全く思いがけない事に、その茶碗があった。
『青磁茶碗 銘 馬蝗絆』
足利義政が蔵していた折の逸話は、どこかで読んだ覚えがある。けれど、まさか実物を目の当たりに出来るとは……半ば呆然としながらも、六弁の花びらを象った優美な口縁の造形と、釉薬の濃淡が織りなす円やかな景色に、心を奪われる。
ひび割れを繋ぎ留める鎹から滲み出た、錆色を認めた刹那、一つの天啓が閃いた。
娘が自分の将来を期しているのは、義政公も生涯追求し続けた、数寄の道なのだ。
すなわち、愛蔵の品に無様な鎹を打たれて突き返されても、猶。立腹するどころか、美を解する心を喪失した彼の国(当時の王朝は明)の不幸を憐れみ、大きなイナゴ(馬蝗)が襲来した天災と見立て、以前にも増して慈しむ在り方。
両親が志した自然科学とは、合理の様式が異なるだけ。この世界の多様性を愛おしみ、そこに隠れされた理を探究する真髄に、相違は無いのだ。
そして、良く言えば磊落、有り体に言えば暢気に過ぎる彼女の性分は、案外、その道に向いているのかもしれない、とも思う。
親バカなのか、バカな親なのか……多分、両方だけどw
見守ってやるしかないなぁと、妙な所で腹を括ったのが
今夏最高の思い出と、なってくれますように。
2014年9月24日水曜日
2014年6月23日月曜日
「山下清展」取材日記
『視覚の天才(1・2・3)』は、展覧会のレビュウと言うより『私的 山下清論』になっちゃいまして、恐縮でしたが。
長野県信濃美術館の「放浪の天才画家 山下清展」は、画伯のお人柄がジンワリ伝わって来る、とっても素敵な企画展でしたv
訪れたのは5月末日。つまり、会期最終日の前日に当たる土曜です。今回は時間に限りがあったため、お馴染みの東山魁夷館はパスさせて戴き……
企画展会場となっている、1966年竣工の旧館のみ見学。入場すると、生前の山下清を御存知であろう、御年輩の方々から、お子さんの手を引いていらした、お若いお母様方まで。ご来館の皆様は幅広い年齢層で、和やかな雰囲気です。
記録映画『はだかの天才画家 山下清』を放映中の受付ロビーには、「祝 来場2万人」の愛らしい“くすだま”が飾られてました。ちなみに長野市の人口は約38万人なので、平均すると19人に1人は来場なさった感じです。
展示を一巡後、ミュージアムショップで、『パリのエッフェル塔』のクリアファイルと、清美社(山下清作品管理事務局)発行の『山下清作品集』を購入。企画展仕様の作品集も、あったんですが。参考資料にしたかったので、掲載作品数が多い&作品修復の記事や略年譜が詳細な方を、選びました。
本篇中では、言及出来ませんでしたけど。1961年のヨーロッパ旅行中に描かれたペン画水彩作品は、いずれも素晴らしく洒脱。洗練を極めた闊達な描線と、温かみのある穏やかな色彩は、50年以上経った今でも古さを感じさせません。
特に、ペン画水彩の“最高傑作”として一押し!なのが『パリのエッフェル塔』。
伝えられる所では、下絵無し・用具無しのフリーハンドで、画面の下から上へ、淀みなく一気に描出して行くのが、画伯の常だったようですが……
『きれいな景色やめずらしい物』を、ボンヤリ眺めているだけのように見えて。
山下清の脳裏では描くべき絵が、精細な解像度と澄明な色彩を伴った映像記憶として、細部に至るまで完璧に構成されていたんですね!
***
さて美術館を出ると、同行してくれた地震・防災クラスタな相方が、善光寺に寄りたいと所望。何度もお参りした事あるのに、なぜ今更?
まぁ、美術館がある城山公園のすぐ近くだし、構いませんけど……
1847年5月に発生した善光寺地震は、推定マグニチュード7.4。折悪しく御開帳の真っ最中で、市中だけでも死者2千人を超える被害があったとのこと。柱の傷には何の掲示もありませんが、境内に犠牲者の回向を祈念する塚があります。
この後、大門脇の八幡屋礒五郎で、当代ご店主が考案した七味マカロンをお土産に。北陸新幹線開業を来春に控え、駅前・駅舎絶賛工事中な長野駅から、あさま536号で(鉄分多めでもある相方は、E7系グリーン車試乗もバッチリ織り込み済みw)レッグレスト付きシートの心地好さに爆睡しつつ、帰京しました。
長野県信濃美術館の「放浪の天才画家 山下清展」は、画伯のお人柄がジンワリ伝わって来る、とっても素敵な企画展でしたv
訪れたのは5月末日。つまり、会期最終日の前日に当たる土曜です。今回は時間に限りがあったため、お馴染みの東山魁夷館はパスさせて戴き……
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| 正面入り口への階段に、画伯の自画像がディスプレイされてました |
企画展会場となっている、1966年竣工の旧館のみ見学。入場すると、生前の山下清を御存知であろう、御年輩の方々から、お子さんの手を引いていらした、お若いお母様方まで。ご来館の皆様は幅広い年齢層で、和やかな雰囲気です。
記録映画『はだかの天才画家 山下清』を放映中の受付ロビーには、「祝 来場2万人」の愛らしい“くすだま”が飾られてました。ちなみに長野市の人口は約38万人なので、平均すると19人に1人は来場なさった感じです。
展示を一巡後、ミュージアムショップで、『パリのエッフェル塔』のクリアファイルと、清美社(山下清作品管理事務局)発行の『山下清作品集』を購入。企画展仕様の作品集も、あったんですが。参考資料にしたかったので、掲載作品数が多い&作品修復の記事や略年譜が詳細な方を、選びました。
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| 下から重ねた順に、出品目録・クリアファイル・作品集・入場券 |
本篇中では、言及出来ませんでしたけど。1961年のヨーロッパ旅行中に描かれたペン画水彩作品は、いずれも素晴らしく洒脱。洗練を極めた闊達な描線と、温かみのある穏やかな色彩は、50年以上経った今でも古さを感じさせません。
特に、ペン画水彩の“最高傑作”として一押し!なのが『パリのエッフェル塔』。
伝えられる所では、下絵無し・用具無しのフリーハンドで、画面の下から上へ、淀みなく一気に描出して行くのが、画伯の常だったようですが……
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| この絵に限っては、道路の真ん中に立ってる 交通整理のお巡りさんから描いたのかな〜?などと妄想w 端正なパースペクティブと精緻な描線が超絶美味なのですv (ジュルル) |
山下清の脳裏では描くべき絵が、精細な解像度と澄明な色彩を伴った映像記憶として、細部に至るまで完璧に構成されていたんですね!
***
さて美術館を出ると、同行してくれた地震・防災クラスタな相方が、善光寺に寄りたいと所望。何度もお参りした事あるのに、なぜ今更?
まぁ、美術館がある城山公園のすぐ近くだし、構いませんけど……
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| 本堂向かって左の回廊に、用があるらしい……なんだろ? |
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| あれっ? 柱に大きな傷痕が! |
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| 善光寺地震の際、梵鐘が落ちてぶつかったそうで……ひゃあ、知らなかった! ちなみに、この鐘は戦後に寄進された物。当時の梵鐘は戦時徴用されちゃったのかな? |
1847年5月に発生した善光寺地震は、推定マグニチュード7.4。折悪しく御開帳の真っ最中で、市中だけでも死者2千人を超える被害があったとのこと。柱の傷には何の掲示もありませんが、境内に犠牲者の回向を祈念する塚があります。
この後、大門脇の八幡屋礒五郎で、当代ご店主が考案した七味マカロンをお土産に。北陸新幹線開業を来春に控え、駅前・駅舎絶賛工事中な長野駅から、あさま536号で(鉄分多めでもある相方は、E7系グリーン車試乗もバッチリ織り込み済みw)レッグレスト付きシートの心地好さに爆睡しつつ、帰京しました。
2014年6月18日水曜日
視覚の天才 (3)
>>『視覚の天才 (1)』を読む
>>『視覚の天才 (2)』を読む
戦前にも17歳にして、美術雑誌『みづゑ』の特集記事で紹介されたり、銀座の画廊で個展を開催したり。“天才少年”山下清は、安井曾太郎をはじめとする画家や、ジャーナリストの注目を集めていたが。
1953年・31歳を迎えた秋に、その画才だけでなく、個性的な“ライフスタイル”を取材しようと、グラフ雑誌『Life』の特派員が来日する。しかし折悪しく、お目当ての“天才画家”は、一昨年の5月以来、放浪中ゆえの行方知れず。
それを知った朝日新聞が、通信網を駆使して捜索を開始。翌年1月6日には、遂に全国紙上に捜索記事が掲載され、“リアル・ウォーリーをさがせ!”とでも言うべき事態が出来した。これが功を奏し、4日後に大好きな桜島をボンヤリ眺めていた所を、鹿児島の高校生に“発見”されるのだが……
容貌・風体が周知され、気ままな放浪生活を送る事が、事実上、不可能となる。
致し方なく、迎えに来てくれた弟と、実家に戻った山下清を待ち受けていたのは、思いも寄らぬ原稿依頼。15年間の放浪生活を克明に綴った日記を、東京タイムズで連載することになったのだ。
これを発端に、彼の“キャラクター”が世人の関心を集め、徳川夢声との対談が週刊誌に掲載されたり、記録映画が製作されたり、バラエティ番組へ出演したり。映画や舞台・テレビドラマでお馴染みの、“裸の大将”が構想・脚色されて行く。
もちろん、画業の方も多忙となった。鹿児島で“発見”された2年後に、東京の大丸百貨店で開催された「山下清作品展」は大盛況。約1ヶ月で入場者は80万人を超えた、とも言われ、翌年には、全国約50ヶ所で催される運びとなる。
律儀な画家は、自由な放浪が叶わなくなった無聊を慰める意図もあり、出展会場へ出向いたらしい。けれど行く先々で、決まってファンに囲まれてしまい、以前のように『きれいな景色やめずらしい物』を眺めている訳にはいかなかった。
その合間にも、小は雑誌や本の挿絵から大はモザイク壁画まで。
相次ぐ依頼に、放浪中は無尽と思えた時間が、消費されていく。
油彩では絵の具が乾くのを待ち切れないと、以前と変わらず好んでいた貼絵さえ、落ち着いて取り組む事が難しくなったのか。更に手軽な、黒のフェルトペンを用いた素描に、水彩で着色した作品が、散見されるようになる。
心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を』“入力”する至福と、脳裏に焼き付いた映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する忘我に、時間を忘れて浸る事ができなくなったのは、なにやら気の毒にも思えるが。
境遇の激変は期せずして、映像記憶という“異能”が命ずるまま、『視覚の下僕』となる桎梏……“平行遠近法”すなわち、法悦の恍惚へ至る過程に欠かす事のできない“プロトコル”……から、解放される事でもあったのではないだろうか?
そして、わざわざ己を訪い対価を支払ってまで、絵を描いて欲しいと乞い願う、他我の存在を識った時。山下清は生まれて初めて、「絵を描きたい!」「絵を描こう!」という自我を、認知できたのではないだろうか?
戦時下の徴兵検査でも、不合格。戦後、職業安定所で紹介された仕事も、一日で辞めてしまった。誰もが世のため人のため、祖国を復興するため勤労に励んでいる世界で、たった一人。桜島を、ボンヤリ眺めているだけだった自分が……
(絵を描く事が……僕の、仕事なんだな)
画家を天職と認知した瞬間。山下清は、“異能”がもたらす本人にも理解し難い衝動を、抑え切れずに出奔してしまうのではなく、生まれて初めて明晰な自意識、所謂メタ認知を以て、美しい風景を希求し、旅に出たいと切望したのではないだろうか?
彼が目指したのは、洋画を志す者なら誰もが憧れる、ヨーロッパだった。
***
1965年制作の「ロンドンのタワーブリッジ」は、「貼絵になったヨーロッパ」と題された展示の、最後に掲げられていた。
>>『視覚の天才 (2)』を読む
戦前にも17歳にして、美術雑誌『みづゑ』の特集記事で紹介されたり、銀座の画廊で個展を開催したり。“天才少年”山下清は、安井曾太郎をはじめとする画家や、ジャーナリストの注目を集めていたが。
1953年・31歳を迎えた秋に、その画才だけでなく、個性的な“ライフスタイル”を取材しようと、グラフ雑誌『Life』の特派員が来日する。しかし折悪しく、お目当ての“天才画家”は、一昨年の5月以来、放浪中ゆえの行方知れず。
それを知った朝日新聞が、通信網を駆使して捜索を開始。翌年1月6日には、遂に全国紙上に捜索記事が掲載され、“リアル・ウォーリーをさがせ!”とでも言うべき事態が出来した。これが功を奏し、4日後に大好きな桜島をボンヤリ眺めていた所を、鹿児島の高校生に“発見”されるのだが……
容貌・風体が周知され、気ままな放浪生活を送る事が、事実上、不可能となる。
致し方なく、迎えに来てくれた弟と、実家に戻った山下清を待ち受けていたのは、思いも寄らぬ原稿依頼。15年間の放浪生活を克明に綴った日記を、東京タイムズで連載することになったのだ。
これを発端に、彼の“キャラクター”が世人の関心を集め、徳川夢声との対談が週刊誌に掲載されたり、記録映画が製作されたり、バラエティ番組へ出演したり。映画や舞台・テレビドラマでお馴染みの、“裸の大将”が構想・脚色されて行く。
もちろん、画業の方も多忙となった。鹿児島で“発見”された2年後に、東京の大丸百貨店で開催された「山下清作品展」は大盛況。約1ヶ月で入場者は80万人を超えた、とも言われ、翌年には、全国約50ヶ所で催される運びとなる。
律儀な画家は、自由な放浪が叶わなくなった無聊を慰める意図もあり、出展会場へ出向いたらしい。けれど行く先々で、決まってファンに囲まれてしまい、以前のように『きれいな景色やめずらしい物』を眺めている訳にはいかなかった。
その合間にも、小は雑誌や本の挿絵から大はモザイク壁画まで。
相次ぐ依頼に、放浪中は無尽と思えた時間が、消費されていく。
油彩では絵の具が乾くのを待ち切れないと、以前と変わらず好んでいた貼絵さえ、落ち着いて取り組む事が難しくなったのか。更に手軽な、黒のフェルトペンを用いた素描に、水彩で着色した作品が、散見されるようになる。
心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を』“入力”する至福と、脳裏に焼き付いた映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する忘我に、時間を忘れて浸る事ができなくなったのは、なにやら気の毒にも思えるが。
境遇の激変は期せずして、映像記憶という“異能”が命ずるまま、『視覚の下僕』となる桎梏……“平行遠近法”すなわち、法悦の恍惚へ至る過程に欠かす事のできない“プロトコル”……から、解放される事でもあったのではないだろうか?
そして、わざわざ己を訪い対価を支払ってまで、絵を描いて欲しいと乞い願う、他我の存在を識った時。山下清は生まれて初めて、「絵を描きたい!」「絵を描こう!」という自我を、認知できたのではないだろうか?
戦時下の徴兵検査でも、不合格。戦後、職業安定所で紹介された仕事も、一日で辞めてしまった。誰もが世のため人のため、祖国を復興するため勤労に励んでいる世界で、たった一人。桜島を、ボンヤリ眺めているだけだった自分が……
(絵を描く事が……僕の、仕事なんだな)
画家を天職と認知した瞬間。山下清は、“異能”がもたらす本人にも理解し難い衝動を、抑え切れずに出奔してしまうのではなく、生まれて初めて明晰な自意識、所謂メタ認知を以て、美しい風景を希求し、旅に出たいと切望したのではないだろうか?
彼が目指したのは、洋画を志す者なら誰もが憧れる、ヨーロッパだった。
***
1965年制作の「ロンドンのタワーブリッジ」は、「貼絵になったヨーロッパ」と題された展示の、最後に掲げられていた。
2014年6月9日月曜日
視覚の天才 (2)
>>『視覚の天才 (1)』を読む
「長岡の花火」を描いた当時、山下清の放浪は“最盛期”を迎えている。
1940年・18歳にして始まった、その“癖(へき)”。当初は徴兵される事への怖れが、主な動機だった。2年半ほど経って「二十歳を過ぎたから、もう大丈夫」と思い込み、母の元へ。意想に反して、強引に検査場へ連れて行かれるも、結果は不合格。
晴れて兵役免除となり、12歳から養護されていた学園へ戻った彼は、放浪中の映像記憶を、驚異的な精確さで貼絵や日記に“出力”する。しかし、僅か2〜3ヶ月後には、二度目にして最長の、5年余りに渉る放浪へ出奔してしまうのだ。
時折、母の家や学園に戻りながら、放浪を繰り返す生活は、戦中戦後を跨ぎ15年に及んだ。この“癖”を改める旨、学園長に宛てて認めた「誓約書」からは、それが本人にとっても理解し難く、抑え切れない衝動だった様子が伺える。
戦後は油彩にも取り組み、造形・色彩のセンスは一層磨かれていった。
日常に取材した静物画や肖像画に、ハッとするほど高度に洗練された表現が、散見されるようになる。だが風景画となると、お馴染みの“平行遠近法”で描かれた、童画風の作品ばかり。
思うに放浪時代の彼は……
時間を忘れて心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を見る』至福と、
脳裏に焼き付いた精緻鮮明な映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する
忘我の法悦を、最初の出奔で覚えてしまった“異能”が命ずるままに……
『視覚の下僕』となっていたのではなかろうか。
頑固に繰り返された“平行遠近法”は、「僕は喋る時『テン』や『マル』と言わないので」と言い張り、決して句読点は交えず文字のみを几帳面に連ね、放浪日記を綴った罫線入りのノートと同じく、映像記憶を“出力”する恍惚に浸る過程で、欠かす事の出来ない“プロトコル”だった、とも考えられる。
ところが1950年代の後半から、あれほど拘泥していた“平行遠近法”に、奥行きと立体感を描写する透視図法が添加されていく。そして風景画に顕れた構図の変容は、山下清自身の心に起きた劇的な“変化”と、完璧に同期していた。
30歳を過ぎても抑え難かった放浪癖を、改めざるを得ない事態が生じたのだ。
***
1954年制作の『桜島』は、「放浪の終止符」と題された一隅に展示されていた。
画面の上半分を超えて、黒い夜空が大きく広がる「長岡の花火」とは対照的に、
冬でも温暖な南国の陽光が、穏やかに照り映える、明朗な色調で彩られた貼絵。
幼弱な者のみに宿る聖性が、一枚の絵画として具現化したかの如く、
無心であるがゆえの静謐と、未熟であるがゆえの永遠を湛えている。
近景には、放浪の途上、迷う事なく次の町へ行き着くため、好んで辿った線路。その直上に配した線路沿いの砂利道と併せ、踏み出す足元をジッと見下ろしていた歩みのままに、真上から見た構図で描いた。
導きとなってくれた事へ、深く感謝するかのように
慣れ親しんだ“相棒”との、訣別を期するかのように
細かく千切った紙片を丹念に並べ、丁寧に誂えた工芸品を想わせる緻密さで、真摯篤実に描かれている。道床の上には、保線作業員。傍に人数分の弁当包みを、大きな急須や丸い盆に並べた湯呑みも添えて、描き込んである所が微笑ましい。
路盤下の耕地には、鍬を振るう人と草を刈る人。線路沿いの道には、仕事や所用へ赴く人々。中景の海上には、釣果を積んだ小船に乗って、浜へ戻る漁師たち。画面左端に小さく描かれた親子は、船を出迎えに来たのだろうか。
片々と雲が浮かぶ、麗らかな晴天の下。
錦江湾の向こうに悠然と聳える、大好きな桜島が見守っているのは、誰もが己の仕事を持ち、世のため人のため、勤労に励んでいる世界。
(きれいな景色を、ボンヤリ眺めてるのは……僕、ひとりなんだな)
純然たる“平行遠近法”で描かれた最後の貼絵は、宗教画にも似た端正な様式美の裡に、画家の心に生じた“変化”を、既にして描出していたのかも知れない。
>>『視覚の天才 (3)』を読む
「長岡の花火」を描いた当時、山下清の放浪は“最盛期”を迎えている。
1940年・18歳にして始まった、その“癖(へき)”。当初は徴兵される事への怖れが、主な動機だった。2年半ほど経って「二十歳を過ぎたから、もう大丈夫」と思い込み、母の元へ。意想に反して、強引に検査場へ連れて行かれるも、結果は不合格。
晴れて兵役免除となり、12歳から養護されていた学園へ戻った彼は、放浪中の映像記憶を、驚異的な精確さで貼絵や日記に“出力”する。しかし、僅か2〜3ヶ月後には、二度目にして最長の、5年余りに渉る放浪へ出奔してしまうのだ。
時折、母の家や学園に戻りながら、放浪を繰り返す生活は、戦中戦後を跨ぎ15年に及んだ。この“癖”を改める旨、学園長に宛てて認めた「誓約書」からは、それが本人にとっても理解し難く、抑え切れない衝動だった様子が伺える。
戦後は油彩にも取り組み、造形・色彩のセンスは一層磨かれていった。
日常に取材した静物画や肖像画に、ハッとするほど高度に洗練された表現が、散見されるようになる。だが風景画となると、お馴染みの“平行遠近法”で描かれた、童画風の作品ばかり。
思うに放浪時代の彼は……
時間を忘れて心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を見る』至福と、
脳裏に焼き付いた精緻鮮明な映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する
忘我の法悦を、最初の出奔で覚えてしまった“異能”が命ずるままに……
『視覚の下僕』となっていたのではなかろうか。
頑固に繰り返された“平行遠近法”は、「僕は喋る時『テン』や『マル』と言わないので」と言い張り、決して句読点は交えず文字のみを几帳面に連ね、放浪日記を綴った罫線入りのノートと同じく、映像記憶を“出力”する恍惚に浸る過程で、欠かす事の出来ない“プロトコル”だった、とも考えられる。
ところが1950年代の後半から、あれほど拘泥していた“平行遠近法”に、奥行きと立体感を描写する透視図法が添加されていく。そして風景画に顕れた構図の変容は、山下清自身の心に起きた劇的な“変化”と、完璧に同期していた。
30歳を過ぎても抑え難かった放浪癖を、改めざるを得ない事態が生じたのだ。
***
1954年制作の『桜島』は、「放浪の終止符」と題された一隅に展示されていた。
画面の上半分を超えて、黒い夜空が大きく広がる「長岡の花火」とは対照的に、
冬でも温暖な南国の陽光が、穏やかに照り映える、明朗な色調で彩られた貼絵。
幼弱な者のみに宿る聖性が、一枚の絵画として具現化したかの如く、
無心であるがゆえの静謐と、未熟であるがゆえの永遠を湛えている。
近景には、放浪の途上、迷う事なく次の町へ行き着くため、好んで辿った線路。その直上に配した線路沿いの砂利道と併せ、踏み出す足元をジッと見下ろしていた歩みのままに、真上から見た構図で描いた。
導きとなってくれた事へ、深く感謝するかのように
慣れ親しんだ“相棒”との、訣別を期するかのように
細かく千切った紙片を丹念に並べ、丁寧に誂えた工芸品を想わせる緻密さで、真摯篤実に描かれている。道床の上には、保線作業員。傍に人数分の弁当包みを、大きな急須や丸い盆に並べた湯呑みも添えて、描き込んである所が微笑ましい。
路盤下の耕地には、鍬を振るう人と草を刈る人。線路沿いの道には、仕事や所用へ赴く人々。中景の海上には、釣果を積んだ小船に乗って、浜へ戻る漁師たち。画面左端に小さく描かれた親子は、船を出迎えに来たのだろうか。
片々と雲が浮かぶ、麗らかな晴天の下。
錦江湾の向こうに悠然と聳える、大好きな桜島が見守っているのは、誰もが己の仕事を持ち、世のため人のため、勤労に励んでいる世界。
(きれいな景色を、ボンヤリ眺めてるのは……僕、ひとりなんだな)
純然たる“平行遠近法”で描かれた最後の貼絵は、宗教画にも似た端正な様式美の裡に、画家の心に生じた“変化”を、既にして描出していたのかも知れない。
>>『視覚の天才 (3)』を読む
2014年6月4日水曜日
視覚の天才 (1)
5月末日。あさま515号の車窓は、麦秋の黄金色と新緑の萌黄色に彩られていた。
読みさしの文庫本を、携えてはいたが。眩しい陽光の下、照り映える色彩に心惹かれ、さして進まぬうちに閉じてしまう。
昨年の夏以来、ずっと焦がれていた『放浪の天才画家』の“最高傑作”を、観に行くのだ。活字を追って仄暗い脳裏に、架空の光景を妄想するよりも。明るい窓外に、彼の愛した『きれいな景色』を眺めながら向かう方が、きっと相応しい。
***
生まれて初めて観た展覧会で、脳裏に刻まれた「長岡の花火」。1950年に制作されたその貼絵が、山下清の代表作である事は、間違いない。
画面の下辺から平行に、近景から遠景へ。
河原にひしめく花火見物の群衆は、一人ずつ律儀に描出された後姿が、次第に小さくなり……丹念に並べられた、無数の石ころへと変じて行く。人波の先には、蕩々と流れる信濃川。細波立った水面に映じた、花火の反射光が目映く煌めき、その楕円の中心に、花火師達が乗り込んだ小舟が一艘ずつ浮かぶ。
対岸にも、人の手業とは信じ難いほど、細かく千切った紙片を砂子の如く並べ、地平線上には、遙かな山並みを在るが儘の容で描き……画面の上半分を超えて広がる、無数の星々をちりばめた夜空には、丁寧に撚った極細のコヨリを、幾本も精密な放射状に貼り付けて、見事な花火の大輪を色鮮やかに描いた。
度重なる放浪から、ふらりと舞い戻った養護施設で、誰に教わる事も無く。
驚異的な映像記憶を元に貼絵を制作する毎、独自に編み出された“超絶技巧”は、瞠目すべきものだけれど。その構図はまるで、児童画の様相。つまり透視図法が未成熟で、立体感が表現出来ていないのだ。
しかし昨年の夏、『美の巨人たち』で放映された「ロンドンのタワーブリッジ」では。鮮烈な色彩が躍動する巧緻な貼絵と、端正なパースペクティブが描写する立体感が、完璧に共存していた。
山下清を素朴派と見做し、画法の未熟さこそ評価すべき作風と考える向きは、童画然とした「長岡の花火」を、画家の“最高傑作”に挙げるかも知れない。実際、展覧会のチケットや作品集の表紙には、この作品がデザインされている。
だが個人的には、手技だけでなく絵画技術も頂点に達した晩期の貼絵、殊に1965年に制作された「ロンドンのタワーブリッジ」を、“最高傑作”と称したい。更に言えば、幼い私が“行ったと思っている”「山下清原画展」の記憶を上書きする事で、『視覚の囚人』が『視覚の天才』へと変貌した過程を、見極めたかった。
>>『視覚の天才 (2)』を読む
読みさしの文庫本を、携えてはいたが。眩しい陽光の下、照り映える色彩に心惹かれ、さして進まぬうちに閉じてしまう。
昨年の夏以来、ずっと焦がれていた『放浪の天才画家』の“最高傑作”を、観に行くのだ。活字を追って仄暗い脳裏に、架空の光景を妄想するよりも。明るい窓外に、彼の愛した『きれいな景色』を眺めながら向かう方が、きっと相応しい。
***
生まれて初めて観た展覧会で、脳裏に刻まれた「長岡の花火」。1950年に制作されたその貼絵が、山下清の代表作である事は、間違いない。
画面の下辺から平行に、近景から遠景へ。
河原にひしめく花火見物の群衆は、一人ずつ律儀に描出された後姿が、次第に小さくなり……丹念に並べられた、無数の石ころへと変じて行く。人波の先には、蕩々と流れる信濃川。細波立った水面に映じた、花火の反射光が目映く煌めき、その楕円の中心に、花火師達が乗り込んだ小舟が一艘ずつ浮かぶ。
対岸にも、人の手業とは信じ難いほど、細かく千切った紙片を砂子の如く並べ、地平線上には、遙かな山並みを在るが儘の容で描き……画面の上半分を超えて広がる、無数の星々をちりばめた夜空には、丁寧に撚った極細のコヨリを、幾本も精密な放射状に貼り付けて、見事な花火の大輪を色鮮やかに描いた。
度重なる放浪から、ふらりと舞い戻った養護施設で、誰に教わる事も無く。
驚異的な映像記憶を元に貼絵を制作する毎、独自に編み出された“超絶技巧”は、瞠目すべきものだけれど。その構図はまるで、児童画の様相。つまり透視図法が未成熟で、立体感が表現出来ていないのだ。
しかし昨年の夏、『美の巨人たち』で放映された「ロンドンのタワーブリッジ」では。鮮烈な色彩が躍動する巧緻な貼絵と、端正なパースペクティブが描写する立体感が、完璧に共存していた。
山下清を素朴派と見做し、画法の未熟さこそ評価すべき作風と考える向きは、童画然とした「長岡の花火」を、画家の“最高傑作”に挙げるかも知れない。実際、展覧会のチケットや作品集の表紙には、この作品がデザインされている。
だが個人的には、手技だけでなく絵画技術も頂点に達した晩期の貼絵、殊に1965年に制作された「ロンドンのタワーブリッジ」を、“最高傑作”と称したい。更に言えば、幼い私が“行ったと思っている”「山下清原画展」の記憶を上書きする事で、『視覚の囚人』が『視覚の天才』へと変貌した過程を、見極めたかった。
>>『視覚の天才 (2)』を読む
2014年5月11日日曜日
視覚の囚人
天才と称される描き手に,心惹かれるようになったのは……
初めて観た展覧会が山下清の原画展だった事も、やはり無縁ではないのだと思う。連れて行ってくれた母の背に、4歳下の妹が負われていたか、定かでない。すなわちエピソード記憶が、文字通り覚束無いほど幼かったのに、『長岡の花火』が展示された会場の情景は、脳裏にハッキリと刻まれている。
とは言え、公式サイトでわざわざ注意喚起なさっているくらい、贋作品で構成された展覧会・美術館が多発・横行しているらしく。私が行ったと思っている「山下清原画展」・記憶している『長岡の花火』は、いったい“本物”だったのか?
大変遺憾な事だが、別の意味で心許無い。
改めて、山下清作品管理事務局の協力で開催されている「放浪の天才画家 山下清展」を、長野へ観に行こうと思っている。
贋作が世に溢れてしまった遠因は、放浪中に受けた恩義へ作品で謝礼した、という映像作品中の“演出”を、“事実”と誤認されたが故。現実の山下清は放浪中、『きれいな景色やめずらしい物を見る』のみで、描くのは帰るべき場所へ戻ってから。『ゆっくり思い出して』行う事だった(ただし、放浪生活に終止符を打った後のヨーロッパ旅行では、初めてスケッチブックを持参した由)。
つまり山下清の脳は、視覚野で受容した刺激を、網膜に映じたままの精緻細密な解像度と鮮明瞭然たる色彩を伴って、長期記憶へ移行出来たのだ。成人後も、極めて高度な映像記憶能力を保持し続ける、“異能”の持ち主だったと言う事を意味する。
本邦の『天才画家』が49歳で早世した、3年後。奇しくも彼が、晩年の傑作『ロンドンのタワーブリッジ』の想を得た街で、もう一人の“異能”が生を受けた。
山下清と同じく、奇跡と称すべき鋭敏な視覚と映像記憶能力を有し、精細でありながら不可思議な躍動に溢れた都市風景を描く、スティーブン・ウィルシャーだ。
半世紀先んじた天才が、3歳の時に重篤な消化不良を患ったが為、言語障害・知的障害に見舞われたように。スティーヴン・ウィルシャーも、幼少時から重い言語障害を抱えており、3歳で自閉症と診断された。また、病死・事故死の別はあれど、両人とも、年端も行かぬうちに、実父を亡くしている。
しかし、困難の多い境遇から養護施設へ入所した結果、驚異的な“描く力”を見出され、熱心な支援者を得て、天賦の才能が開花した点も、共通していた。
神経科学は専門でないので、オリヴァー・サックスが『火星の人類学者』で詳述している、少年期から青年期のスティーヴン・ウィルシャーについて(第六章「神童たち」)読んだ限りの、私見だが。
二人の『天才画家』は、本来、言語を習得し、知能を発達させ、社会性を獲得すべき乳幼児期に、過ぎるほど敏感な視覚で、その脳を謂わば“占拠”されてしまった結果、心理的機能の発達に障害を抱える事になったのだ、と思う。
殊にスティーヴンは、凡人の努力では到達し得ない傑出した映像記憶を、“異能”として天から与えられた代わりに、言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、ほぼ完全に逸してしまった。
『神童』は、“視覚の囚人”とも謂うべき、サヴァン症候群の典型症例だった。
されど現実の山下清が、映像作品中の『裸の大将』とは全く違った、個性的で魅力的な人物だったように。
スティーヴンも、『レインマン』とは全く違う人生を……“異能”の発露である作品と、彼の作品を愛する人々の支援を拠り所に。『冴えたやり方』ではないけれど、彼にしか出来ない『たったひとつの』独創的な方法で……恐らくは完全に、自覚というものを欠いたまま、切り拓いている。
科学の研究にせよ、散文の叙述にせよ。人間の創造的活動には、メタ認知能が必須だが、あくまでも凡人の枠にある限りの事。人間の脳それ自体も、『無限に広がる大宇宙』なのだ。未だ人智の外にある“可能性”の根源である事は、決して忘れてはならないと思う。
【追記】
長野県信濃美術館で開催された「放浪の天才画家 山下清展」の観賞記も、連載完結してます。御興味おありの皆様には下記リンクから、お時間許す範囲でお立ち寄り戴けますと、幸甚です。
>> 『視覚の天才 (1)』
>> 『視覚の天才 (2)』
>> 『視覚の天才 (3)』
>> 『「山下清展」取材日記』
初めて観た展覧会が山下清の原画展だった事も、やはり無縁ではないのだと思う。連れて行ってくれた母の背に、4歳下の妹が負われていたか、定かでない。すなわちエピソード記憶が、文字通り覚束無いほど幼かったのに、『長岡の花火』が展示された会場の情景は、脳裏にハッキリと刻まれている。
とは言え、公式サイトでわざわざ注意喚起なさっているくらい、贋作品で構成された展覧会・美術館が多発・横行しているらしく。私が行ったと思っている「山下清原画展」・記憶している『長岡の花火』は、いったい“本物”だったのか?
大変遺憾な事だが、別の意味で心許無い。
改めて、山下清作品管理事務局の協力で開催されている「放浪の天才画家 山下清展」を、長野へ観に行こうと思っている。
贋作が世に溢れてしまった遠因は、放浪中に受けた恩義へ作品で謝礼した、という映像作品中の“演出”を、“事実”と誤認されたが故。現実の山下清は放浪中、『きれいな景色やめずらしい物を見る』のみで、描くのは帰るべき場所へ戻ってから。『ゆっくり思い出して』行う事だった(ただし、放浪生活に終止符を打った後のヨーロッパ旅行では、初めてスケッチブックを持参した由)。
つまり山下清の脳は、視覚野で受容した刺激を、網膜に映じたままの精緻細密な解像度と鮮明瞭然たる色彩を伴って、長期記憶へ移行出来たのだ。成人後も、極めて高度な映像記憶能力を保持し続ける、“異能”の持ち主だったと言う事を意味する。
本邦の『天才画家』が49歳で早世した、3年後。奇しくも彼が、晩年の傑作『ロンドンのタワーブリッジ』の想を得た街で、もう一人の“異能”が生を受けた。
山下清と同じく、奇跡と称すべき鋭敏な視覚と映像記憶能力を有し、精細でありながら不可思議な躍動に溢れた都市風景を描く、スティーブン・ウィルシャーだ。
半世紀先んじた天才が、3歳の時に重篤な消化不良を患ったが為、言語障害・知的障害に見舞われたように。スティーヴン・ウィルシャーも、幼少時から重い言語障害を抱えており、3歳で自閉症と診断された。また、病死・事故死の別はあれど、両人とも、年端も行かぬうちに、実父を亡くしている。
しかし、困難の多い境遇から養護施設へ入所した結果、驚異的な“描く力”を見出され、熱心な支援者を得て、天賦の才能が開花した点も、共通していた。
神経科学は専門でないので、オリヴァー・サックスが『火星の人類学者』で詳述している、少年期から青年期のスティーヴン・ウィルシャーについて(第六章「神童たち」)読んだ限りの、私見だが。
二人の『天才画家』は、本来、言語を習得し、知能を発達させ、社会性を獲得すべき乳幼児期に、過ぎるほど敏感な視覚で、その脳を謂わば“占拠”されてしまった結果、心理的機能の発達に障害を抱える事になったのだ、と思う。
殊にスティーヴンは、凡人の努力では到達し得ない傑出した映像記憶を、“異能”として天から与えられた代わりに、言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、ほぼ完全に逸してしまった。
『神童』は、“視覚の囚人”とも謂うべき、サヴァン症候群の典型症例だった。
されど現実の山下清が、映像作品中の『裸の大将』とは全く違った、個性的で魅力的な人物だったように。
スティーヴンも、『レインマン』とは全く違う人生を……“異能”の発露である作品と、彼の作品を愛する人々の支援を拠り所に。『冴えたやり方』ではないけれど、彼にしか出来ない『たったひとつの』独創的な方法で……恐らくは完全に、自覚というものを欠いたまま、切り拓いている。
科学の研究にせよ、散文の叙述にせよ。人間の創造的活動には、メタ認知能が必須だが、あくまでも凡人の枠にある限りの事。人間の脳それ自体も、『無限に広がる大宇宙』なのだ。未だ人智の外にある“可能性”の根源である事は、決して忘れてはならないと思う。
【追記】
長野県信濃美術館で開催された「放浪の天才画家 山下清展」の観賞記も、連載完結してます。御興味おありの皆様には下記リンクから、お時間許す範囲でお立ち寄り戴けますと、幸甚です。
>> 『視覚の天才 (1)』
>> 『視覚の天才 (2)』
>> 『視覚の天才 (3)』
>> 『「山下清展」取材日記』
2014年5月6日火曜日
そうだ 竹橋、行こう
『竹橋』と言えば、拙宅の場合……
東京メトロ東西線の、副駅名にもなっている毎日新聞東京本社、ではなく。
さりとて、本社ビル建て替え工事中の小学館 (仮)@住友商事竹橋ビルでもなく。
『東京国立近代美術館 本館』の省略形、だったりする。
とは言え、2011年春に開催され、総入場者数 161,584人を記録した『岡本太郎展 : 生誕100年』と、毎夏恒例だった『夏休みトークラリー 2011』への参加を最後に。
上野の方へ出向く事が度々だった、ここ2年半ばかりは、すっかりご無沙汰。
そうこうする内、2012年には、開館六十周年を記念して、ギャラリー内装が全面リニューアルされたらしく。
展示のコンセプトも一新した模様、ということで黄金週間後半の連休初日に、所蔵作品展「MOMAT コレクション」行って参りました〜v
これまでは所蔵する名作・名品の数々を、「どや?参ったか!」と言わんばかりに、ガッツリ&ドッサリ大盤振舞の特盛りで展示。
画風・作風不問の悪食美術愛好家としては、他館で開催される企画展等へ“ご出張中”でない限り、アソコへ行けばアレが観られる(岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』とか福田平八郎の『雨』とか、その他いろいろ)という安心感がございましたけれど。
あまりfine artに馴染みのない方にとっては、正直「スゴイのは充分判りましたから。もう勘弁して下さい (泣)」と、途中棄権したくなっちゃう、過酷な長距離コースw でしたからねぇ……
『20世紀初頭から今日に至る約100年間の日本の近代美術のながれを』概観できる『約200点をセレクト』、そして『それぞれの鑑賞プランに合わせ』『「好きな部屋から見る」、「気になる特集だけ見る」あるいは「じっくり時間の流れを追って見る」』ってのは。
美味しい所・好きな物だけ摘まみ食い出来る、“選べるお得なプリセットコース”って感じで、かな〜り取っ付き易くなったと思います。『出品作品リスト』に目を通し、気になる作品をチェックしておけば、猶良し。
で、今年度春〜初夏の、独断と偏愛に基づくお奨めは……
第1室は、自慢の収蔵品から選りすぐりの『精華を凝縮』した『「ハイライト」のコーナー』。中村彝の『エロシェンコ氏の像』や和田三造の『南風』といった、美術の教科書や日本史の資料集で「見たコトある!」な作品が前菜にピッタリです。
第2室〜12室は、大正〜昭和の戦前・戦中・戦後〜平成に至る、各時代の世相に沿った特集を展開。お好きな一品料理をアレコレ組み合わせて、随意に楽しめる構成となってます。
殊に第5室の、挿絵画家・岩田専太郎の『特攻隊内地基地を進発す(二)』と藤田嗣治の『アッツ島玉砕』は、共に合衆国から無期限貸与されている作品。恐らくはそれが為に、画像がデータベース登録されてなかったり。この機会に是非御覧戴きたい、戦争記録画です。
更に進んだ第10室では、奥のケースに展示された、川端龍子の大作が圧巻。黒と見紛う紺地の絹本に、文字通り燃え上がるような夏草の生命力を、金泥で豪奢に描き上げた『草炎』は、いつ見ても、息を呑む迫力!
ですが今回、特にお奨めなのが、初お披露目の『新樹の曲』。丁寧に整えられた植栽の一枝一葉が、緻密に描き込まれた端正な様式美に、思わずウットリ見蕩れてしまう、洗練を極めた6曲・2双の見事な屏風絵です。にしても、板塀越しの構図は何故なのか……描き手が込めた深い想いを、是非、解説にて御一読戴きたい作品。
他、奈良美智の代表作『Harmless Kitty』の落札購入を祝し、岸田劉生の『麗子肖像(麗子五歳之像)』や小出楢重の『ラッパを持てる少年』と対峙させた第12室の展示も、この美術館だからこそ、実現した趣向。
そして、あのChim↑Pomの動画『気合い100連発』や『BLACK OF DEATH 2013』が、『竹橋』で所蔵されてた事にビックリさせられたり。新生MOMATの強烈なメッセージを感じた作品展でした。
東京メトロ東西線の、副駅名にもなっている毎日新聞東京本社、ではなく。
さりとて、本社ビル建て替え工事中の小学館 (仮)@住友商事竹橋ビルでもなく。
『東京国立近代美術館 本館』の省略形、だったりする。
とは言え、2011年春に開催され、総入場者数 161,584人を記録した『岡本太郎展 : 生誕100年』と、毎夏恒例だった『夏休みトークラリー 2011』への参加を最後に。
上野の方へ出向く事が度々だった、ここ2年半ばかりは、すっかりご無沙汰。
そうこうする内、2012年には、開館六十周年を記念して、ギャラリー内装が全面リニューアルされたらしく。
展示のコンセプトも一新した模様、ということで黄金週間後半の連休初日に、所蔵作品展「MOMAT コレクション」行って参りました〜v
これまでは所蔵する名作・名品の数々を、「どや?参ったか!」と言わんばかりに、ガッツリ&ドッサリ大盤振舞の特盛りで展示。
画風・作風不問の悪食美術愛好家としては、他館で開催される企画展等へ“ご出張中”でない限り、アソコへ行けばアレが観られる(岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』とか福田平八郎の『雨』とか、その他いろいろ)という安心感がございましたけれど。
あまりfine artに馴染みのない方にとっては、正直「スゴイのは充分判りましたから。もう勘弁して下さい (泣)」と、途中棄権したくなっちゃう、過酷な長距離コースw でしたからねぇ……
『20世紀初頭から今日に至る約100年間の日本の近代美術のながれを』概観できる『約200点をセレクト』、そして『それぞれの鑑賞プランに合わせ』『「好きな部屋から見る」、「気になる特集だけ見る」あるいは「じっくり時間の流れを追って見る」』ってのは。
美味しい所・好きな物だけ摘まみ食い出来る、“選べるお得なプリセットコース”って感じで、かな〜り取っ付き易くなったと思います。『出品作品リスト』に目を通し、気になる作品をチェックしておけば、猶良し。
で、今年度春〜初夏の、独断と偏愛に基づくお奨めは……
第1室は、自慢の収蔵品から選りすぐりの『精華を凝縮』した『「ハイライト」のコーナー』。中村彝の『エロシェンコ氏の像』や和田三造の『南風』といった、美術の教科書や日本史の資料集で「見たコトある!」な作品が前菜にピッタリです。
第2室〜12室は、大正〜昭和の戦前・戦中・戦後〜平成に至る、各時代の世相に沿った特集を展開。お好きな一品料理をアレコレ組み合わせて、随意に楽しめる構成となってます。
殊に第5室の、挿絵画家・岩田専太郎の『特攻隊内地基地を進発す(二)』と藤田嗣治の『アッツ島玉砕』は、共に合衆国から無期限貸与されている作品。恐らくはそれが為に、画像がデータベース登録されてなかったり。この機会に是非御覧戴きたい、戦争記録画です。
更に進んだ第10室では、奥のケースに展示された、川端龍子の大作が圧巻。黒と見紛う紺地の絹本に、文字通り燃え上がるような夏草の生命力を、金泥で豪奢に描き上げた『草炎』は、いつ見ても、息を呑む迫力!
ですが今回、特にお奨めなのが、初お披露目の『新樹の曲』。丁寧に整えられた植栽の一枝一葉が、緻密に描き込まれた端正な様式美に、思わずウットリ見蕩れてしまう、洗練を極めた6曲・2双の見事な屏風絵です。にしても、板塀越しの構図は何故なのか……描き手が込めた深い想いを、是非、解説にて御一読戴きたい作品。
他、奈良美智の代表作『Harmless Kitty』の落札購入を祝し、岸田劉生の『麗子肖像(麗子五歳之像)』や小出楢重の『ラッパを持てる少年』と対峙させた第12室の展示も、この美術館だからこそ、実現した趣向。
そして、あのChim↑Pomの動画『気合い100連発』や『BLACK OF DEATH 2013』が、『竹橋』で所蔵されてた事にビックリさせられたり。新生MOMATの強烈なメッセージを感じた作品展でした。
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