2016年2月24日水曜日

美食に非ず 飽食に非ず

とは言え「育ち」に囚われたままな「生き方」も、その「私」が据えていらっしゃる覚悟次第で、唯一無二の独創的概念、すなわち「食っていける」主題になったりもしますから、人間が暮らす世の中というのは、誠に興味深いものです。

被差別部落出身という「育ち」を一貫して「生き方」の中心に据え続ける、ノンフィクション作家・上原善広氏の最新作『被差別のグルメ』は、デビュー作『被差別の食卓』の主題だった「差別される食文化」へ、10年ぶりに回帰しました。

『食卓』が『グルメ』にアップグレード(?)したものの、登場する料理は相変わらず洗練とは程遠く、美味なる描出は皆無と言って差し支えありません。「差別される」背景には必ず、社会的に阻害された困窮の歴史があるのですから、ある意味、理の当然です。

にも関わらず、食べてみたいと心惹かれる所以は、好奇心を刺激される“文化”だから。

本来は空腹を満たし命を繋ぐ行為であり、“文化”を称する洗練を経て舌を楽しませ心を安堵させる筈の「食」が、時に家庭内で重大な齟齬を出来し、命を危うくする“状況”さえ勃発させかねない「差別される食文化」へ、変容する由縁は何か?

人間が暮らす世の中に沈潜する、条理だけでは割り切れない“何か”を、朴訥に探し続ける旅路だからこそ。『食卓』『グルメ』に綴られた「差別される食」を巡る著者の彷徨は、読み手の好奇心を惹きつけて止まないのだ、と私は思うのです。

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然りながら、私自身が最も深く心打たれ、幾度も繰り返し味読させて戴いたのは、本文よりも「あとがき」だったり。『食卓』では、
それが独りでできる解放運動だと思ったからだった。
と、自身の「育ち」を「生き方」の中心に据え続ける『もともとの動機』を、お世話になった各位各人への謝辞に寄せて端的に記した、わずか2ページでしたが。

『グルメ』では、『アイヌという“他者”を書く困難』を克服する20年間の道程を経て、「私」の「育ち」から著者自身が“解放”され、より高くより広い俯瞰に立つことが可能となって初めて到達し得た、深遠かつ精緻な考察が6ページに渉り展開されています。
結局アイヌ問題は自分にとって温感ではわからないのであり、「食」と いう糸口で語ることしか自分にはできないのだという一種の開き直り
が、より高くより広い俯瞰を切り拓くに至った、第一歩であり。

「私」の五感を通じて認識した『温感』、すなわち感覚情報という「心の働き」に左右されるままでは、人間の世に沈潜する条理では割り切れぬ“何か”へ、到達し得ないという諦念が、著者を『固定観念から解放してくれた』のだ、と共感しつつ……

しかし10年前は自身の「育ち」に拘るがゆえ『“他者”を書く』行為に躊躇した著者の、「差別される“他者”」へ対等に向き合える、当事者としての「生き方」を以てこそ。

単に『誰と食べるか、お洒落な雰囲気か』といった、その時々で揺らいでしまう軽佻浮薄な「心の働き」すなわち心理ではなく。『生まれ、歴史、場所から生じる』『料理の精神性』が、条理では割り切れぬ真髄と看破し得たのだ、と私は思うのです。
精神性の弱い料理はいくらおいしくても、どこか寂しく、うら悲しい。 そして食後感は虚しくなる。
と、自身の「育ち」を一貫して「生き方」の中心に据え続ける覚悟を以て断言し、
本当の意味での “日本のソウルフード”を紹介することができた。
と、清々しい謝辞で結語なさった、渾身の「あとがき」をこそ。
読み手の好奇心を惹きつけて止まない本文と併せ、存分にご堪能願いたい一冊です。

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