2015年12月17日木曜日

客観的な認識・消極的な善意

何十年ぶりかで芥川龍之介の『鼻』精読したのは、無論、理由がある。

禅智内供の長い鼻のように否応なく衆目を集めてしまう、あからさまな異様ではないけれど。五感や認知の凸凹という自他共に諒解し難い“多様性”ゆえ、一層つかみ所の無い疎外感を抱える娘へ、これまで試行錯誤を重ねつつ“自家製療育”を施してきた

しかし幸甚にも、入学を許可戴けた大学で春学期の順調を見届け、いよいよ「療育」ではなく「支援」に移行すべき時機と判断できた所で、親として厳に自戒すべき陥穽、すなわち共依存の心裡を改めて、出来うる限り深く広く考察しておきたかったからだ。

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五感や認知の凸凹を抱える子ども達を、傲慢にも支援できるつもりでいた無知蒙昧と自己過信ゆえ、苦い後悔を味わった経験……娘が最初に就学した小学校で遭遇した“事件”は、忽然と消えてしまった“大切な物”と引き換えに、二つの教訓を与えてくれた。

第一に、発達障碍当事者は、politicalな軋轢に巻き込まれやすいこと。
第二には、だからこそ我が子の抱える“難儀”とのみ、向き合うべきこと。

すなわち娘の療育と、彼女に関わって下さる方々との交渉へこそ専心し、
他人様の五感や認知の凸凹へ対しては、努めて“消極的な善意”に終始する。

具体的には、診断・告知の有無を問わず、五感や認知に凸凹を抱えておられると想定すれば、言動に納得し上手く配慮できる子ども達や大人達に出遭ったとしても、当方が進んで「支援」にまで踏み込む積極性は厳に慎む、という教訓だ。

ある意味、利己的で冷淡な対応ではある。

然れど「悪い子」であれ「良い子」であれ、「幸せ」であれ「不幸せ」であれ、当事者の置かれた状況へこちらの尺度で手前勝手な優劣を付け、「支援すべき」と主観的な判断を下す積極性は、それが善意に根ざしていたとしても、五感や認知の凸凹から価値観に於いても“多様性”を呈する彼らの、尊厳に抵触するのではなかろうか?

芥川龍之介の『鼻』で喩えれば、弟子の僧は師匠に「食事の間、鼻を持上げていて欲しい」と依頼された際、快く応ずるだけで充分だった。中童子が粗相をした時は彼の無礼を窘め、自分の不在にも内供が難儀なさらぬよう、「出入りの指物師に、良い按配で鼻を支える台でも誂えさせましょうか?」とお伺いすれば最善だったのだ。

如何に強く同情を動かされようとも、本人から頼まれもせぬのに『知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって』来た軽佻と、内供の他愛もない策略に乗った振りで『口を極めて、この法を試みる事を勧め出した』浮薄は、意想外に繊細な恩師の尊厳に対する敬意と仁愛が、弟子として些か不足していたせいなのかもしれない……

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ならば「療育」をようやく“卒業”しつつある我が家の大学生に対し、
親として出来る「支援」は、どんな間合いなら『良い按配』なのか?

五感や認知に凸凹を抱える拙宅のへっぽこ娘の尊厳も、なかなか微妙にして繊細だ。親が舌を巻くほどの達観を見せるかと思えば、慮外な点に未学習があり、世間的には“常識”と言ってよい価値観の不全が、ふとした拍子に見つかったりもする。

まずは半年前の拙ブログで綴ったとおり『明確に助言・提案できる支援者や専門家へ、迷わず・躊躇せず相談することが、最善かつ充分な対応』と心得、娘が大学から持ち帰ってくれた学内週刊誌発達障がい支援特集を、ジックリ拝読してみた。

無論、全学に幾人もいらっしゃる専門家の先生がたが、監修なさったであろう記事だから、自治体などで配布されている旧態依然な啓蒙パンフとは、一線を画す内容。とは言え暗中模索の“自家製療育”は、当事者の皆さんがお書き下さった文章を、何より有り難く尊い光明として歩んで来たわけで。個人的には、馴染み深い記述が並ぶ。

然りながら、『友人が、発達障がいかもしれないと思ったら』と題された最終節の文頭に至り、不覚にも胸が熱くなった。
発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
ここまでキッパリ断言して下さる専門家が、偶然にも補欠合格で入学を許可戴けた大学に、いて下さったとは! 無量の感慨が押し寄せると同時に、娘の“多様性”に気付いて下さった保育園の先生から、卒園式に頂戴した言葉を、突然思い出した。
ホントはどんな子でも普通級で学べるのが、当たり前のことなんですよ。
そうですね、N先生。でも、ウチの子がそこで学べるまでに成長できたのは、持って生まれた“多様性”を「良い子」の面も「悪い子」の面も、俯瞰的に平らかにご覧下さる先生がたと巡り逢えた、数々の偶然のおかげなんです。

“偶然”ではなく『どんな子でも』『当たり前の』“必然”となるために
五感や認知に凸凹がある子が抱えている、どんな“多様性”に対しても

客観的な認識で彼らの言動に納得し、消極的な善意過不足無く配慮する事が、
『どんな人でも』『当たり前の』“常識”になって欲しいと、私は願っている。


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