2014年6月9日月曜日

視覚の天才 (2)

>>『視覚の天才 (1)』を読む


「長岡の花火」を描いた当時、山下清の放浪は“最盛期”を迎えている。

1940年・18歳にして始まった、その“癖(へき)”。当初は徴兵される事への怖れが、主な動機だった。2年半ほど経って「二十歳を過ぎたから、もう大丈夫」と思い込み、母の元へ。意想に反して、強引に検査場へ連れて行かれるも、結果は不合格。

晴れて兵役免除となり、12歳から養護されていた学園へ戻った彼は、放浪中の映像記憶を、驚異的な精確さで貼絵や日記に“出力”する。しかし、僅か2〜3ヶ月後には、二度目にして最長の、5年余りに渉る放浪へ出奔してしまうのだ。

時折、母の家や学園に戻りながら、放浪を繰り返す生活は、戦中戦後を跨ぎ15年に及んだ。この“癖”を改める旨、学園長に宛てて認めた「誓約書」からは、それが本人にとっても理解し難く、抑え切れない衝動だった様子が伺える。

戦後は油彩にも取り組み、造形・色彩のセンスは一層磨かれていった。

日常に取材した静物画や肖像画に、ハッとするほど高度に洗練された表現が、散見されるようになる。だが風景画となると、お馴染みの“平行遠近法”で描かれた、童画風の作品ばかり。

思うに放浪時代の彼は……

時間を忘れて心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を見る』至福と、
脳裏に焼き付いた精緻鮮明な映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する
忘我の法悦を、最初の出奔で覚えてしまった“異能”が命ずるままに……

『視覚の下僕』となっていたのではなかろうか。

頑固に繰り返された“平行遠近法”は、「僕は喋る時『テン』や『マル』と言わないので」と言い張り、決して句読点は交えず文字のみを几帳面に連ね、放浪日記を綴った罫線入りのノートと同じく、映像記憶を“出力”する恍惚に浸る過程で、欠かす事の出来ない“プロトコル”だった、とも考えられる。

ところが1950年代の後半から、あれほど拘泥していた“平行遠近法”に、奥行きと立体感を描写する透視図法が添加されていく。そして風景画に顕れた構図の変容は、山下清自身の心に起きた劇的な“変化”と、完璧に同期していた。

30歳を過ぎても抑え難かった放浪癖を、改めざるを得ない事態が生じたのだ。

***

1954年制作の『桜島』は、「放浪の終止符」と題された一隅に展示されていた。

画面の上半分を超えて、黒い夜空が大きく広がる「長岡の花火」とは対照的に、
冬でも温暖な南国の陽光が、穏やかに照り映える、明朗な色調で彩られた貼絵。

幼弱な者のみに宿る聖性が、一枚の絵画として具現化したかの如く、
無心であるがゆえの静謐と、未熟であるがゆえの永遠を湛えている。

近景には、放浪の途上、迷う事なく次の町へ行き着くため、好んで辿った線路。その直上に配した線路沿いの砂利道と併せ、踏み出す足元をジッと見下ろしていた歩みのままに、真上から見た構図で描いた。

導きとなってくれた事へ、深く感謝するかのように
慣れ親しんだ“相棒”との、訣別を期するかのように

細かく千切った紙片を丹念に並べ、丁寧に誂えた工芸品を想わせる緻密さで、真摯篤実に描かれている。道床の上には、保線作業員。傍に人数分の弁当包みを、大きな急須や丸い盆に並べた湯呑みも添えて、描き込んである所が微笑ましい。

路盤下の耕地には、鍬を振るう人と草を刈る人。線路沿いの道には、仕事や所用へ赴く人々。中景の海上には、釣果を積んだ小船に乗って、浜へ戻る漁師たち。画面左端に小さく描かれた親子は、船を出迎えに来たのだろうか。

片々と雲が浮かぶ、麗らかな晴天の下。

錦江湾の向こうに悠然と聳える、大好きな桜島が見守っているのは、誰もが己の仕事を持ち、世のため人のため、勤労に励んでいる世界。

(きれいな景色を、ボンヤリ眺めてるのは……僕、ひとりなんだな)

純然たる“平行遠近法”で描かれた最後の貼絵は、宗教画にも似た端正な様式美の裡に、画家の心に生じた“変化”を、既にして描出していたのかも知れない。


>>『視覚の天才 (3)』を読む

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