2014年10月20日月曜日

日常の偶然・必然の奇譚

先月来、筆者も全く想定外だった連載を、心の滾りが赴くままに、突発させてしまった“日常の奇譚”コミックスレビュウ。本日は第3回目にして、完結を目指します!

一応、話頭は続いておりますため、前回までの2篇も併せて、お時間許す範囲で御笑覧戴けますと幸甚。てことで、リンクを張りつつ……
>>第1回『奇譚の日常』を読む
>>第2回『日常の奇譚』を読む

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さてさて、斯様に愛して止まない『シャーリー』『それでも町は廻っている』そして『書生葛木信二郎の日常』なのですが。他人様へお奨めしようとなると、実は逡巡してしまう作品だったり。

定法どおり舞台背景を、「20世紀初頭のロンドン」とか
「大田区の丸子商店街」とか「大正時代の帝都東京」とか。

次いで主人公の設定を、「13歳ながら、良く出来た頼りになる少女メイド」とか
「メイド喫茶でバイト中な、探偵志望のへっぽこ女子高生」とか
「妖怪屋敷に下宿してる、小説家志望な帝大卒の書生」とか。

説明し始めた途端、お聞き下さってる相手の反応に、曰く言い難い気配。

すなわち「ロンドン」だの「商店街」だの「大正」だの「帝都」だの。「少女」やら「メイド」やら「女子高生」やら「妖怪」やら「書生」やら。余りに人口に膾炙した“タグ”の群れが、いわゆる“萌え”を追求した既存作品の“イメージ”から、妙に堅固な、しかし全く該当しない先入観を構築していく様が感知できてしまって……

むしろ、従来の“萌え”を狙った一連の作品に対する、密やかにして果敢なるアンチテーゼとも謂うべき、これら“日常の奇譚”の真髄を、適確に表現できない自分にこそ憮然とし。ウームと言葉に詰まってしまうのです。

叶う事なら“日常の奇譚”タグを、大々的に普及させたい所存ではありますがw 

そこまでの気概と実力、ならびに無謀を己に許してしまう根拠無き自己肯定感は、残念ながら欠く身なれば。敬愛して止まない大先達・藤子・F・不二雄先生の、これこそ“日常の奇譚”の結晶と申し上げるべき『ドラえもん』を、前々回前回ともに引用させて戴きながら、胸の裡に溢れる滾りを切々と綴って参りました次第。

その上で愈々、『書生葛木信二郎の日常』の魅力を語らせて戴けば。

まず第一に主人公たる葛木信二郎の、キャラを敢えて立てて“いない”所が、ツボを見事にギュギュッと押さえて素晴らしい。なんてったって、初回から『小説家志望』と謳っているのに、如何なる小説をお書きなのか、第36幕まで一切描出されてない(あ、揶揄じゃないですよ〜w ホントに真摯に称讃しておりますです)。

仮に、ドラマツルギーの在庫が心許ない描き手であれば、信二郎の兄・悌一郎をこそ、主人公にしちゃうでしょうね。社交的で頭が良くて、祖母から受け継いだ力も強くて。単なる“見鬼”に留まらず、人事の外に棲む怪しきモノをも巧みに統べる彼ならば、作者が構想に詰まった時でも、勝手に話を転がしてくれそうですし。

然れど“日常の奇譚”をこそ、物語ろうと志すのならば。

一見、掴み所の無い個性、そして小説家を目指すにしてはツッコミどころ満載な、“大正の野比のび太”こと葛木信二郎が、必然的に主人公なのです。

なぜなら『黒髭荘奇譚』の真の“主役”は、

百年を遡った昔には、「江戸」と呼ばれ
五十年前の維新で、「帝都」に定められ

その名を「東京」と改めて以後、『時の流れに遅れまいと 
みんなが必死になって、積み上げるように』『生きてきた街』だから……

《以下、最終話・第48幕「新しい日常」のネタバレ御注意!》

さればこそ、“主役”たる『帝都東京』が、大正関東地震で壊滅してしまった“奇譚の破局”、すなわち関東大震災を描く最終幕に至り、主人公の真価が顕現します。

とは言え勿論、信二郎が突然、
変身出来るようになったり 魔法が使えるようになったり、
遂に到来してしまったcatastropheから、世界を救ったりするわけではなく。

彼は『あの日』以来、『ずっと歩き続けている』だけ。

弟より遙かに優れた“見鬼”である悌一郎さえ、『妖の姿もほとんど見かけなかった』焼け野原の街で。陰陽師として修行を積んだ沙真良嬢さえ、『このままずっと会えなかったら…』と、仮定の未来を不覚にも想い描いてしまったのに。

黒髭荘の瓦礫に無残に割れたコーヒーカップを見つけて、陽が傾くまで涙に暮れたとしても。信二郎は『守りたい人』の無事を、与えられた名のままに信じるだけ。

けれど、黒髭荘という『拠り所』を失い、何故か『見つかる時と、なかなか見つけられない時と』があるバラックで、夢と現のあわいに危うく漂いながら、辛くも生き延びていた妖たちに、変わらず在り続ける“力”を与えた源泉は……

妖しきモノ達は確かに存在すると、固く信じ続けた人の心。

すなわち人事の外に棲む彼らを、在るが儘に受け容れ続けた
信二郎の底知れぬ包容力こそが、“奇譚の破局”に至っても猶
妖たちを再び顕現させ得た源泉なのではないかと思うのです。

そして日常を刻み続ける時が、90年後の「東京」に至っても。

稀有にして幸福な日常の偶然が、幾度も積み重なった結果
導かれるであろう必然の奇譚を、固く信じ続ける人の心が
歩んで行く未来は、少しずつより良い方向へ変わるのだと。

『ドラえもん』が最初に教えてくれた“日常の奇譚”を、どれほど時が経とうとも
変わらず愛する皆様にこそ、『書生葛木信二郎の日常』超絶オススメです!!!


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