>>『視覚の天才 (2)』を読む
戦前にも17歳にして、美術雑誌『みづゑ』の特集記事で紹介されたり、銀座の画廊で個展を開催したり。“天才少年”山下清は、安井曾太郎をはじめとする画家や、ジャーナリストの注目を集めていたが。
1953年・31歳を迎えた秋に、その画才だけでなく、個性的な“ライフスタイル”を取材しようと、グラフ雑誌『Life』の特派員が来日する。しかし折悪しく、お目当ての“天才画家”は、一昨年の5月以来、放浪中ゆえの行方知れず。
それを知った朝日新聞が、通信網を駆使して捜索を開始。翌年1月6日には、遂に全国紙上に捜索記事が掲載され、“リアル・ウォーリーをさがせ!”とでも言うべき事態が出来した。これが功を奏し、4日後に大好きな桜島をボンヤリ眺めていた所を、鹿児島の高校生に“発見”されるのだが……
容貌・風体が周知され、気ままな放浪生活を送る事が、事実上、不可能となる。
致し方なく、迎えに来てくれた弟と、実家に戻った山下清を待ち受けていたのは、思いも寄らぬ原稿依頼。15年間の放浪生活を克明に綴った日記を、東京タイムズで連載することになったのだ。
これを発端に、彼の“キャラクター”が世人の関心を集め、徳川夢声との対談が週刊誌に掲載されたり、記録映画が製作されたり、バラエティ番組へ出演したり。映画や舞台・テレビドラマでお馴染みの、“裸の大将”が構想・脚色されて行く。
もちろん、画業の方も多忙となった。鹿児島で“発見”された2年後に、東京の大丸百貨店で開催された「山下清作品展」は大盛況。約1ヶ月で入場者は80万人を超えた、とも言われ、翌年には、全国約50ヶ所で催される運びとなる。
律儀な画家は、自由な放浪が叶わなくなった無聊を慰める意図もあり、出展会場へ出向いたらしい。けれど行く先々で、決まってファンに囲まれてしまい、以前のように『きれいな景色やめずらしい物』を眺めている訳にはいかなかった。
その合間にも、小は雑誌や本の挿絵から大はモザイク壁画まで。
相次ぐ依頼に、放浪中は無尽と思えた時間が、消費されていく。
油彩では絵の具が乾くのを待ち切れないと、以前と変わらず好んでいた貼絵さえ、落ち着いて取り組む事が難しくなったのか。更に手軽な、黒のフェルトペンを用いた素描に、水彩で着色した作品が、散見されるようになる。
心ゆくまで『きれいな景色やめずらしい物を』“入力”する至福と、脳裏に焼き付いた映像を『ゆっくり思い出して』“出力”する忘我に、時間を忘れて浸る事ができなくなったのは、なにやら気の毒にも思えるが。
境遇の激変は期せずして、映像記憶という“異能”が命ずるまま、『視覚の下僕』となる桎梏……“平行遠近法”すなわち、法悦の恍惚へ至る過程に欠かす事のできない“プロトコル”……から、解放される事でもあったのではないだろうか?
そして、わざわざ己を訪い対価を支払ってまで、絵を描いて欲しいと乞い願う、他我の存在を識った時。山下清は生まれて初めて、「絵を描きたい!」「絵を描こう!」という自我を、認知できたのではないだろうか?
戦時下の徴兵検査でも、不合格。戦後、職業安定所で紹介された仕事も、一日で辞めてしまった。誰もが世のため人のため、祖国を復興するため勤労に励んでいる世界で、たった一人。桜島を、ボンヤリ眺めているだけだった自分が……
(絵を描く事が……僕の、仕事なんだな)
画家を天職と認知した瞬間。山下清は、“異能”がもたらす本人にも理解し難い衝動を、抑え切れずに出奔してしまうのではなく、生まれて初めて明晰な自意識、所謂メタ認知を以て、美しい風景を希求し、旅に出たいと切望したのではないだろうか?
彼が目指したのは、洋画を志す者なら誰もが憧れる、ヨーロッパだった。
***
1965年制作の「ロンドンのタワーブリッジ」は、「貼絵になったヨーロッパ」と題された展示の、最後に掲げられていた。
前年より約5年間に渉った、版画連作「東海道五十三次」の制作準備で、忙殺されていた最中の作。皇居前広場から三条大橋に至る、取材旅行を終えた1969年・47歳の時に、持病の高血圧が原因で眼底出血を起こし、以後、療養のため画業が制限されてしまったから、貼絵としては事実上の遺作である。
「長岡の花火」(530×750 mm)や、更に一廻り大きな「桜島」(540×765 mm)に比べると、440×520 mmの画面は、一見した時の迫力で劣るようにも感じる。事実、この絵の前で殊更に長い時間、足を止める観衆は私以外に無かった。
岩井希久子氏によって細心・最先端の修復を施され、低反射強化ガラスの額装に、褪色を防ぐため低酸素密閉された、精緻な貼絵。至近距離で見詰めていると、いつの間にか、視界が歪んでいる事に気付く。瞬きすると、涙が溢れて頬を伝いそうになり、慌てて順路を挟んだ展示の無い壁際に身を寄せた。
一枚の絵で、ともすれば嗚咽が漏れそうになるまで、涕泣してしまうとは。
慮外な次第に私のメタ認知は、むしろ吃驚し狼狽えている。映画館ならまだしも、美術館で泣いてるのってスゴク変な人だから!と自己突っ込みを入れつつ……幾度か大きく息を吐いて、気持ちが整うのを待ち、再び絵に向かう。些かならず挙動不審だが、最終日前日で、さほど混雑していないのが有り難かった。
昨年、『美の巨人たち』で放映された番組を観たから、ジョルジュ・スーラの点描画に匹敵する程、鮮烈な色彩が躍動する巧緻な貼絵である事は、委細承知。
しかし原画に対峙すると、端正なパースペクティブで、精悍に描出された堅牢な質感が、何とも言えず心地好い。テレビの動画では見落としたが、極細の黒いコヨリを巧みに使い、画面を引き締めているハイライトが、視覚を小気味良く刺激する。
“平行遠近法”を基本としつつ、立体的に描出した建物や船を、ダイナミック且つ絶妙に配した構図だが。コヨリを用いた強調表現は中景のみに施され、遠景は彩度を抑えて描かれている。貼絵ながら、繊細な空気遠近法をも適用しているのだ。
黒いコヨリのハイライトは恐らく、フェルトペンで素描を制作している際に、着想したのだろう。ヨーロッパ旅行に取材した他の貼絵でも、樹木の梢の輪郭や、山の稜線に用いられている。が、若干、浮いてしまっているのは否めない。
あらゆる色の中で最も強く発色する、黒い描線の効果が最大限に活かされているのは、やはり、力強い跳開橋が主役の「ロンドンのタワーブリッジ」だ。
それにしても……画面に横溢する怜悧な美しさは、比類が無い。
言語習得に必須な意味記憶も、知能発達に不可欠なエピソード記憶も介さず。研ぎ澄まされた視覚そのものが、映像記憶の洗練の果てに獲得した、凡庸な者にとっては全く異質な、けれど紛れもなく高度に発達した理智が、感じられる。
それでいて「桜島」の画面に具現化していた、無邪気な聖性の輝き
……静謐と永遠を湛えた澄明な美しさ……は微塵も失われていない。
***
山下清の“最高傑作”を眼にした瞬間、溢れ出た意想外の涙は……
超絶技巧と誉め讃えられる、手技を体得し、
絵画技術が頂点に達した、晩期に至っても
脳裏に刻まれた「長岡の花火」を、描いた時と変わりなく、
『きれいな景色』を尊び、敬い、愛する純心を持ったまま
囚われ下僕となっていた、視覚の主たる自我を認知しても、
天賦の才は、かけがえのない“何か”を失う事は無かったと
幼い私が抱いた憧憬を、そのままに見極められた、歓びの涙だった。
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