もう少し詳説すれば、名古屋大学を主な研究教育の場として、授与された方が3名(野依良治先生・赤崎勇先生・天野浩先生)。また、名大大学院で博士号を取得した後、受賞なさった方は5名(下村脩先生・小林誠先生・益川敏英先生・赤崎勇先生・天野浩先生)で、なんと東大・京大を上回り国内最多である。
毎日新聞 2014年10月08日 東京夕刊掲載記事 『ノーベル賞:関係者6人目、名大「科学で世界へ」 旧帝大最後発、伝統作る気概』 より引用させて戴きました |
いわゆる“七帝大” −−− すなわち1886年(明治19年)に設立された東京帝国大學を筆頭に、1939年(昭和14年)までの五十余年で都合9校誕生した帝国大學のうち、“外地”に設置された京城(現ソウル大学校)・台北(現台湾大学)を除く、7校を前身とした国立大学 −−− の中で、どうして最も歴史が浅い“末っ子”が、斯くも目覚ましくthe Nobel Prize winnersを輩出しているのか?
特集記事を企画した毎日新聞の取材に応えて、諸先生が熱く語って下さった「名大(めいだい)の素晴らしさ」は、実に的を射たご見解ではありますが。
学部の4年間、その恩恵にガッツリ浴しながら、大学院入試では、京都大学もチャッカリ併願。有り難くも双方から合格を頂戴できた所で、「やっぱり学位は京大で」と、アッサリ決断してしまった上。母校には終ぞ御縁の無いまま、東京大学のとある研究機関で勤務したのを最後に、研究職からスッパリ足を洗ってしまった、不肖の後輩も。
僭越ながら少々穿った視点で、国立大学法人名古屋大学の「素晴らしさ」の根源を、ズバリ申し上げれば。“七帝大の末っ子”だから、ではないかと拝察。
「益川先生のコメントと、同じじゃんね」とのツッコミは、暫し待たれよ。
我が主旨の第一は、“七帝大の長男”すなわち東京大学のように、設立当初から現在に至るまで、国家予算から潤沢な資金を投じられるのが当然ではなかったこと。
そして第二は、“七帝大の長男”のように、優秀を極めた完成度の高い受験生が、難関突破を目指してくれるのが当然ではなかったこと、なのです。
《以下、本音全開な『どうして名古屋大学が?』のネタバレ(?!)御注意!》
まず、第一の主旨は、資金獲得に永年苦労してきたからこそ、名大は素晴らしい!と言う視点。
そもそも、関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都からの移住によって、名古屋市の人口が急増したことが、帝大設立運動が起きたキッカケだったらしいが。昭和金融恐慌・世界恐慌が重なった上、満州事変以後、国家財政は軍事費優先傾向に。
同時期に誕生した大阪帝国大學と併せ、政府予算は付かず、全額を地元が国庫へ寄付するかたちで、元々在った医科大学を前身として設立された。つまり、産学連携の概念が生まれる以前の設立当初から、名大の研究教育の基盤には、天然自然に地元企業との連携が不可欠だった訳だ。
これを象徴するのが、トヨタ自動車工業(当時)の寄付で建設された、豊田講堂。
1960年の竣工以来、名古屋大学に集う全ての生徒・学生は、合格発表に始まり入学式から卒業式・学位授与式まで、この講堂に見守られて学舎へ向かい、社会へ飛び立って行く。
そして、産学連携の伝統が見事に結実したのが、青色発光ダイオードの開発。
天野浩先生がノーベル物理学賞受賞者のお一人として、共同研究先の豊田合成と、連携を取り持った新技術開発事業団(当時)の関係者を、授賞式へ招待なさったのは、誠に行き届いたお心遣いだった。
兎にも角にも、所属組織の“名前”に依存して、研究計画そのものを厳正に吟味すること無く、安易に国家予算から潤沢な資金を投じるだけでは。実績が停滞するのみならず、烏滸がましいにも程がある、と断ずる他ない事態さえ出来してしまう次第は、皆様のご記憶にも新しいだろう。
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さらに、第二の主旨は、完成度の高い受験生は目指してくれないからこそ、名大は素晴らしい!と言う視点。
創立時の事情から、名大を志望するのは地元・愛知県を筆頭に、東海四県(岐阜・三重・静岡)の公立高校出身者が多いのが伝統。学生寮でお世話になった、個人的経験も加味すれば、数は少ないながら北海道から沖縄まで、全国の公立トップ高出身者が集う大学だった、と言える。
“七帝大の長男”との決定的な違いは、中高一貫私学からの志望者が少ないこと。
つまり、難関大合格に特化し、極端に先鋭化された中高一貫私立校のカリキュラムを、忠実にこなすことのみ要求されてきた受験生は、確かに素晴らしく優秀で。全教科バランス良く、完成度が高いけれど。
時に極めて非効率的にも、酷く理不尽にも思える、研究の“現実”に直面した時。
僅かな可能性に賭けて挑む、ぶっちゃけアホな情熱や、既存のパラダイムを超越する、ぶっちゃけ突拍子も無い独創を、生み出す頭脳が育まれるのは。
公立高校でぶっちゃけ多少の羽目を外しつつ、個性豊かに学んできた生徒が集う学舎でこそ。完成された優等生のみならず、苦手を抱える個性派も鷹揚に受け入れ、懇切丁寧に指導して下さる教授陣だからこそ、ではないだろうか?
加えて“末っ子”は、成績優秀・品行方正な“長男”より、頭は良いけど型破りな“次男”と気が合うもので(もちろん新幹線で一時間足らず、という立地もあるが)。野依良治先生・赤崎勇先生・小林誠先生・益川敏英先生のご経歴を鑑みれば、“七帝大の次男”である京都大学との連携もまた、大いに寄与していると結論して良いだろう。
最後になったけれど、『愛されなかった天才』こと司馬凌海が、『奔放不羇な性格』ゆえに、官職も位階も剥奪されてしまった後。教授として迎え入れてくれたのが、名古屋大学の前身である公立医学校であり、そこで唯一の弟子となってくれたのが、天下の奇才・後藤新平だったことを、書き添えておく。
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