2016年2月1日月曜日

どうして東京大学じゃ?

拙宅の娘には、従兄弟が一人います。
同年同月に、数日だけ娘に先んじて生まれた彼は、しかし大学生ではありません。

発語・発話の顕著な遅れが最初の所見だった娘に対し、その従兄弟は……仮にA君と呼びます……自立・歩行が「みんな」の「普通」より少し遅れた事で、ご両親を若干心配させました。小学校低学年までは折々の休みに、祖父母の家で娘と一緒に過ごしたりもしましたが、A君が中学受験の準備を始めた小学4年以降、全く疎遠になっています。

昨冬の初め、拙記事の冒頭で触れた『身内の不幸』は、娘とA君の祖父に起こった事でした。センター試験を数週間後に控え、どうしても欠席できない模擬テストを受けさせた翌日、娘を伴って参列した葬儀に、同じく高校3年生だったA君は最後まで姿を見せず……彼の父親だけが、長年の疎遠を押して義父への告別の礼に訪れてくれました。

義理の母(娘とA君にとっては祖母)を通じて漏れ知った限りでは、A君は今年度も大学受験に挑むことを選んだ由。彼が卒業した中高一貫校は、本日の記事タイトルに名称を拝借した国立大の合格者数で、例年の報道にも取り上げられる名門私学。ですから彼にとって再度の受験は、単に同窓生「みんな」の「普通」に倣っただけ、なのかも知れません。

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でも……どうして東京大学じゃなきゃ、いけないのか?

本来、その理由は各人各様な筈で、一概に論ずるのは難しいところです。そしてたった一人の祖父(父方のお祖父様はA君が生まれる前に亡くなっています)の死を、悼み弔う儀礼に参列することより、自分の志を最優先に眼前の問題へこそ専心するというような、いかに生きるべきかを選択する価値観も、同じく各人各様で一向に構わないと、私は思います。

ただ、一つ気懸かりだったのは、斎場の待合で親戚一同の話頭に上ったA君の「育ち」が、祖父の死に臨んでも肉親との疎遠を固持する彼の「生き方」と、大きな乖離を……「自己肯定感を持たせるために、成功体験を」「苦手を避けて、得意を伸ばす」という惹句を単に文言通りなぞっただけ、のような偏向と隔絶を……呈している件でした。

その名を聞いた誰しもが、学業優秀・品行方正と信認する名門校の生徒にして、早熟な天賦の才を遺憾なく、ある分野で発揮していたA君。その評判を無邪気に語り合う大叔母・大叔父達から少し離れた所で、娘は喪主を務めた自分の父と共に、告別式で終始恐縮していたA君の父に同席し、故人の亡骸を荼毘に付すまでの暫時を待っていました。

互いの職場に共通する話題を専らに選ぶ喪主と、静かに閑談していたA君の父は、不意に傍で耳を傾けていた姪へ真向かい、大学受験に臨んで志望する学部を訊ねました。

伸ばした背筋を質問者へ向かって僅かに傾けた所作と、若干の工夫をにじませた明朗な滑舌・穏当な声調に、微かな緊張をあらわしつつ。しかし、10年ぶりに再会した縁薄い相手への当惑も逡巡もなく、快活な意思を込めて自身の志望を即答出来た娘の言動を、家族と共に参列し得なかった血の繋がらない彼女の伯父は、どんな思いで見たのか……

A君の進学先、どうして東京大学じゃなきゃ、いけないのでしょうか?

私の脳裏に閃いた疑念は、実際に問われることの無いまま、1年余が経ちました。
今年も、センター試験大学入試は日程の通り、粛々と実施されているようです。


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