中学までと打って変わって、高校では専らに生徒本人の主体性を求められる指導を戴くようになり、上から目線で教諭する親と子ではなく、不適応の解消へ協同して取り組む当事者と支援者の「距離」へ、移行していく必要性を感じたからだと思います。
無論、当初はそこまで明確に目的意識を自覚していた筈も無く。初めてコメント寄せさせて戴いた動機は、紛糾している読者同士のクロストークを出来る限り有意義に収拾させたい、という元fj.*住人にはお馴染みの傍目八目なお節介に過ぎませんでした。
以後、現在に至るまで、あちこちのブログへ軽率にお邪魔させて戴いておりますが。支援者でも専門家でもない旨を厳しく自戒し、改善へ向かって適正な対処をなさっているのに、誤解や屈託で停滞を生じている場合に限定し、参上仕っております次第。
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そんな調子で当方の立場を明かさぬまま、文章のみで遣り取りを交わすうち段々と見えて来たのは、第一に「連想の射程が極端に短い」という、当事者さんが抱える“難儀”。
身体の内外から精緻・膨大な感覚情報を、脳が絶え間なく感受し続けている状態らしいので致し方ない仕儀なれど、とかく物事の解釈が短絡的になりがち。語弊を恐れず喩えて言えば、身辺に起こった不都合を全て飼い主のせいにする、猫のような……
拙宅でも幼い頃の娘が、『わるいのはママです!』と言葉遣いは慇懃でも内容は自分勝手な発言を繰り返す有り様に、頭を抱えたものですが。「みんな」が共有している「普通」の価値観で「自己中心的」というnegativeなラベルを貼り付ける代わりに、「連想の射程が極端に短い」障害特性として理解すれば良いのだと、腑に落ちました。
無責任な傍目八目に敢えて甘んじてみると、次に見えてきたのは当事者の「毎日・毎年」を支えてらっしゃる親御さん、殊にお母様がたが抱える“屈託”でした。ブログ記事であれコメントであれ、一定の「誤読」をなさってしまう傾向があるような……
野次馬の俯瞰に立てば至極客観的な事実情報と諒解できる文章に対しても、「連想の射程が自責に偏向しがち」と拝見。恐らくは、お子さんの抱える「連想の射程が極端に短い」“難儀”を無意識のうちに感知しておられる結果、親御さんとしての責任感が強い余りに一種の過剰適応へ陥っていると思しきご様子が、往々にして垣間見えるのです。
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発達障碍は、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
しかし、同時に
発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
ゆえに、お子さんの障害特性が「個性」の範囲と感じられるくらい軽微であればこそ、そして優しさにあふれた「良い親」でいらっしゃればこそ。
「みんな」が共有している「普通」の価値観が、お子さんの「個性」へ貼り付けるであろうnegativeなラベルを明敏に感じ取り、どうにか払拭してあげたいというお気持ちが強く働いて「連想の射程が自責に偏向しがち」なのでは、と拝察します。
でも……本当に『わるいのはママ』なのでしょうか?
「みんな」が共有している「普通」の価値観が、お子さんの「個性」へ貼り付けるであろうnegativeなラベルを明敏に感じ取り、どうにか払拭してあげたいというお気持ちが強く働いて「連想の射程が自責に偏向しがち」なのでは、と拝察します。
でも……本当に『わるいのはママ』なのでしょうか?
過去記事で考察したとおり、当事者さん本人であれ その家族であれ 周りの定型多数派であれ。発達障碍の特性に対して、「みんな」が共有している「普通」の価値観でnegativeなラベルを貼り付けたくなったとしても、“多様性”への不適応という芳しからぬ「状況」が出来してしまったというだけで、誰かが「悪い」のではありません。
当事者自身でさえ予見しがたい“多様性”が、「みんな」の「普通」に合わせて設定された社会で齟齬や軋轢を生じるのは、ある意味で理の当然なのですから。
「悪いのは誰か?」を追求することと同じく、「悪いのは私だ」と自負することも
お子さんの「個性」を大切に思うがゆえの、優しい親御さんの自責だったとしても
上から目線で「みんな」の「普通」を当事者に強制することと、
本質的には同じことになってしまうのではないでしょうか?
もし「みんな」が共有している「普通」の価値観で
お子さんにnegativeなラベルを貼られてしまったら。
「悪いのは誰か?」でも「悪いのは私だ」でもなく
「誰に相談すべきか?」「私には何が出来るか?」
お子さんが置かれた「状況」は好転へ進み始めるのだと私は思うのです。
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