2015年7月3日金曜日

前略、“発達障害な僕たち”さま

先月末、一週間に渉り、NPO法人青少年生活就労自立サポートセンター名古屋のブログ『発達障害な僕たちから』へ、寄せさせて戴いたツイート再録です。

多忙を極めるサポートスタッフの皆さんに、コメント管理の労をお掛けするのは、恐縮至極。そして同じく、ご多用を押して記事を書いて下さってる当事者の皆さんに、コメント返しのお気遣いを強いるのは、本意ではございません。

そんな次第で、自己リプにてボソボソ独白しておりましたが。一気読みできると、また違った形でお役に立てるかも……と若干の改稿を加え、転載してみました。

2015-06-24『ひきこもっている人たちの声 青木』へ寄せて


ひきこもりに至る“難儀”は、当事者『自身が どうしていいのかわからない』こと。
そして、他者に『伝えたところで どうなるわけでもないと思っている』こと。

感覚過敏が嵩じた感覚飽和もしくは感覚鈍磨のため、当事者さんはご自身の【感覚情報】を【意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】すなわち自分が“感じる事・思う所”こそ、むしろ“まとまらない・客観できない”という特性がある。

だから『どうしていいのかわからない』

ご自身の【感覚情報】を【意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】だと、それを待てない周囲は、ついつい何でも先回りしがち。親御さんや先生が整えてくれた“お膳立て”に、応えられるうちは表面上、問題が無いように見える。

しかし他者との齟齬が一旦生じた時には、
『伝えたところで どうなるわけでもない』と“誤学習”をしてしまう。

たとえ当事者自身の【感覚情報】を【意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】でも、
当人が『どうしたらいいのか』を自ら掴むまで、ジックリ待つことが支援の第一歩
になる所以です。

あ、親御さんや先生の整えた“お膳立て”が、たとえ日本で最難関とされる最高学府でも、あきまへんぇ。東京大学へ入学・卒業できても、修士課程で生じた他者との齟齬に、不適応を起こして不登校→ひきこもり、というケースもあるのですから……

大野さんの俠気溢れるカミングアウトは、発達障碍は知的障害でも学校制度の問題でもないことを実証し、たとえ東大へ入れても相応しい支援・適用すべき合理的配慮が成されなければ、社会へ適応できないことを提起する上で、大変意義深い一歩なのです。


2015-06-25『電話の問い合わせが400件に 俊介』へ寄せて


発達障碍者は他者の気持ちに寄り添うことが苦手…広く流布されている障害特性ですが、実はまるで見当違いな誤解ではないか…俊介さんの文章を読むと、そう思います。

過ぎるほどに鋭敏な五感を介し、他者の【感覚情報】を非言語的な“事実情報”として精細緻密に読み取れる一方、自分自身の【感覚情報】すなわち「感じる事・思う所」こそ、むしろ「まとまらない・客観できない」というジレンマ。

他者の気持ちに過ぎるほど寄り添えるから『他の人と同じことをしたいのに』
自分自身の【感覚情報】を、取るべき行動へまとめ上げることが困難だから
『不安が強くてできない』ジレンマ。

それを打開してくれた『適切な支援』は、
取るべき行動を明示し、“役割”を与えてくれること。

『自分の無力さを感じ』つつも、かつての不安に陥ることなく『何ができるかわからないけれど、なんとかしたい』と思えるのは。『与えられた役割』が、今の俊介さんにはハッキリ見えているから…なんですね。

自身の【感覚情報】を行動へまとめ上げるのが【ゆっくり】な特性を、待ってあげられない周囲が先回りして整えた“お膳立て”は、(たいてい見当違いな)“手段”に過ぎません。たとえ“お膳立て”が、日本で最難関とされる最高学府への入学であっても、東大生になることは“役割”じゃないので。

大野さんも、今は『経済的に独立して、結婚し家庭を築き、親と家族がともに過ごす』という、自分が果たすべき“役割”を明確にイメージできています。

でも、それを可能にしたのは、
東大進学という“手段”を目標と勘違いしてた受験勉強じゃなくて…

揺れる気持ちを支え続けながら、
『将来のことを話し合って』くれた『適切な支援』なんです。