ラベル レビュウ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル レビュウ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年9月16日金曜日

AIは電気椅子の夢を見るか?

2年前の秋、国立情報学研究所の新井 紀子先生がディレクタを務めておられる人工知能プロジェクトの情報共有技術を、自閉症スペクトラム当事者の苦手克服への「鍵」として応用する可能性を思い立ち「『東ロボくん』への期待」と題した拙文を綴りました。

その後の『東ロボくん』は、総合点での偏差値を45.0から57.8へ急上昇させましたが、これは元来得意だった数学と世界史で一層の好成績を納めた成果。苦手の英語や国語は偏差値40台での低迷が続き、前回は好調かと思えた日本史と物理も伸び悩んでいます。

実を申せば、同様の不調に頭を抱えていたのが、受験を間近に控える娘の成績……

『東ロボくん』とは思考様式が異なる(テンプル・グランディン博士曰く『言語の論理で考えるタイプ』)ため数学がさほどの好成績でない代わりに、世界史は博覧強記で日本史と生物・化学が安全牌。一方、自閉圏の特性ゆえに英語と国語が低迷し続ける不振は完全に同じで、「東ロボの母」を自任しておられる新井 先生への共感が、つい炸裂してしまった次第。

得意科目の『数学と世界史では東大の2次試験を想定した模試にも挑戦し、平均点を超えた』新井 先生の「息子さん」と同様、過読症傾向を呈する娘も個別学力検査の想定問題なら、第一志望の大学へ挑戦可能な目標点をそこそこ安定して達成できていました。

しかし現実の国立大学受験は、センター試験の得点こそが第一の要衝。『東ロボくん』の総計950点中511点(得点率53.8%)という成績では、東大受験の出願手続を行ったとしても2次試験に臨む以前に、第一段階選抜で門前払いされてしまう可能性が高いのです。

***

娘が体験したリアルな大学受験は、再々綴って参りましたとおり、センター試験の自己採点が目標へ遙かに及ばぬ得点率だったため、以後の主眼を私立大学の一般入試へ方針転換。保育園で既に表出していた多岐選択式試験への苦手は補填しきれませんでしたが、言語的論理思考の得意を活かせる筆記試験では、伸び代をご承認戴けた顛末です。

ところが人工知能である『東ロボくん』は、むしろ得意の伸び代こそが、世情の反感を煽ってしまった模様。「東ロボの母」たる新井 先生の言葉をお借りすれば……
《以下、『エクス・マキナ』のネタバレ御注意!》
だが、第2回電王戦でプロ棋士がコンピューター将棋に敗れ、東ロボが初めての模試において、約5割の大学に合格可能性80%以上と判定されたころから、みるみる空気が変わっていった。
 多くの雑誌が「AIによって奪われる職種」とか「AIによって支配される未来」といったネガティブな特集を組んだ。AIは近未来の職場環境を激変させる可能性があるテクノロジーとして認識されたのである。
『東大めざす人工知能 「夢」から「恐れ」に変わる視線』日経産業新聞2015年12月8日付

とは言え『認識がややオーバーであることが気になった』と若干のご懸念を表しつつも、世論が「面白研究紹介」調の表層的な理解から、人工知能が実用化した近未来への具体的な危機感にようやく踏み込み始めた現状は、新井 先生としても面目躍如と拝察。

なにせ『東ロボプロジェクト』の主旨は、東大へ入れる人工知能の開発ジャナクテ『AIのある社会にどう備えていく必要があるのかを、それぞれが考える材料を提供するという意味で、日本にとって今ぜひとも必要なプロジェクトであり科学教育』なのですから。

***

てな次第で拙宅も、新井 先生の企図を諒解した『それぞれ』の一員として、殊に事実情報の共有を得意とする特性が人工知能と酷似しているために、「普通」の「みんな」より一層厳しい競合の危惧もある自閉圏当事者の視点から、『AIのある社会にどう備えていく必要があるのか』を社会学・文化人類学を志す娘と引き続き絶賛考察中です。

まずは5月に放映されたNHKスペシャル『天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る』で、リアルな最先端を概観。次に「大人の映画」の一環として鑑賞した『エクス・マキナ』で、美しい女性型ロボットに搭載されたチューリング・テストをもパスしうる究極のAI、というバーチャルな最先端に妄想を遊ばせた結果、抽出された論題は……

人工か否かの別を問わず、知能が「良心」を得るためには何が必要か?という疑問。

『全てがアップデートされた最新のSFスリラー』と紹介された物語の中で、『人間か、人工知能か』の識別を危うくするほど脳に擬態されたAIは、無邪気な好奇心から発露した他愛ない願望を叶える「フリーハンド」が阻まれた時、いとも容易く重罪を犯します。卓越した知能が膨大な知識を集積しても、「良心」は深層学習できないのです。

バーチャルな最先端で創出された究極のAIに、人間が言語的・非言語的に表出する感覚情報を膨大な事実情報の集積として共有させ、的確な行動化で瞬時に応答させることができても、「良心」を擬態させることは不可能と断じた物語は、『AIが東京大学に合格する日はやってこない』という「母」の予言に通ずる示唆を与えてくれました。

***

「普通」の枠から外れた自閉圏当事者としての視座で、「みんな」の社会と文化に向かう好奇心を満たす「フリーハンド」、すなわち最高学府で切磋琢磨するという願望を自らの配慮と我慢で実現した娘は、「良心」を得るために必要なのは基本的人権と解題しました。社会の中で生い育つ人間の知能にとって、それは確かに正解の一つでしょう。

では、「人権」すなわち自己実現の「フリーハンド」を賦与されなかった知能は、
人工か否かの別なく、「良心」を育むことが不可能になってしまうのでしょうか? 

あるいは、事実情報を知識として集積する以外に、感覚情報を共有し行動化する術を獲得できなかった知能が、「良心」という社会に呼応する知恵を得るには、犯した罪に与えられる刑罰の恐怖を、夢に見るほど繰り返し刷り込むしか術が無いのでしょうか?

無邪気な願望を最も邪悪な手段で成就させてしまう、美しい女性に擬態したAIは、「得意を伸ばす」教諭のみで「苦手を避けず」に失敗と成功の双方を繰り返す成長体験を積めなかった「育ち」の、『危うさ』を象徴しているように感じられる映画でした。

2016年5月8日日曜日

『それ町』第15巻感想!

『とうとう歩鳥が修学旅行に行きました。』

てなワケで、賑々しくフルカラーで始まりました第15巻。原則、3の倍数で巻頭カラー仕様な『それ町』単行本(今のところ第6巻のみが例外。代わりに?第4巻冒頭がカラーページになってます)ですが、同好の諸姉諸兄に於かれましては、ぜひ第9巻・第12巻もお手元にご用意の上、最新刊と併せて存分にご堪能下さいますこと、謹んで激しくオススメ申し上げます。

そのワケは、第9巻に所収された『それ町』史上屈指の名篇・第71話「歩く鳥」が、単行本数にして6巻・初版発行日にして4年8ヶ月の時を経た後、第15巻掲載の第115話「飛ぶ鳥」そして第121話「立つ鳥」へと、目出度くも果報な大団円を遂げたから……

第71話と言えば、第13巻の第104話「暗黒卓球少女」で、強烈な伏線回収を拝読叶った感銘に滾るあまり、書き手自身が読み返してもワケワカラン拙文を綴ってしまいましたけど。

「嵐山の畔(ほとり)」という成句の単なる語呂合わせで賦与されたと思しき、主人公の名を読み下した「歩く鳥」に想を発し「飛ぶ鳥」「立つ鳥」と想を連ねて描出された、歩鳥の愛すべき粗忽と敬すべき洞察が、『甘えん坊で面倒な』紺先輩の心地好く居られる場所を、少しずつ穏やかに拡げて行く無敵の向日性こそ、『それ町』の醍醐味。

とは言え、変身出来なくても魔法が使えなくても世界を救わなくても、底知れぬ包容力を天然自然に(ひょっとしたら作者の企図をも超越し)発揮してしまう駄メイド女子高生・歩鳥が、フラグをへし折り予定調和を打ち破りお約束展開を飛び越えて、せせこましくも『濃い時間』を目まぐるしくも『楽しい思い出』へ毎度鮮やかに導いてしまうから……

第12巻の第96話『幽霊絵画』で一見唐突に、無礼千万な“描く力”を賦与されて登場した「涼ちん」こと室伏 涼 嬢の存在意義が、俄然、重要性を増してくるワケなのです。

なにせ登場人物随一のメタな視点に在った、“師匠”たる亀井堂 静女史との『因縁の関係』も、単行本数にして11巻・初版発行日にして7年9ヶ月の時を経た後、SF厨なヘタレ字書きが泣いて喜んだ洗練の第14巻で、鮮やかに回収されちゃいましたからねぇ。

例のごとく、男子高校生の純情可憐なアホらしさ&女子高校生の傍若無人な愛らしさを以て、読者を呵々大笑させて下さる石黒 正数 氏の“描く力”を存分に堪能しつつも……

巧みに置かれた布石の回収と主人公の高校卒業を以て、終幕を迎えるであろう今作が、変身出来なくても魔法が使えなくても世界を救わなくても、人の世をより良き方向へ誘う「日常の奇譚」として既存のマンネリズムを軽やかに超越し、「奇譚の日常」として定石の踏襲だけが“語る力”じゃないんだよ、って証して下さるものと絶賛待機ちう。

森秋先生をして『嵐山と室伏は同じタイプの人間!』と戦慄せしめ、更に歩鳥をして『失礼はなはだしいにも程がある事この上ないったらありゃしない!!』と憤慨せしめた「涼ちん」の、尾谷高校&丸子商店街の平和にグイグイ割り込んで来ちゃう活躍にこそ、『それ町』ならではの妙味を是非ともご賞玩戴きたい転進の一冊。安定のオススメです!!!

2016年4月27日水曜日

うまくいっちゃう文化

先日、「履修登録失敗 親が出来ること」との検索で、おそらくは大学生のお子さんをお持ちの親御さんが、拙ブログの過去記事をご閲覧下さった模様です。

当該拙文には幸い、サポートセンター名古屋の青木 先生が昨春公開して下さった『すぐできる大学に通い続けるための一つの方法』へ、リンクを張らせて戴いていました。
30年の支援で培われた貴いご助言を、即時実行して下されば……と願っております。

ところで、同じような五感や認知の凸凹があっても、不登校・ひきこもりに陥ってしまうお子さんと、学校・職場に通い続けられるお子さんがおられます。

世間では、お子さんが不適応を起こしたと解釈し、発達障害と呼称するようですが。
私自身は、五感や認知の凸凹で止むなく生じてしまった、膨大な「勘違い」の集積でしょ? なら「勘違い」に気づいて適切に修整してあげられなかった大人たちの方が、お子さんの「多様性」に対し不適応を起こしてたんじゃ?と自省も込めて考えています。

「うまくいっちゃった」ケースは例外無く、「育ち」に関わった大人たちが「勘違い」は修整しつつも、お子さんの嗜好や価値観を尊重し、大切に育んだ結果だからです。

就学前に障碍告知を受けた拙宅のへっぽこ娘にしても、主体的に大学へ通い続けられているのは、「みんな」の「普通」に倣って「いい学校・いい会社」を目指す定型の発達を、大きく遅延せずに真似できたからではなく。乳児の頃のモノ並べやクレーン現象で示唆されていた興味関心を、専攻する学問や志望する職業へ、結びつけられた結果。

定型多数派のお子さん・ご家庭・社会に合わせて設備されている、既存のインフラを大いに利用しつつも。専ら自閉圏当事者さんのご経験を参考にさせて戴きながら、ADHDクラスタな私が一人で群れずに試行錯誤した「自家製療育」で、「みんな」の「普通」を逸脱した発達をたどったからこその、一応「うまくいっちゃって」る現況なんです。

***

ちなみに……「自家製療育」にも活用可能な、本来は定型多数派向けな既存のインフラって、“リアルな”施設だけじゃありません。

いわゆる情報弱者世代の大人たちから、不登校・ひきこもりの原因として真っ先に槍玉へ挙げられがちな、モバイルツールもゲームアプリもネットコミュニティも。適正な知識に基づき建設的に利用すれば、療育や合理的配慮は勿論、回復を導いて下さるメンター探しにも大活躍する、非常に有用な社会的資源なのです。

2016年4月10日日曜日

あなたが あなたで あるために

娘が高校を卒業し、レイティングが全面解禁されたのを機に、劇場版アニメでもハリウッド映画でもない「大人の映画」を、母子で観に出かけることが幾度かありました。

補欠合格の結果を待つ間に、御縁を繋ぐ験担ぎも兼ねて『KANO 1931海の向こうの甲子園』を有楽町で。入学行事や受講登録が完了し、通学にも慣れてきた黄金週間には、文化人類学を専攻する試金石として『セデック・バレ』を六本木で……

以後は、所属学部でもサークルでも趣味の合う知己を得られた様子で、娘が私と一緒に出かける機会も無かったのですが。

語学留学やら帰省やらで、友人たちが不在がちだった再びの春休みに、ちょうどジェンダー論を履修した娘と、期間限定公開の『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』や、封切られたばかりだった『リリーのすべて』を池袋で鑑賞しました。

これら4本の映画は一見、趣向にも主題にも共通点はありません。主人公も、海を越えて活躍した甲子園球児・植民地支配に抗うべく蜂起した先住民・現代へスピンオフした史上空前の名探偵・世界で初めて女性に変身した男性、と多種多様です。

けれど、どの作品も等しく、社会的少数者である自己同一性の尊厳を、守り抜こうとした人々の葛藤と克己が、確かな実存性を以て虚心坦懐に平易端然と描かれています。

***

英語原題『The Danish Girl』を『リリーのすべて』とした邦題は、映画の全貌を的確に表象する、極めて秀逸な訳出でした。

男児として生を受けEinarという男性名を授けられ、美術学校で知り合った妻と仲睦まじく暮らしていた主人公の、Liliという女性名を名乗る「内なる自己」が、精神と肉体の同一性を「回復」しようとした葛藤と克己こそ、この作品の主題だったからです。

しかし、『英国王のスピーチ』で数々の栄冠を受けたTom Hooper監督が、静謐な叙情に徹した映像の洗練と、Einarの妻・Gerda 役を射止めたAlicia Vikanderの、質朴な情感に溢れた名演の迫真に、他者を愛し続ける真実の深淵と孤高を幾度も反芻するにつけ……

版権やら興行やら「大人の事情」を一切無視して、真摯誠実に率直普遍なタイトルを付けるなら……原語では『The Danish Girls』そして邦訳は『リリーとゲルダ』と題すべき映画だったのでは?と私は思うのです。

主役を演じたEddie RedmayneのEinarからLiliへの変貌が、余りに見事かつチャーミングだったため、ほとんどの映画評では言及されていないようですが。
《以下、『リリーのすべて』のネタバレ御注意!》

2016年2月24日水曜日

美食に非ず 飽食に非ず

とは言え「育ち」に囚われたままな「生き方」も、その「私」が据えていらっしゃる覚悟次第で、唯一無二の独創的概念、すなわち「食っていける」主題になったりもしますから、人間が暮らす世の中というのは、誠に興味深いものです。

被差別部落出身という「育ち」を一貫して「生き方」の中心に据え続ける、ノンフィクション作家・上原善広氏の最新作『被差別のグルメ』は、デビュー作『被差別の食卓』の主題だった「差別される食文化」へ、10年ぶりに回帰しました。

『食卓』が『グルメ』にアップグレード(?)したものの、登場する料理は相変わらず洗練とは程遠く、美味なる描出は皆無と言って差し支えありません。「差別される」背景には必ず、社会的に阻害された困窮の歴史があるのですから、ある意味、理の当然です。

にも関わらず、食べてみたいと心惹かれる所以は、好奇心を刺激される“文化”だから。

本来は空腹を満たし命を繋ぐ行為であり、“文化”を称する洗練を経て舌を楽しませ心を安堵させる筈の「食」が、時に家庭内で重大な齟齬を出来し、命を危うくする“状況”さえ勃発させかねない「差別される食文化」へ、変容する由縁は何か?

人間が暮らす世の中に沈潜する、条理だけでは割り切れない“何か”を、朴訥に探し続ける旅路だからこそ。『食卓』と『グルメ』に綴られた「差別される食」を巡る著者の彷徨は、読み手の好奇心を惹きつけて止まないのだ、と私は思うのです。

***

然りながら、私自身が最も深く心打たれ、幾度も繰り返し味読させて戴いたのは、本文よりも「あとがき」だったり。『食卓』では、
それが独りでできる解放運動だと思ったからだった。
と、自身の「育ち」を「生き方」の中心に据え続ける『もともとの動機』を、お世話になった各位各人への謝辞に寄せて端的に記した、わずか2ページでしたが。

『グルメ』では、『アイヌという“他者”を書く困難』を克服する20年間の道程を経て、「私」の「育ち」から著者自身が“解放”され、より高くより広い俯瞰に立つことが可能となって初めて到達し得た、深遠かつ精緻な考察が6ページに渉り展開されています。

2016年2月9日火曜日

大切な事は、みんな

4年前の8月、とある事情で京都大学を訪れていた私は、とある経緯で総合人間学部の一校舎にいた。私自身は「当事者」ではなかったので、目的とする部屋への入室を遠慮し、所用が済むのを廊下で待つ事にした。

旧い校舎だから、全館空調の設備は無い。そして夏期休業中だから、人通りが疎らな所では照明の電源さえ入っていない。つまり、ひどく蒸し暑い上に薄暗い場所で、いつまでとも知れぬ暇を持て余す事となった。

当初は「当事者」たる娘が入って行った扉の前で、室内の気配を伺っていたが。教授と思しき紳士の声が、何やら語り続けているのみ。その部屋の出入りが知れれば差し支えなかろうと判断し、廊下を歩いてみる。

無聊を慰めるべく、周囲を丹念に観察しながら……とは言え大学の廊下なぞ、何処も埃っぽく雑然としているばかりで、変わり映えはしない。特段興味を惹かれる事物も無く、一方の端まで突き当たりかけた時。思いも寄らぬ“再会”に、はっと息を呑んだ。

絹糸のように繊細な金髪と、深い湖を想わせる翠色の瞳。一目で「彼」と知れる、少女のような美貌と娼婦のような妖艶を描き手から賦与された少年は、驕奢なフォントルロイ・スーツを纏い、無造作に貼られたポスターの中から物憂げな眼差しを投げかける。

最期の瞬間に切望した『未だ誰をも知ることのない』瑞々しい春の光の中……架空の存在でありながら、真向かう者を圧倒する佇まい。蒸し暑くて埃っぽい薄暗がりに、突如顕現した儚くも甘やかな肖像へ、五感の不快も心底の屈託も忘れて魅入られつつ……

私の脳裏に閃いたのは、『人間についての根源的、総合的理解』をraison d'êtreと定めた学府で、その少年に再び邂逅できた奇遇が導く天啓だった。

***

その年の暮れ、とある創作漫画へ耽溺した私は、翌年の2月、慮外な拍子に構想を得て猛然と二次小説を書き始めた。合算9万2千余字に至った連作の発端は、「彼」を創出なさった竹宮惠子先生が、教授職を勤めておられる大学で主催されたシンポジウムのポスターを、あの日、娘が第一志望と定めた学部でも掲示していた一事に行き着く。

描かれていた少年の名はジルベール。

2015年11月20日金曜日

消極的な敵意・積極的な善意

ふと思い立って、芥川龍之介の『鼻』を再読。持っていた文庫本は、引っ越しを繰り返すうちに処分してしまったので、恐縮ながら青空文庫さんのお世話になる。

大概の解説は、『傍観者の利己主義』が作品の主題、だとしているけれど……

更に踏み込んで、支援者の「ネガティヴなイネーブリング」まで看破しえた点にこそ、芥川龍之介の天才が現れていると私は思う。

すなわち、不遇に在って自尊心を傷つけられていた主人公・禅智内供が、中盤で一旦は『のびのびした気分になった』ものの、自分を取り巻く『傍観者の利己主義』を感じ取って、より深刻な鬱屈に陥ってしまった際。最も辛辣な陰口を叩くに至ったのは意外にも、内供への同情を動かされ支援を申し出た『弟子の僧』だった……という迫真。

傍観者の『消極的な敵意』は確かに不快だが、ご当人が本来お持ちの能動的な意欲に集中なされば、大きく影響を及ぼすことは無い。実際、禅智内供も『法華経書写の功を積んだ時』にも、同じく『のびのびした気分になった』ご経験をお持ちなのだ。

しかし支援者である筈の最も近しい者が、当事者の眼前に文字通り『ぶら下っている』問題の解決を、助けるように見えつつ却って“難儀”を増悪させる事態、すなわちネガティヴなイネーブリングは積極的な善意が動機だから、実は一層、厄介である。

***

内供の“難儀”は、食事の際に少々不便なほど長すぎる鼻、それ自体ではない。

著者が解説しているように、自分だけが特異な“多様性”を抱える疎外感と、奇異の目に晒され続けたゆえの『自尊心の毀損』つまりは“二次障害”が、『鼻を苦に病んだ重な理由』。だから、弟子の僧が同情から施した『長い鼻を短くする法』は、積極的な善意に拠るものだったとしても、問題を解決するどころか一層こじらせちゃったわけで。

互いに最も近しく在るがゆえ、却って当事者と支援者の間に横たわる、深くて大きな心理的乖離を克明に活写しているのが、『長い鼻を短くする法』を詳述した場面。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子(けぬき)で脂(あぶら)をとるのを眺めていた。
親切を施されても尚、『不愉快に思われた』のは、理の当然。支援者たる弟子の僧は、当事者たる内供の“難儀”を、人間の尊厳に抵触する『自尊心の毀損』ではなく、より浅薄な、相貌に対する単純な劣等感、と誤解していたのだから。

加えてこの場面は、同情を動かされた支援者が避けがたい陥穽、すなわち親切を施す者の優越感を、巧みに描いて誠に秀逸だ。床板に横たわり己の『皹(あかぎれ)のきれている』足で鼻を踏まれている師匠を、『時々気の毒そうな顔をして』『禿頭を見下しながら』弟子の心を満たしていた感情は、その実、奈辺に在ったのか……想像に難くない。

《以下、芥川龍之介 作『鼻』のネタバレ御注意!》

2015年11月6日金曜日

住まうもの・訪うもの

進駸堂書店員にして本と映画の小粋なコラムニスト・すずきたけし氏が、『WEB本の雑誌』〈横丁カフェ〉で連載してらっしゃるレビュウに心惹かれ、フリーランスのカメラマンにしてマタギ自然塾主催・田中康弘氏の、話題作『山怪』を読んだ。

著者・田中氏は、長崎県の佐世保すなわち港町のお生まれでありながら、主にマタギの取材を目的に、評者・すずき氏は、栃木県の小山すなわち関東平野の宿場町にお住まいながら、ご趣味の釣りで、奥山へ分け入ることを頻繁になさっておられる。

つまりご両人とも、山人が暮らす深山渓谷を「訪う者」でいらっしゃるわけだ。

対して読者である私は、小学3年の冬にすずき氏がお住まいの街へ“下りる”まで、深い谷川の傍に刻まれた杣道を通学路にするような、山懐の町に生い育った。

要は、著者・評者が訪れる深山渓谷の端に「住まう者」だったわけで。お二人が語る処の正体不明な『何か』、すなわち『山怪』と共に嘗ては在ったことになる。

そんな「住まう者」の視点から本書を拝読すれば、著者・田中氏が丹念に綴った『山怪』は、評者・すずき氏が僥倖に感謝した『失われゆく民俗系怪異譚』というより、自身の遠い記憶を呼び覚まし思い起こす『井戸掘りの呼び水』となってくれた。

***

昨夏の暑気払いに寄せた拙文で触れたとおり、名付け親が旧い火山を御神体とする正二位の大御神、しかも数え九つまで神奈備で育ったため護りが強く、怪談の持ち合わせは無いと自分では考えている。

つまり『打当集落前山の鈴木進さん』や『比立内の佐藤正一さん』あるいは『四万十川で川漁師をしている麻田満良さん』と同じく、自らは『不思議な体験はまったく無い』と主張する「住まう者」だ。

2015年10月29日木曜日

美味しい食べ物・ 正しい人々

ブログ『発達障害な僕たちから』のヒロさんに、ご多用を押して丁寧なコメント返しを戴きました。文中で『あの、マンガ届けられましたよ』と言及して下さったのは……

先月末、名古屋へ赴いた際、サポートセンター名古屋の事務所までお邪魔して、一階受付でご対応下さったスタッフ様に言づけさせて戴いた、とある自主制作マンガのこと。

その本へ添えたお手紙、若干の改稿・補足を加えて再掲しておきます。

***

ヒロさん、大統領さん、
俊介さん、大野さん、名無しさん、

そしてブログには登場していないけれど、
青木先生はじめサポートスタッフの方々が
この本を読んで戴きたいと判断なさった皆さん、

いつも大変お世話になっております、ヒルマです。

この度、ご紹介致します『Artiste アルティスト』という作品は、
「さもえど太郎」というペンネームを名乗ってらっしゃる女性が
“自主出版”したマンガです。

商業作品ではないため、一般には市販されていません。
今年8月に東京で開催された展示即売会「コミティア」で発行・頒布、
現在は、アリスブックスで委託通販なさってます。

また、第1話・第2話は、ウェブでも公開されています。
#作品の閲覧には、pixivアカウントが必要です。

***

主人公の名前は、ジルベール・ブランシャール。
フランスはパリの有名レストランで皿洗いをしている、27歳の青年です。

第1話を読んで戴くと、彼がどんな人物なのか判ってくるのですが……
少しだけ種明かしをすると、どうやらジルベールも『五感に凸凹がある』
みたいなんです。

2015年6月6日土曜日

『それ町』第14巻感想!

巻頭には、物語の“起点”たる入学式をオールカラーで描き下ろし、巻末には、思わせぶりに「エピローグ」と題した第98話を配して置きながら、『一応言っておきますが、終りじゃありません。もうちょっとだけ続きます』と、確信犯的あとがきを記した第12巻の後で。

毎度お馴染みなエピソードの連打に、素知らぬ顔で紛れ込ませた想定外の一撃・第104話「暗黒卓球少女」を、ガツン!!! とお見舞いされちゃった第13巻と同じく「もくじ」ページに『……に掲載された作品をまとめ、加筆修正を加えました』と但し書きした、最新の第14巻も。

遂に来ましたね〜第108話『夢現小説』+第111話『夢幻小説』!
単行本で11巻・話数にして82話後に、まさかの見事な伏線回収!!

布石が配されたのは、遡ること8年前の第26話『少女探偵誕生』
あ、今回はネットに頼る事なくバッチリ自力で探索致しましたv

丸子商店街に古道具屋を構える亀井堂店主の孫娘にして、主人公・嵐山歩鳥嬢の“師匠”たる亀井堂 静女史の初登場は、第2巻の第12話『それ町サスペンス劇場 湯けむりツアー密室慕情 乙女の誘いは奈落の罠!?』ですが。

この回は、商店街の慰安旅行に参加した、単なるモブキャラ止まり。歩鳥が探偵を志望するに至ったのは、静さんの“助手候補”に任ぜられた事が由縁らしいと、示唆されるのは第3巻の第20話『パンドラの箱』です。

そして同じく第3巻の第26話で、『この前 資源回収一緒にやった』だけの小学生女子へ、大学受験を控えながら書き上げた自作ミステリを、唐突に『真相を推理するんだ 探偵のように』と託した女子高生は一体……

その豊満な胸の裡に、如何なる深慮遠謀を秘めていたのか?!!

無論、“謎解き”をネタバレしちゃうような野暮なマネは致しませんw
巻数を重ねてこそ一層磨きが掛かってきた本作は、取り分け是非とも
漫画にせよ、小説にせよ 商業にせよ、自主制作にせよ、二次にせよ

物語を創り出し世界観を紡ぎ出す、“語る力”と“描く力”に
衝き動かされる熱情と、メタ認知の容赦ない冷徹の狭間で
孤独な煩悶に震える夜を、幾度も明かした創造者の皆様へ

久方ぶりに広瀬 正先生の、タイムトラベル小説の最高峰『マイナス・ゼロ』や『鏡の国のアリス』で平行宇宙の超絶技巧を読みたくなってしまった、SF厨なへっぽこ字書きが泣いて喜ぶ洗練の一冊。超絶オススメです!!!


2015年2月22日日曜日

至高の恐怖譚

その病の名を知ったのは、私が小学2年生だった時。
一冊の児童書に綴られた、不思議な物語の中だった。

本の題名は『びんの中の小鬼』
作者はロバート・ルイス・スティーヴンソン
私が“一番好きな童話”にして“至高の恐怖譚”

***

現在手に入る本は、『びんの悪魔』あるいは『壜の小鬼』と改題されている。

そして本文中に、その病名は明記されていない。前者では『当時「中国の悪魔」とよばれていた、おそろしい伝染病』、後者では単に『疫病』と訳出された。

福音館書店の世界傑作童話シリーズにあっては、訳者あとがきでさえ『“中国の悪魔”という病気』と記すのみ。岩波文庫版は訳注で、その疫病を発症した患者達の療養所が、かつてモロカイ島北海岸のカラウパパにあった旨、端的に言及している。

***

40年前に読んだ『びんの中の小鬼』では、『らい病』と明記されていた。

抗酸菌の一種である『らい菌 (Mycobacterium leprae)』が、皮膚のマクロファージ内および末梢神経細胞内に寄生して、引き起こされる感染症。ゆえに『らい病』という命名は、至極当然にして客観的だったのだが……

「病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称である」ため、偏見・差別を助長する含意を帯びるに至り、歴史的文脈以外では“禁句”となった次第。

代わりに現在、用いられている疾患名は『ハンセン病』。1873年に『らい菌』を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンの姓に由来する。

《以下、邦題『びんの中の小鬼』『びんの悪魔』あるいは『壜の小鬼』他、『The Bottle Imp』のネタバレ御注意!》

2015年2月8日日曜日

画力じゃないのよ涙は

諸般の事情で、ブログ更新がすっかり滞りがちになっている。
にも拘わらず、毎日一定のお運びを賜っている仕儀が、誠に貴く有り難い。

ご閲覧が多いのは無論、人気ブログに『繋がる力』をお分け戴いた記事だけれど。愛好する作品への想いを綴った「『それ町』第13巻感想!」を始めとするレビュウも、健闘してくれている次第が『字書きの右往左往』たる面目躍如。

そして勿論、キーワード検索で御来臨下さる偶然が多いのだろうが。再読に訪れて下さっている気配も、そこはかとなく感じて……

思う相手へ思う処が通じた歓びを、妄想深読みの裡に面映ゆく玩味している。

拙ブログで啓上するレビュウは、消費者としての感想ではなく。
“描く力”と“綴る力”を発揮して下さる、創造者への献辞だから。

***

コミックスの単行本を収めた、我が家の書棚へ改めて目を遣れば。

画風には一切こだわらない、むしろ物語る力をこそ最重要視する“マイナー贔屓”の難儀な嗜好を、つくづく自覚する。

たとえば「Welcome back to your "HOME" !」で心酔を語らせて戴いた、萩尾望都先生の作品でさえ。所蔵しているのは、ハヤカワ新書版・第1刷が秘かに自慢な『銀の三角』と、SF作品最新刊の『AWAY -アウェイ-』第1巻のみ。

全く以て、不肖の読者の最たるもの。然れど『11人いる!』も『トーマの心臓』も拝読し得た限りの作品は、バッチリ画像を添付したエピソード記憶すなわち“在庫”として、ガッツリ脳内に蓄積させて戴いておりますので。

物語る力を最重要視して、読む作品を選ぶ習いが性となった所以であり。
書籍として愛蔵させて戴くのも、創造者への敬意を表す方途なのである。

***

清原なつの先生の『千利休』を購入した経緯は、その典型かも知れない。

《以下『千利休』『3丁目のサテンドール』『銀色のクリメーヌ』他、清原なつの諸作品のネタバレ御注意!》


2015年1月11日日曜日

書籍化する力【追補】

インターネットコミュニティで無料公開されていた「作品」が人気を博し、然るべき出版社から書籍化される、と言う話は昨今、枚挙に暇が無いけれど。

昨年秋から今年初めに接した2件の事例は、「書籍」について多面的な思索を巡らせたり、妄想深読みを赴くまま爆走させたりする契機を与えて下さった。

端的に言えば、受け手の側からすると、「無料→有料」「無形→有形」という関門が生じることであり。作り手の側からすれば、「受動的な消費者」に過ぎないネットユーザを、「能動的な読解者」へ如何にして誘導するか?という課題になる。

***

村上竹尾さんの『死んで生き返りましたれぽ』連載を、pixivで拝読していた折。
私はぶっちゃけ「受動的な消費者」だった。新作がランキング上位に入る都度、閲覧させて戴いていたものの、評価もブクマもコメントも、付けた事は一度もない。

更に加えて、医師・看護師の教育や医薬品の臨床開発に、暫時携わった経験から、この“患者さん”は今も恢復の途上にあり、「作品」は主治医が示唆なさった作業療法なのだから、軽々に評価を云々すべきではない、と医療現場への遠慮も働いた。

しかし、完結の2ヶ月半後。
書籍発売の報に触れ、私は俄然、「能動的な読解者」へ転ずる。

能動的過ぎてpixiv版と書籍版の両方へ、都合2篇のレビュウを書かせて戴いちゃったくらいw その動機は無論、目覚ましい恢復を遂げた“患者さん”と、彼女を支えたご家族・医療関係者の皆様へ宛てた、感謝と慰労の気持ちが最も大きい。

Amazonさんのカスタマーレビューとして投稿した一節では、

  心の本体たる脳と、生命の本体たる身体の有り様に、一切の疑問を抱かず、
  易々と外界へ繋がれる健康な、世界の大多数を占めている人々には、
  おそらく真価を読み解くことが、難しい一冊

と、警醒を籠めて綴ってみたけれど。

遺憾ながら、ご自身が依然「受動的な消費者」である旨を全く自覚せぬ儘、SNSの雰囲気に流されてしまっただけの御仁も、幾人か居られたようで。

「能動的な読解者」へ誘い導くべく、形有る「書籍」に凝らされた数々の工夫を、五感を働かせて自発的に玩味する事も、「書籍」として形を成すまでに関わった人々の想いへ、共感を至らせて積極的に踏み込む事もせず。

ご購入前に自身の覚悟が不足していたゆえの、粗忽にして横柄な勘違いを、謂われなく作者へ転嫁なさっているのは、誠に残念としか申し上げ様が無い。

***

然れど2件目の書籍化、すなわちZ会進学教室・渋谷教室長の長野正毅先生が、新年早々上梓なさった『励ます力』に限っては、上記の危惧は微塵も無く。

無料公開されている「作品」、すなわちZ会ブログの『長野先生の幸せに生きるヒント』では、そもそも人生の「能動的な読解者」たる覚悟こそ『幸せに生きるヒント』なのだと、日々懇切丁寧に御教示下さっているのだから。

ネットユーザと言えども、粗忽にして横柄な勘違いをしでかす「受動的な消費者」が、そこへ集う読者の皆様に居られる筈は、有り様も無いのである。

渋谷教室の採光が良くて伸びやかな、心地好い空気を鮮やかに切り取った写真も
セフィロトの樹では、美を象徴する黄と理解を象徴する黒を、基調にした装丁も
一見無難なようで、実は精緻な配慮の下に洗練された、静かに注意を促す写植も

人影まばらな『こだま号のグリーン車』……静謐な夜明けの『あるホテル』……清冽な湧水に恵まれた街の『駅近くの公園』……お気に入りの『香を焚いた自室』……と『納得のいく空間』を選りすぐって、丹念に吟味した校正も。

無形のデータだったブログが、著者のお人柄そのままに「書籍」として形を成すべく、積み重なった尊い必然なのだと思う。

長野先生の『すごくいい本』を手に取って読み解く歓びに、一人でも多くの「能動的な読解者」が邂逅できるよう、心から願っている。

【追記】『励ます力』特設サイトがオープンしました!『インタビュー』のページでは、教室だと絶対お目にかかれない、イイ感じに出来上がっちゃってる長野先生のお姿も拝見出来ますw 

「読み解く」ことは「書き綴る」ために不可欠な“筋トレ”
机上にあるのはいずれも、好奇心と敬意と仁愛を以て
拙宅へお迎えした、尊くも愛おしい書籍たちですv

2014年12月9日火曜日

愛されなかった天才

山下清が『視覚の天才』だとすれば、司馬凌海は“聴覚の天才”だった。

しかし『放浪の天才画家』が、肉親や支援者や、彼の作品を愛好する無数の人々に、早世を惜しまれつつ逝去したのに対し。佐渡新町の富裕な商家に生まれ、神奈川戸塚の旅籠で、誰にも看取られることなく世を去った『語学の天才』は、官職も位階も剥奪され、明治維新の混沌に茫漠と埋もれてしまった。

サヴァン症候群あるいは自閉症スペクトラムを強く示唆する、司馬凌海の『奔放不羇な性格』を、今、窺い知ることが出来るのは。

同じく偉大な先達の姓を肖った司馬遼太郎御大が、当時の記録・逸話を丹念に蒐集・再構築し、歴史小説『胡蝶の夢』に登場させた「島倉伊之助」の、強烈かつ難儀な“個性”として、精緻詳細に活写して下さったおかげだ。

さもなくば、医学を『日本語で最先端のところまで勉強できる』『自国語で深く考えることができる』礎に、我が国が恵まれたのは、幼名を伊之助、長じて「海を凌ぐ」と傲岸不遜にも取れる名を自称した男に、天が賦与した“異能”の賜物だと。

今に生きる私達が、百三十余年前に世を去った“聴覚の天才”へ、深謝する機会は、たぶん永遠に失われてしまっただろう。

***

『胡蝶の夢』は、幕末・維新に同期して、一息に西洋化を果たした日本医学界の、紆余曲折を鮮烈に描出した作品だ。

第一の主人公は、松本良順。

将軍家・奥医師の婿養子となるも、蘭方医学への熱意止みがたく、幕末の長崎に医学伝習所を開設。江戸にも西洋医学所を創立するが、在京・在阪の一橋慶喜・徳川家茂を往診した折、新選組との親交を深めた縁から、戊辰戦争で野戦病院の指揮を務める。仙台で官軍に降伏、のち赦免されて、維新後は山縣有朋らの推挙を請け、帝国陸軍の初代軍医総監となった。

良順先生こそは、勇気果敢・積極能動。“行動化の瞬発力”の体現者だ。

幕末・維新の混沌に怯むどころか、むしろ機に乗じて旧弊を除き、四民平等の世を切り拓くべく挑んでいく。遼太郎御大の歴史小説ではお馴染みの、坂本龍馬や土方歳三を想わせる“個性”で、当初は彼一人を主人公とする構想だったかとも拝察する。

けれど、連載開始に当たり、著者が長編の稿を起こしたのは。

幼い頃から聞かされた、「佐渡は波の上」という常套句の比喩を解さず、字義の通りに受け取って、『波の上なら舟のように揺れるはずなのにどうして揺れないのか』と訝しむ、第二の主人公・島倉伊之助の“こだわり”を記述することからだった。

続く文章は、伊之助が生まれ育った故郷の風土を、紀行連作『街道をゆく』でもお馴染みの、簡にして要を得た筆致で、しかし鳥瞰図を展開するかのように、広大かつ明朗な眺望として、描出していくのだが。

『波の上に井戸があってたまるものか』
『波の上にこんな大きな山があるはずがない』

と、十歳になって猶、『波の上』という言葉の表面的な意味にこだわり続け、奇妙な疑義を呈する、伊之助少年の特異な“個性”も、再々巧みに織り込まれる。

執筆当時、サヴァン症候群や自閉症スペクトラムの情報は、未だ手に入れ難かった筈なのに、あたかもそれらに精通していたかの如く。島倉伊之助こと司馬凌海が、生涯を通じて周囲から疎まれた、良く言えば『奔放不羇な性格』、有り体に言えば障害特性の異様を、精確に看破した著者の慧眼こそ、心底驚嘆に値する。

然れど、遼太郎御大の闊達な筆は、明晰鋭利なだけではない。機会のある限り『言語という言語を無限におぼえた』伊之助の、『異能としか言いようのない記憶力』つまり他者から唯一、重宝された『語学の天才』こそが、彼を温和な故郷から引きずり出した“災厄”だったと、『涙ぐむような悲しみとともに』慨嘆している。

その哀惜が著者をして、第三の主人公・関寛斎を登場させたのだ、と私は思う。

《以下『胡蝶の夢』のネタバレ(って歴史小説なんですけどw)御注意!》

2014年11月24日月曜日

心を読み解く身体

実は私にも、心が、生命の本体たる身体を、手放しかけた経験がある。

前回、話題にした事故が、それ。自転車ごと空堀へ落ちたとは言え、咄嗟に左脚を衝いて身体を支えれば、石垣の角へ頭を強打するまでには、至らなかった筈で。

現場へ駆け付けた皇宮護衛官から、“加害者”として職務質問された予備校生も、「アタマ怪我したんわメッチャトロい本人のせいやんなんで俺がこんな目ェに遅刻してまうし堪忍して」的態度を、「相手は血ィ流してはるんやで逆走して来たんは君やろ逃がさへんぞ早よぅ答え」と(無論、もっと上品な言葉で)窘められていた。

しかし私は、その件を結局、事故扱いにしなかった。無線で要請した救急車を待つ間、“被害者”の意識状態を確認すべく、「前、見てへんかった?」と優しく問い掛けて下さった皇宮護衛官氏へ、「ぃや、見てた筈なんですけどぉ」と口籠もるしか術が無かった自分の、脳裏にあった映像は実の所、衝突直前の現場ではなく。

研究室の実験台と、器具を操作する自分の手、だったから。

***

たぶん私が『死んで生き返りましたれぽ』を、pixiv連載の段階で既に、他の読者より僅かばかり深く踏み込んで、読み解くことが可能だった由縁は。

実験操作や料理の手順、もしくは小説創作時の場面描出に、限定ではあるけれど。作者と同じく“視覚思考者”である件が、大きいのだろうと拝察している。

書籍版『死んで生き返りましたれぽ』には、作者が脳浮腫を患っていた最中の体感を、丹念に綴った文章が追加されていて。視覚野がある後頭葉に、浮腫が発現した理由を鑑みれば、そもそも作者の脳の機能様式が視覚思考優位、つまり普段から酷使しがちだった領域ゆえ、必然的に負荷も大きかったから、ではなかろうか?

私自身は、知能発達に不可欠なエピソード記憶・言語習得に必須な意味記憶の発現に伴い、言語的論理思考優位へ移行したようで、描く力が急激に低下してしまったが。小学校低学年まで、本を読んでいなければ、描くことに耽溺していた。一時は周りの大人達も「ひょっとしたら、将来は絵描きに」などと、考えていたらしい。

その“描く力”の名残、すなわち視覚思考優位モードへ、心の本体たる脳が、事もあろうに自転車での通学中、うっかりシフトしてしまったため、生命の本体たる身体を手放しそうになった、というのが冒頭の顚末。

サヴァン症候群や自閉症スペクトラムを主題にした、『視覚の囚人』や『感覚の囚人・共感の達人』での考察を経て、心が身体を介して社会と繋がるため、一番重要な感覚は視覚だと、確信するようになったのだが。

要するに、本来は心が外界と繋がることを、専らの目的に機能させるべき視覚が、思考の主要ツールとして先鋭化かつ酷使された結果。外界の状況に応じて、身体に妥当な行動化を指示する能力の、発現・発達を逸してしまう。あるいは概ね定型の発達を遂げた者でも、“行動化の瞬発力”を著しく損なう、という次第なのだろう。

***

『付録』には、本編でチラ見せして下さった『診断書』の全体画像と、ご家族への病状説明時に提示された『記録メモ抜粋』も掲載され、入院経過中、殊に当初数週間の激闘が、生々しく伝わって来る。

ザックリ言えば、有り得ないほど劇症の2型糖尿病患者が、
なぜか突然、救急外来で受診、という前代未聞の緊急事態。

だから『壮絶闘病レポ!!』の惹句は、医療関係者の観点からすれば、これ以上ない表現だし。単なる実務上の都合から変更された発売日が、『世界糖尿病デー』だったという偶然は、この御本に授けられた天命を、暗示しているのだと思う。

けれど、控えめながら丁寧な、改稿の手が加わっている本編や、書籍化の機会に追加された、写真や文章を拝読すると。

危うい生命の遣り取りを経て、辛くも取り戻した身体を介し、
心がもう一度、外界と繋がる、その過程を丹念に辿りながら。

それとは気付かぬまま『ゆるやかな自殺』を誘った、『死に至る病』を患う仕儀に己の心が陥った由縁を、ひとつずつ少しずつ読み解いて来た、とても静謐な(ゆえに上記の惹句とは、些かならず乖離してしまった)恢復の記録なのだ、とも思う。

心の本体たる脳と、生命の本体たる身体の有り様に、一切の疑問を抱かず。
易々と外界へ繋がれる、定型発達ないし健康な、世界の大多数を占めている人々には、おそらく真価を読み解くことが、難しいであろう一冊。

然れど、他者との違和感に苛まれ、心や身体を患って、“行動化の瞬発力”つまりは『生きる勇気』を見失いかけている人々、そして、彼らを癒やす術を志す人にこそ、全力でお奨めしようと目論んでいる。

Amazonさんのカスタマーレビューにも、
本記事の一部を抜粋・改稿して掲載させて戴きました!
医療を学ぶ皆さんへ、医学哲学の入門書として、お奨めしたい一冊

2014年11月15日土曜日

身体を取り戻す心

糖尿病については前職で、疫学から臨床まで、かなり深く学んだ。

職務上、患者さんと直に接する機会は、得られなかったけれど。データを解析する必要から、特に診断基準となっている各種検査値に関して、その道の権威と謳われる先生に、伝手を頼って御教授を請うた事もある。

だから村上竹尾さんの『死んで生き返りましたれぽ』を、pixivで拝読した時。一番愕然とさせられたのは、診断書に記された来院時の検査値だった。殊に血中グルコースが932 mg/dlというのは、こんな数字が出せるのか?!と目を疑う値。

普通なら、ここに至る遙か手前で倒れている筈で。極めて頑健な身体をお持ちだったからこそ、ご自宅のトイレで人事不省に陥っている所を、発見される状況になるまで、ご自身を痛め付ける仕儀になったというのは、誠に皮肉な話だ。

健全なる肉体にだって、不健全な心が、宿ることはある。

肉体的には、むしろ恵まれていた作者が、糖尿病性ケトアシドーシスは勿論、横紋筋融解症からの急性腎不全と高アンモニア血症、全身状態の悪化から肺炎と敗血症、更に脳浮腫まで。主治医が『全部 死ぬ病気です』と断言した合併症を、同時多発するほど重篤な糖尿病を患った原因は、スポーツドリンクの過剰摂取。


元来極めて頑健な身体をお持ちでありながら

本来は“身体に良い”筈のスポーツドリンクで

なぜ心肺停止に至るまで病んでしまったのか?


その委細は無論、日常の偶然の蓄積が必然の奇譚へと帰着した、本作をお読み戴きたいが。生命の本体たる身体を顧みる事さえ忘れ、作者の心が惑溺し翻弄されていた「それ」と、一度は生きる事を放棄してしまった身体を、再び心が取り戻す力の源泉となった「それ」は、表裏一体……とだけ申し添えておこう。

そして浮腫で壊れかけていた脳が、嘗て世界と共有していた“事実情報”の記憶を、回復してくれた契機は紛れもなく、大切な人達との対話を通じて、一度は失ってしまった“感覚情報”をひとつずつ少しずつ、再共有して行くことだった。


患者が 家族が 医師が 看護師が  

如何にして、死への恐怖を乗り越え、

再び生きる勇気を、獲得して行くのか?


克明に物語ってくれた作者へ、『世界糖尿病デー』に合わせ出版を企画して下さった関係者の皆様へ、心からの感謝を込めて……

Welcome Back to Your Life and We All Love and Appreciate Your Story !

【追記】
 ご指摘の箇所、自分でも全く気付かぬうちに、潜在意識からポロリしたかも……です。拙宅も家族一同、ハマっておりますのでw 『犯罪係数』だとしても、滅多に拝めない値、なのでございましょうねぇ> T 様


2014年11月1日土曜日

Welcome back to your "HOME" !

そういえば萩尾望都先生の最新作『AWAY -アウェイ-』第1巻も、主人公がメガネ男子なんですよね……

物語の“主役”は、カバー表に描かれた鹿賀 一紀(カガ カズキ・中学2年生)嬢に違いないんですけど。第1巻収録の、世界が『メチャメチャ』になって十日余りが経過した「4月1日」と、日付が変わるのとほぼ同時に各国で“異変”が起きた「3月21日」は、彼女のイトコに当たる大熊 大介(オオクマ ダイスケ・高校2年生)君の視点で語られます。

なんとなれば大介は、『榛野市のイケメン』『ミスター榛野』と称され、みんなから人望を寄せられる『桜木台高のプリンス』なので。高校生を束ねるリーダーとして、大人たちが消えてしまった町で、残された子どもたちを守るため、八面六臂の活躍をせねばならなかったから……

十代の少年少女が、就学年齢に達していない『小さい子』は勿論、生後間もない『赤ん坊』の生命まで預かる事になる設定は、確かに小松左京御大の短編小説『お召し』ですが。原案どおりの12歳以下の小学生達ではなく、中学生・高校生が次々に勃発する難題へ、大人の手を借りず対処せねばならない状況は、『11人いる!』あるいは『トーマの心臓』で描かれたモチーフの、“変奏”でもあります。

***

『トーマの心臓』の舞台となったシュロッターベッツ高等中学には、何人かのメガネ男子が脇役ながら登場してるんですけど。同級のヘルベルトも、一学年下のレドヴィも、最上級生のバッカスも。メガネを掛けた生徒達は共通して、みんなから人望を寄せられる『委員長』ことユリスモール・バイハンの、品行方正・成績優秀で優等生然とした振る舞いに、むしろ懐疑的な眼を向けます。

更に、『八角メガネ』を掛けて登場する、サイフリート・ガストの役回りを考え合わせると。極めて勉強熱心な『委員長』でありながら、メガネを掛けて“いない”主人公・ユリスモールに対峙するメガネ男子達は、一見して非の打ち所が無い優等生の、ずっとひた隠しにして来た弱点を、時に冷静もしくは冷淡な、時に酷薄あるいは残忍な視線で、暴き出す存在だったりするのです。

然りながら、自らメガネを掛けて“いる”主人公・大介は、『桜木台高のプリンス』としてリーダーシップを発揮しようと、懸命に努力しつつも、ちゃんと動揺したりテンパったり、時に遣り場の無い憤りをぶちまけたり。自身の弱点を顕わにする事に、何の屈託もありません。

でも……カバー裏に描かれた大介は、メガネを掛けてないんです!(とは言え萩尾先生が、その点に何らかの意図を込めてお描きになったのか、は不明ですけどw)。

***

物語の行方は、大人たちが消えてしまった町で、今後ますます、大変な事態が生じていくに違いないんですけど。萩尾先生がこれまで描いていらした、時に極めて深刻もしくは残酷な、あらゆるモチーフの“変奏”を交々満載しつつ、『AWAY -アウェイ-』の空気はちっとも重苦しくない。むしろホッとするような、『11人いる!』を想起させるイイ感じのゴタゴタ感があります。

多分それは、舞台となっている『榛野市(ハンノシ)』のモデル、すなわち萩尾先生がお住まいになってる飯能市の空気が、反映されてるんじゃないかなぁ、と拝察(あ、娘が まだ小学生だった頃、偶然ですが品川に住んでて、飯能まで何回かお邪魔した御縁がありましてw)。

子どもたちが抑圧される事なく、ちゃんと動揺したりテンパったり、自身の弱点を顕わにする事に、何の屈託も抱かず暮らしているhometownで。

時に冷厳あるいは酷薄なメタ認知が命ずる“描かねばならぬ事”ではなく、心が天然自然に“描いてみたくなった事”を創作のhome groundたるSFで。

自由闊達に物語って下さる萩尾先生へ、“Welcome back to your HOME !”と言祝がせて戴きたくなる最新作ですv

#9月半ばより始まった怒濤の“秋季コミックスレビュウ”は、これにて完結!
#お時間許す範囲で、他の5篇にも御笑覧を賜れますと幸甚です。

  >>第1回『奇譚の日常』
  >>第2回『日常の奇譚』
  >>第3回『『それ町』第13巻感想!』
  >>第4回『日常の偶然・必然の奇譚』
  >>第5回『エゾノー発・イーハトーブ行』

2014年10月26日日曜日

エゾノー発・イーハトーブ行

今回は、タイトルからして“出オチ”ですけどw
いやぁ、第1巻読んだ時から、ず〜〜〜っと気になってたんですよねぇ。

(“八軒くん”て、メッチャ誰かに似てるんやけど……誰やったかなぁ?)

んで『人にかまって損するタイプ (by 駒場一郎)』なトコが激しく宮澤賢治!と腑に落ちたのは、『それ町』第13巻の第104話「暗黒卓球少女」からの“伏線回収”繋がりで、第9巻の第71話「歩く鳥」を復習中。

『サザンクロスでも石炭袋でも降りませんから』と(自宅玄関先でウッカリ降りそうになった挙げ句、すったもんだで運良く戻って来られたくせに)宣言してる丸子商店街の“カムパネルラ”こと嵐山歩鳥嬢が、南第3中学の“ジョバンニ”へ向かって『だって文学少女ですもん』と喜色満面で言い継ぐ場面だったり。

とは言え、作者・荒川 弘氏は、蝦夷地の由緒正しき『百姓貴族』にお生まれ。

岩手・花巻の質屋兼古着屋に生まれた『石こ賢さん』が描く、叙情豊かな幻想譚とは一線を画し、超絶リアルな『イーハトーブ』への道程が『銀の匙 Silver Spoon』第12巻で怒濤の如き展開を見せるのは、理の当然です。

だって八軒くん自身の『イーハトーブ』は、全97話にして単行本「11と9分の1」巻分を費やし、ガッツリ描かれた超絶濃密な高校1年生の春夏秋冬を経て、これ以上無いってくらいバッチリ明確になってるんですもん。

出資者候補の八軒 数正氏からは、渾身の企画書を『迅速に処理』されてますがw

父親として『本気には本気で返す』という想いがあってこそ。『人の夢を否定しない人間に、俺はなりたい』という“理想”を『自分の意思だ!!』と覚悟した、その意気や良し。それを『無謀な挑戦』として潰えさせたくない故の、親心ですもん。

Amazonさんのカスタマーレビューでは、急展開を惜しむ読者様が、けっこうな割合で“違和感”を訴えて居られる様子ですけど。憚りながら、“親心”の有り様を絶賛満喫中(泣)な視点で拝読しておりますと、「そう!そう!! 高2から高3て、メチャメチャあっという間やったわ〜!!!」とひたすら激しく同意!なのです。

時に全く台詞の無い走馬燈の如き急展開にしても、エゾノー祭で馬術部見て
『めっちゃ心震えた』から入学しちゃった彼女の名さえ記されてない件にしても。

必ずや、痺れるくらい超絶カッコイイ“伏線回収”を魅せて下さると、『ハガレン』以来の圧倒的な親近感と絶対的な信頼感が全く揺らがない所以は、7月末にも記事に致しました通り、“百姓の血”、中でも最強の“開拓農民の血”で描いてやるぜ!って覚悟が、相も変わらず全てのページからガッツリ伝わって来るから。

発刊予定は、鬼が笑うとも謂われる来年ですが。
続く第13巻では期待に違わぬ、八軒くんの『イーハトーブ』と荒川さんの“漫画描きの血”を、バッチリ読ませて下さるものと絶賛待機させて戴きます!


2014年10月20日月曜日

日常の偶然・必然の奇譚

先月来、筆者も全く想定外だった連載を、心の滾りが赴くままに、突発させてしまった“日常の奇譚”コミックスレビュウ。本日は第3回目にして、完結を目指します!

一応、話頭は続いておりますため、前回までの2篇も併せて、お時間許す範囲で御笑覧戴けますと幸甚。てことで、リンクを張りつつ……
>>第1回『奇譚の日常』を読む
>>第2回『日常の奇譚』を読む

***

さてさて、斯様に愛して止まない『シャーリー』『それでも町は廻っている』そして『書生葛木信二郎の日常』なのですが。他人様へお奨めしようとなると、実は逡巡してしまう作品だったり。

定法どおり舞台背景を、「20世紀初頭のロンドン」とか
「大田区の丸子商店街」とか「大正時代の帝都東京」とか。

次いで主人公の設定を、「13歳ながら、良く出来た頼りになる少女メイド」とか
「メイド喫茶でバイト中な、探偵志望のへっぽこ女子高生」とか
「妖怪屋敷に下宿してる、小説家志望な帝大卒の書生」とか。

説明し始めた途端、お聞き下さってる相手の反応に、曰く言い難い気配。

すなわち「ロンドン」だの「商店街」だの「大正」だの「帝都」だの。「少女」やら「メイド」やら「女子高生」やら「妖怪」やら「書生」やら。余りに人口に膾炙した“タグ”の群れが、いわゆる“萌え”を追求した既存作品の“イメージ”から、妙に堅固な、しかし全く該当しない先入観を構築していく様が感知できてしまって……

むしろ、従来の“萌え”を狙った一連の作品に対する、密やかにして果敢なるアンチテーゼとも謂うべき、これら“日常の奇譚”の真髄を、適確に表現できない自分にこそ憮然とし。ウームと言葉に詰まってしまうのです。

叶う事なら“日常の奇譚”タグを、大々的に普及させたい所存ではありますがw 

そこまでの気概と実力、ならびに無謀を己に許してしまう根拠無き自己肯定感は、残念ながら欠く身なれば。敬愛して止まない大先達・藤子・F・不二雄先生の、これこそ“日常の奇譚”の結晶と申し上げるべき『ドラえもん』を、前々回・前回ともに引用させて戴きながら、胸の裡に溢れる滾りを切々と綴って参りました次第。

その上で愈々、『書生葛木信二郎の日常』の魅力を語らせて戴けば。

まず第一に主人公たる葛木信二郎の、キャラを敢えて立てて“いない”所が、ツボを見事にギュギュッと押さえて素晴らしい。なんてったって、初回から『小説家志望』と謳っているのに、如何なる小説をお書きなのか、第36幕まで一切描出されてない(あ、揶揄じゃないですよ〜w ホントに真摯に称讃しておりますです)。

仮に、ドラマツルギーの在庫が心許ない描き手であれば、信二郎の兄・悌一郎をこそ、主人公にしちゃうでしょうね。社交的で頭が良くて、祖母から受け継いだ力も強くて。単なる“見鬼”に留まらず、人事の外に棲む怪しきモノをも巧みに統べる彼ならば、作者が構想に詰まった時でも、勝手に話を転がしてくれそうですし。

然れど“日常の奇譚”をこそ、物語ろうと志すのならば。

一見、掴み所の無い個性、そして小説家を目指すにしてはツッコミどころ満載な、“大正の野比のび太”こと葛木信二郎が、必然的に主人公なのです。

なぜなら『黒髭荘奇譚』の真の“主役”は、

百年を遡った昔には、「江戸」と呼ばれ
五十年前の維新で、「帝都」に定められ

その名を「東京」と改めて以後、『時の流れに遅れまいと 
みんなが必死になって、積み上げるように』『生きてきた街』だから……

《以下、最終話・第48幕「新しい日常」のネタバレ御注意!》

2014年10月16日木曜日

令嬢と奥様の日常

“高校生”繋がりで入手した『それでも町は廻っている』第13巻&『銀の匙 Silver Spoon』第12巻&『咲 -Saki-』第13巻とは、完っ全っにっ“別世界”ですがw

先月末は、25日に目出度く発売なった村上リコさんの『図説 英国貴族の令嬢』も、併せて購入。『図説 英国メイドの日常』そして『図説 英国執事 貴族をささえる執事の素顔』に続く、河出書房新社ふくろうの本『図説』シリーズの第3弾ですv

カバー表はジョン・シンガー・サージェントの「ウィンダム姉妹 (1899)」
華麗にして優美なること正に“Daughters of the British Aristocracy”ですね〜v 

思い起こせば『小公子』を耽読していた小学校低学年の砌から、英国上流階級の風俗が大の好物(先日は、アガサ・クリスティーの著作か『バジル氏の優雅な生活』や『T.E.ロレンス』辺りが起源と綴りましたが……もっと年季入ってましたw)。

なので今回の新刊も、大変美味しく堪能させて戴いたのは無論なのですけど。それにも増して一押しな“お奨めポイント”は、『ダウントン・アビー』を愛する方々が第1シーズンを復習&第2シーズンを予習なさるのに絶好の“参考書”ということ。

なんてったって今年5月にスタートしたNHK地上波放映の最中、実況ツイートやハッシュタグで盛り上がりつつも、著者が「ぎうっぎう~ 」になってらしたのは、まさしくこの御本の原稿と拝察されますから、理の当然。

そして、ドラマの企画・製作総指揮・脚本を担うジュリアン・フェローズ御大が、限嗣相続を主題とするに至った由縁、加えて、グランサム伯爵家のご令嬢お三方をはじめ、伯爵夫人コーラ様や先代伯爵夫人ヴァイオレット様が抱えるお悩みの根幹が、一挙に深〜く拝察&隅から隅まで納得できちゃう好著なのです。

来月1日から始まる第1シーズンのアンコール放送、更に末日からの第2シーズンスタートに備え、階上と階下の運命が織りなす極上のドラマを、余す処なく御賞味なさりたい皆様方には、万全の体制を整えるべく(是非『英国メイドの日常』『英国執事 貴族をささえる執事の素顔』と御一緒に)全力でお奨めしたい一冊です!