2014年8月17日日曜日

感覚の囚人・共感の達人

5月に公開した記事で、サヴァン症候群の画家・スティーヴン・ウィルシャー山下 清について試みた、以下の考察。その答え合わせとすべく、綾屋 紗月 氏『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』を、先月読了した。

***引用開始***

二人の『天才画家』は、本来、言語を習得し、知能を発達させ、社会性を獲得すべき乳幼児期に、過ぎるほど敏感な視覚で、その脳を謂わば“占拠”されてしまった結果、心理的機能の発達に障害を抱える事になったのだ、と思う。

殊にスティーヴンは、凡人の努力では到達し得ない傑出した映像記憶を、“異能”として天から与えられた代わりに、言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、ほぼ完全に逸してしまった。

***引用終了***

引用箇所で展開したのは、オリヴァー・サックス『火星の人類学者』の第六章「神童たち」で詳述している、少年期から青年期のスティーヴンについて読んだ限りの私見だが。その主旨は、

自閉症スペクトラム当事者の、特性の起源は感覚の違いにあり(Step 1)
とりわけ視覚過敏が、心の発達&脳の機能様式の違いを生んだ(Step 2)

という仮説である。より具体的に詳述すれば、

『過ぎるほど敏感な視覚』で感受した『映像記憶』情報により『脳を“占拠”されてしまった』(Step 1)結果、『言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、逸してしまった』ゆえ『心理的機能の発達に障害を抱える事になった』(Step 2)

となる。従来は、自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder、略称:ASD)当事者の付帯的特性と解釈されてきた感覚過敏こそが、むしろ主訴ないし診断基準とされてきた心の発達や脳の機能様式の違いを生む“起源”なのでは?との発想だ。

驚いたことに私の素人考えは、『発達障害当事者研究』の前半で綾屋氏が展開している論旨に、ほぼ一致していた。特にStep 1は、『視覚』を【感覚】に/『映像記憶』を【身体内外からの情報】に/『脳を“占拠”されてしまった』を【感覚飽和】(【】内は綾屋氏の用語)に置換すれば、ピッタリ合致する。

感覚過敏こそが“起源”との発想に、「方向性は正解。視覚だけでなく、感覚全体に拡大してもOK」との“答え合わせ”を、当事者研究の第一人者から戴けた訳で。妄想深読みの面目躍如である。

Step 2については、スティーヴンが言語・知能の発達に深刻な障害を抱えた、カナー型と旧称されるASDであるのに対し、綾屋氏は、言語・知能の発達に遅れが無い所謂アスペルガー型との診断を受けており、一概には対照できない。

とは言え、綾屋氏曰く【感覚飽和】、すなわち身体内外から【細かく大量に】感受してしまう【感覚情報】で『脳を“占拠”されてしまった』ために、意味記憶エピソード記憶を獲得するプロトコルは、定型発達の常法から大きく逸脱していたと拝察される。

にもかかわらず、言語的論理思考が優位かつ傑出しており、全く新たな視点で発達障害当事者研究という分野を切り拓く所以となった。やはり彼女も、天から賦与された“異能”の持ち主と言えるだろう。

一方、『社会性獲得の端緒となる共同注視』に関しては、“視線”の共有のみに留まらず、【間身体性による動きの共有】に範囲を拡大して議論されている。

【感覚飽和】ゆえに【身体内外からの情報を絞り込み,意味や行動にまとめあげるのがゆっくりな】ASD当事者は、社会の多数派である定型発達者との【動きの共有】が困難であるため、【心理感覚の共有】ないし【場の共有】に支障があり、結果として『心の発達や脳の機能様式の違いが生じる』との解釈だ。

ザックリまとめればStep 2も、発想のベクトルは合致。ただし『視覚過敏』に限定せず、更に【感覚飽和】へ拡大した上で、『共同注視の発現』だけでなく、もっと包括的な【間身体性による動きの共有】に支障があるために、定型多数派との【親しさ・共同性】の構築に困難が生じると理解すべき、という“答え合わせ”になった。

神経科学も発達心理学も、ましてや小児精神神経学も、専門ではないけれど……

身体内外の感覚をひたすら受容するのみで、不快を感じれば泣いて訴えるだけだった新生児が、視力・聴力が発現し始めるにつれ、他者の視線を目で追い声に耳を傾けて、自らも応えるようになっていく。

そんな我が子の成長を身近に観察し、体感出来た知見を手懸かりに、ASD当事者の『過ぎるほどに敏感な』感覚こそが、幼い『脳を“占拠”』して他者への“共感”の萌芽を阻害する、発達障害の“起源”なのだと気付けた。

元実験研究者の面目躍如、と言いたいところだが。実は、さほどの難事ではない。【心理感覚の共有】あるいは【場の共有】、すなわち想像力で他者と【親しさ・共同性】を構築することは、定型発達者なら誰でも容易く成し遂げられる筈。

『過ぎるほどに敏感な』感覚が受容する【細かく大量】な【身体内外からの情報】で『脳を“占拠”されて』しまう【感覚飽和】が、如何に難儀な【場】か……

「見えない障害」と称されるASDであっても、その“感覚の囚人”たる【心理感覚】を、想像することによって共有し、当事者に寄り添う“まなざし”を備えた【親しさ・共同性】を以て彼らを理解し支えることは、“共感の達人”たる定型発達者こそが、発揮すべき“異能”なのだから。


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