2014年4月18日金曜日

三度の飯より

好きなのは、推敲だったのか……
この歳になって初めて、自覚させられた。

や、家族が居りますので、実際に三度とも食べるのを忘れちゃう、ってのは、
免れてますけど。昼食スルーがザラになっちゃいましたねぇ、殊に原稿中は。
んな事してると叱られるので、相方には内緒ですがw

嘗ては、読む事に餓えた子供だった。

幼稚園の自由時間。遊戯室での“おままごと”は、いつもお父さん役を志願した。『新聞読んでるところ』『お仕事中』と称して、“お教室”から持ち出した本を、読む事が出来たから。

就学すると、教科書は配付された即日、学級文庫は数日で、読み尽くした。定期購読していた学習雑誌も、最初は付録目当てで『科学』を選んだが、翌年から、読み物が多い『学習』に変更してもらった。

新聞はもちろん、父の趣味の本や、業界誌まで渉猟。本文は、さすがに理解しきれなかったので、コラムや投書欄を拾い読みした。商品包装に印刷された広告文・説明文さえ、読んだ。未習の漢字も多かったが、アタリを付けて読んだ。

とにかく文字と見れば、条件反射的に、読んでいた。そして、大人の目がなければ、三度の食事より、読む事の方を優先していたのは、間違いない。

加えて我ながら面白いのは、その抑えがたい欲求を、他人事のように客観する己が、既にして、心の奥に住まっていた事。

(必要もないのに、何故私は、これほど読む事に餓えているのだろう?)

明るい外の世界で、手当たり次第に何か読んでいる自分を、仄暗い小部屋の内側から、楕円に穿たれた窓越しに、不思議なものだと眺め遣る“もう一人の自分”を、明瞭に意識していた。

数十年を経て、ようやく、その因果に得心する。

幼い私を、文字に餓えさせていたのは、今の私。

読まずに居られぬ“必要”を、物心ついたばかりの自分に、生じさせていたのは。
人生の折り返し点を過ぎつつある年齢に至り、心の奥深く閾下に潜在していた、
完結を綴るまでは死ねない物語を、畢竟、意識させられることになってしまった
“もう一人の自分”なのだ。

『今の私』視点で回顧すると、因果の時系列が
逆転してるように、見えちゃいますけどね。

発達心理学で解題すれば、幼児期健忘の混沌を脱し、エピソード記憶が発達する4〜5歳頃から、メタ認知能が発達する5〜6歳頃にかけて、自発的に好んでいた行動にこそ、その人本来の“potential”が示唆されている、といった所。

俗諺で言えば、正に『三つ子の魂百まで』ですなぁ。

……という自覚を得る切欠を与えて下さった、完結を拝読するまでは死ねない物語へ、ささやかながら感謝の意を捧げるべく。“在庫”補充たる読書と、叶う事なら三度の飯より優先したい原稿作業のため、4月いっぱい乃至、黄金週間の連休が始まる頃までは、こちらの更新が滞る予定。

然したる意図もなくヨロヨロと始動した、素人字書きの“core dump”ですがw
わざわざのお運びを戴き、御笑覧下さる、ありがたくも奇特な皆様方へ、
深謝と共にお知らせ致します。


0 件のコメント:

コメントを投稿