2014年12月9日火曜日

愛されなかった天才

山下清『視覚の天才』だとすれば、司馬凌海は“聴覚の天才”だった。

しかし『放浪の天才画家』が、肉親や支援者や、彼の作品を愛好する無数の人々に、早世を惜しまれつつ逝去したのに対し。佐渡新町の富裕な商家に生まれ、神奈川戸塚の旅籠で、誰にも看取られることなく世を去った『語学の天才』は、官職も位階も剥奪され、明治維新の混沌に茫漠と埋もれてしまった。

サヴァン症候群あるいは自閉症スペクトラムを強く示唆する、司馬凌海の『奔放不羇な性格』を、今、窺い知ることが出来るのは。

同じく偉大な先達の姓を肖った司馬遼太郎御大が、当時の記録・逸話を丹念に蒐集・再構築し、歴史小説『胡蝶の夢』に登場させた「島倉伊之助」の、強烈かつ難儀な“個性”として、精緻詳細に活写して下さったおかげだ。

さもなくば、医学を『日本語で最先端のところまで勉強できる』『自国語で深く考えることができる』礎に、我が国が恵まれたのは、幼名を伊之助、長じて「海を凌ぐ」と傲岸不遜にも取れる名を自称した男に、天が賦与した“異能”の賜物だと。

今に生きる私達が、百三十余年前に世を去った“聴覚の天才”へ、深謝する機会は、たぶん永遠に失われてしまっただろう。

***

『胡蝶の夢』は、幕末・維新に同期して、一息に西洋化を果たした日本医学界の、紆余曲折を鮮烈に描出した作品だ。

第一の主人公は、松本良順

将軍家・奥医師の婿養子となるも、蘭方医学への熱意止みがたく、幕末の長崎に医学伝習所を開設。江戸にも西洋医学所を創立するが、在京・在阪の一橋慶喜・徳川家茂を往診した折、新選組との親交を深めた縁から、戊辰戦争で野戦病院の指揮を務める。仙台で官軍に降伏、のち赦免されて、維新後は山縣有朋らの推挙を請け、帝国陸軍の初代軍医総監となった。

良順先生こそは、勇気果敢・積極能動。“行動化の瞬発力”の体現者だ。

幕末・維新の混沌に怯むどころか、むしろ機に乗じて旧弊を除き、四民平等の世を切り拓くべく挑んでいく。遼太郎御大の歴史小説ではお馴染みの、坂本龍馬土方歳三を想わせる“個性”で、当初は彼一人を主人公とする構想だったかとも拝察する。

けれど、連載開始に当たり、著者が長編の稿を起こしたのは。

幼い頃から聞かされた、「佐渡は波の上」という常套句の比喩を解さず、字義の通りに受け取って、『波の上なら舟のように揺れるはずなのにどうして揺れないのか』と訝しむ、第二の主人公・島倉伊之助の“こだわり”を記述することからだった。

続く文章は、伊之助が生まれ育った故郷の風土を、紀行連作『街道をゆく』でもお馴染みの、簡にして要を得た筆致で、しかし鳥瞰図を展開するかのように、広大かつ明朗な眺望として、描出していくのだが。

『波の上に井戸があってたまるものか』
『波の上にこんな大きな山があるはずがない』

と、十歳になって猶、『波の上』という言葉の表面的な意味にこだわり続け、奇妙な疑義を呈する、伊之助少年の特異な“個性”も、再々巧みに織り込まれる。

執筆当時、サヴァン症候群自閉症スペクトラムの情報は、未だ手に入れ難かった筈なのに、あたかもそれらに精通していたかの如く。島倉伊之助こと司馬凌海が、生涯を通じて周囲から疎まれた、良く言えば『奔放不羇な性格』、有り体に言えば障害特性の異様を、精確に看破した著者の慧眼こそ、心底驚嘆に値する。

然れど、遼太郎御大の闊達な筆は、明晰鋭利なだけではない。機会のある限り『言語という言語を無限におぼえた』伊之助の、『異能としか言いようのない記憶力』つまり他者から唯一、重宝された『語学の天才』こそが、彼を温和な故郷から引きずり出した“災厄”だったと、『涙ぐむような悲しみとともに』慨嘆している。

その哀惜が著者をして、第三の主人公・関寛斎を登場させたのだ、と私は思う。

《以下『胡蝶の夢』のネタバレ(って歴史小説なんですけどw)御注意!》

伊之助の“異能”、すなわち音声として聴き取った言語を、含意も情趣も一切咀嚼することなく、語彙や文法などの“事実情報”だけを、丸呑みにした『巨大な記憶能力』は。他人と一切相通ずることなく、あらゆる“感覚情報”の共有を拒んだ『薄気味のわるい』性格と、謂わば表裏一体で。

自閉症スペクトラムの特性だったのだと、私は理解している。

とは言え、考察の基盤となる情報が、そもそも入手不可能となれば。遼太郎御大の非凡な洞察力を以てしても、“聴覚の天才”が生まれるに至った原因を、心の発達や脳の機能様式の多様性によるものとは、斟酌し難かったわけで。

“事実情報”の集積に特化した『巨大な記憶能力』も、
“感覚情報”の共有ができない『薄気味のわるさ』も、
遂に人生を破綻させた、酒色への放埒な耽溺さえも。

伊之助が呈した全ての異様を、天が孫へ賦与した才を単純に歓び、納屋の二階に上り下りする梯子を外して、机の前に閉じ込める仕置きまで厭わず、漢籍を暗誦させた祖父・伊右衛門の『教育方針』に、著者は帰結させてしまった。

確かに過度の英才教育が、障害特性を増悪した面も、あるかもしれない。

しかし机を並べていた弟は、柱を伝って脱出し、友達と遊びに行っていたそうで。年長ながらそういう知恵が働かず、弟の逃亡を目撃しつつ真似する気配も無かった伊之助は、やはり認知と行動化の発達に、“障碍”と捉えるべき遅延があったのだろう。

然りながら、そんな伊之助だったからこそ。

子ども達の喚声から遠く離れ、殺風景な納屋の二階で、ひとり漢籍に没頭することを、大いに愉しんでいたのではないか? 祖父はもとより近在の長者に褒められ、挙げ句、“異能”の価値を認めた良順先生から長崎へ喚ばれ、その地で耳にした『言語という言語を無限におぼえた』ことは、純然たる悦楽だったのではないか?

伊之助の生涯が、愛されること薄く、大成を遂げぬまま破綻してしまった由縁は。

性格的には対極にあった第一の主人公・松本良順から、酒色で憂さを晴らすという定型多数派のプロトコルを、無邪気かつ無用心に教えられてしまった不運と……

唯一、伊之助の本性を心底から理解し、当事者に寄り添う“まなざし”を保ち続けた第三の主人公・関寛斎とは、至極残念な事に縁薄かった因果なのだ、と私は思う。

旧弊が瓦解した維新の人々でさえ、“聴覚の天才”を受容し得なかったのも。
司馬遼太郎の洞察と哀惜を以てさえ、伊之助の障碍を看破し難かったのも。
サヴァン症候群自閉症スペクトラムの情報が、入手不可能だったゆえ……

けれど、たとえ充分な情報があっても、関寛斎が体現した、寄り添う“まなざし”を欠いたままでは、当事者を忌避する“タグ”や“レッテル”にしか、なり得ない。

情報が溢れる現代にこそ、相応しい当事者支援の在り方を模索する観点からも、非常に学ぶところが甚大な、司馬遼太郎御大随一の“奇跡の秀作”です。


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