ヒトの脳の働きをあくまでも趣味の範囲で勉強してきた「野次馬」の「傍目八目」と、いつも前置きさせて戴いておりますけれど。発達凸凹当事者さんと直に関わりを持った経験が、これまで皆無だった訳ではありません。
娘ひとりだけでしたが、子どもを育ててきた過程でも
今は離職しましたが、教員や研究者を務めた職場でも
専門家ではない以上、“診断”は無論のこと“判断”さえすべきでない旨、自戒しつつ。あくまでも“可能性”として、発達障碍当事者と拝察した方が彼らの言動に整合性を見出せる、あるいはその仮定で応接した方が上手くいく、子ども達・大人達に出逢いました。
研究の現場を離れても、多様性こそ地球上のあらゆる生命を司る万世普遍の原理、と知悉した科学者として生きたい。そんな矜恃で、当事者さん達の往々にして慮外な言動にも、好奇心と敬愛を以て接するよう、心掛けてきたつもりですが……
実は一度だけ、自戒を捨て矜恃を曲げて、利己的な決断を下した事があります。
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その“事件”は、娘が最初に就学した小学校で起きました。当時の状況を、出来るだけ客観的に箇条書きしてみると……
1. クラスメイトの15%以上が、発達凸凹当事者(専門家から勧告を受けた)
2. 上記のうち、定常的な他害行動を発現しているクラスメイトが1名
3. 上記の他に、多動傾向があって立ち歩いてしまうクラスメイトが10%
4. 加配の教職員は、学級当たり1名しか付けられない
5. 保護者会で話し合い、都合がつく親は随時教室で担任を支援することに
2.のお子さんについては、お母さんが「ADHDの診断を受け、服薬させている」と仰っていました。けれど繰り返される他害行動は、学年が上がるに連れてむしろ増悪し、娘を含め複数のクラスメイトが“対象”にされている様子でした。
校長先生の指示で持って行った物なので、その朝すぐ、担任へお渡しすれば良かったのですが。娘も私に似た粗忽者ゆえ、教科書やノートを机へ移した後、空になったランドセルと一緒に、ロッカーへ入れた儘にしてしまったそうで。
長くて嵩張る物だったため、クラスメイト達のランドセルや机を捜索するという、最悪の事態は避けられましたけれど。その時、偶々サポートに入って下さっていた親御さんが、校務員さんと協力して学校中を探して下さったのに。
娘の“大切な物”は、その欠片さえ発見されず、忽然と消えてしまいました。
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入学以来の経緯から(別件で、救急車が出動した事さえあり)、2.のお子さんは「悪い子」だという評価が、すっかり定着していました。同時にそのお母さんは、他罰的な言動で複数の保護者とトラブルになっている模様でした。
そして“大切な物”は、如何にもADHDのお子さんが関心を惹き付けられ、いたずらを誘惑されそうな、子どもにとっては“珍しい物”でもあったので……
娘は「2.のお子さん」の“被害者”と考えるのが、妥当なように見えました。
クラスメイト達の保護者は勿論、恐らく先生がたでさえ、そう思っていました。
この“事件”後に、拙宅が別の自治体へ転校すると決めた時、共に担任支援へ協力していたママ友達や、わざわざ面談の時間を設けて下さった校長先生は、逃げ出す私を非難するどころか、むしろ励ましてくれました。
でも私は、「2.のお子さん」が娘の“大切な物”を紛失させた可能性、ほとんど無いと考えてます。“大切な物”のサイズや形状から、大人ふたりが学校中探しても見つからないよう隠すなんて、ADHDなあの子には到底無理だったのでは、と思うのです。
ならば一体、“真犯人”は誰だったのか?
ここまで読んで下さった多くの方は(ひょっとしたら全員)、そう疑問に思うでしょう。
しかし、悪いのが誰なのか・責任は誰に在るのかを追求したくなる、人間として至極自然な感情こそ、“真犯人”が抱いた動機の根源であり。
障碍当事者への“合理的配慮”を具現化するために、必ず乗り越えなければならない、最大最強の心理的障壁なんですよね……
次回はこの問題に焦点を当てつつ、“事件”を解題していきたいと考えてます。
>> 次回『“合理的配慮”アカンのは何?』を読む
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