2014年12月18日木曜日

どうして名古屋大学が?

今年の物理学賞が、赤崎勇先生天野浩先生へ授与された結果、21世紀に入ってからノーベル賞を受賞した日本人13名のうち、名古屋大学関係者は6名となった。

もう少し詳説すれば、名古屋大学を主な研究教育の場として、授与された方が3名(野依良治先生赤崎勇先生天野浩先生)。また、名大大学院で博士号を取得した後、受賞なさった方は5名(下村脩先生小林誠先生益川敏英先生赤崎勇先生天野浩先生)で、なんと東大・京大を上回り国内最多である。

毎日新聞 2014年10月08日 東京夕刊掲載記事
『ノーベル賞:関係者6人目、名大「科学で世界へ」 旧帝大最後発、伝統作る気概』
より引用させて戴きました

いわゆる“七帝大” −−− すなわち1886年(明治19年)に設立された東京帝国大學を筆頭に、1939年(昭和14年)までの五十余年で都合9校誕生した帝国大學のうち、“外地”に設置された京城(現ソウル大学校台北(現台湾大学を除く、7校を前身とした国立大学 −−− の中で、どうして最も歴史が浅い“末っ子”が、斯くも目覚ましくthe Nobel Prize winnersを輩出しているのか?

特集記事を企画した毎日新聞の取材に応えて、諸先生が熱く語って下さった「名大(めいだい)の素晴らしさ」は、実に的を射たご見解ではありますが。

学部の4年間、その恩恵にガッツリ浴しながら、大学院入試では、京都大学もチャッカリ併願。有り難くも双方から合格を頂戴できた所で、「やっぱり学位は京大で」と、アッサリ決断してしまった上。母校には終ぞ御縁の無いまま、東京大学のとある研究機関で勤務したのを最後に、研究職からスッパリ足を洗ってしまった、不肖の後輩も。

僭越ながら少々穿った視点で、国立大学法人名古屋大学の「素晴らしさ」の根源を、ズバリ申し上げれば。“七帝大の末っ子”だから、ではないかと拝察。

益川先生のコメントと、同じじゃんね」とのツッコミは、暫し待たれよ。

我が主旨の第一は、“七帝大の長男”すなわち東京大学のように、設立当初から現在に至るまで、国家予算から潤沢な資金を投じられるのが当然ではなかったこと。
そして第二は、“七帝大の長男”のように、優秀を極めた完成度の高い受験生が、難関突破を目指してくれるのが当然ではなかったこと、なのです。

《以下、本音全開な『どうして名古屋大学が?』のネタバレ(?!)御注意!》

まず、第一の主旨は、資金獲得に永年苦労してきたからこそ、名大は素晴らしい!と言う視点。

そもそも、関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都からの移住によって、名古屋市の人口が急増したことが、帝大設立運動が起きたキッカケだったらしいが。昭和金融恐慌世界恐慌が重なった上、満州事変以後、国家財政は軍事費優先傾向に。

同時期に誕生した大阪帝国大學と併せ、政府予算は付かず、全額を地元が国庫へ寄付するかたちで、元々在った医科大学を前身として設立された。つまり、産学連携の概念が生まれる以前の設立当初から、名大の研究教育の基盤には、天然自然に地元企業との連携が不可欠だった訳だ。

これを象徴するのが、トヨタ自動車工業(当時)の寄付で建設された、豊田講堂
1960年の竣工以来、名古屋大学に集う全ての生徒・学生は、合格発表に始まり入学式から卒業式・学位授与式まで、この講堂に見守られて学舎へ向かい、社会へ飛び立って行く。

そして、産学連携の伝統が見事に結実したのが、青色発光ダイオードの開発。

天野浩先生ノーベル物理学賞受賞者のお一人として、共同研究先の豊田合成と、連携を取り持った新技術開発事業団(当時)の関係者を、授賞式へ招待なさったのは、誠に行き届いたお心遣いだった。

兎にも角にも、所属組織の“名前”に依存して、研究計画そのものを厳正に吟味すること無く、安易に国家予算から潤沢な資金を投じるだけでは。実績が停滞するのみならず、烏滸がましいにも程がある、と断ずる他ない事態さえ出来してしまう次第は、皆様のご記憶にも新しいだろう。

***

さらに、第二の主旨は、完成度の高い受験生は目指してくれないからこそ、名大は素晴らしい!と言う視点。

創立時の事情から、名大を志望するのは地元・愛知県を筆頭に、東海四県(岐阜・三重・静岡)の公立高校出身者が多いのが伝統。学生寮でお世話になった、個人的経験も加味すれば、数は少ないながら北海道から沖縄まで、全国の公立トップ高出身者が集う大学だった、と言える。

七帝大の長男”との決定的な違いは、中高一貫私学からの志望者が少ないこと。

つまり、難関大合格に特化し、極端に先鋭化された中高一貫私立校のカリキュラムを、忠実にこなすことのみ要求されてきた受験生は、確かに素晴らしく優秀で。全教科バランス良く、完成度が高いけれど。

時に極めて非効率的にも、酷く理不尽にも思える、研究の“現実”に直面した時。
僅かな可能性に賭けて挑む、ぶっちゃけアホな情熱や、既存のパラダイムを超越する、ぶっちゃけ突拍子も無い独創を、生み出す頭脳が育まれるのは。

公立高校でぶっちゃけ多少の羽目を外しつつ、個性豊かに学んできた生徒が集う学舎でこそ。完成された優等生のみならず、苦手を抱える個性派も鷹揚に受け入れ、懇切丁寧に指導して下さる教授陣だからこそ、ではないだろうか?

加えて“末っ子”は、成績優秀・品行方正な“長男”より、頭は良いけど型破りな“次男”と気が合うもので(もちろん新幹線で一時間足らず、という立地もあるが)野依良治先生赤崎勇先生小林誠先生益川敏英先生のご経歴を鑑みれば、“七帝大の次男”である京都大学との連携もまた、大いに寄与していると結論して良いだろう。

最後になったけれど、『愛されなかった天才』こと司馬凌海が、『奔放不羇な性格』ゆえに、官職も位階も剥奪されてしまった後。教授として迎え入れてくれたのが、名古屋大学の前身である公立医学校であり、そこで唯一の弟子となってくれたのが、天下の奇才・後藤新平だったことを、書き添えておく。


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