2016年5月31日火曜日

“合理的配慮”てコレやがな!

前々回の記事では、金沢大学子どものこころの発達研究センターが監修した『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』を拝読しつつ、発達障害と称される(当事者研究の観点からすれば、五感や認知に凸凹を抱える)お子さん達でもリスクの大きな二次障害(不登校・ひきこもり等)へ陥ることなく就学・就労が叶う「育ち」を目指して、「うまくいっちゃう文化」をご家庭に醸成しませんか?と提案させて戴きました。

申し遅れましたが、「育ち」の場で醸成される「文化」こそ、「うまくいっちゃった」ケースへ落着させるために最も重要な徳目、という発想をご教授下さったのは、Z会進学教室・渋谷教室長の長野 正毅 先生。ブログやご著書で幾度も丁寧に説いて下さっている、「幸せに生きるヒント」であり「励ます力」の源泉であり、「どうしたら勉強ができるようになるか」という秘訣だったりもするのです。

あれ? 発達障害と診断されても、不登校・ひきこもりに陥らせない話だったのに……
「どうしたら勉強ができるようになるか」ていうのは「普通」の子たちの話でしょ?

読んで下さった皆さんが、そう疑問に思って下さったなら、誠にありがたい。
実の所、発達の凸凹が「育ち」の本質を損なってしまうわけではありません。

「育ち」の本質は、成長。
「幸せに生きる」力を身につけていく、お子さんの変化です。

なのに「育ち」に関わる大人たちが、「みんな」より優るか劣るかこそ重要だと勘違いして、「普通」と称される基準を設定してしまうから、人間なればこそ本来「個性」と呼ぶべき「多様性」に「発達障害」のラベルが貼られてしまう、と私は思うのです。

なればこそ「どうしたら勉強ができるようになるか」という秘訣は、「どうしたら就学・就労できるようになるか」に応用可能。発達の凸凹が有っても無くても、お子さんが就学・就労に『向いた文化圏で生活しているかどうか』を意識して戴きたいのです。

例えばの話。お子さんが通う学校に対して、親御さんが常日頃、懐疑的な態度を示してらっしゃる『文化圏で生活している』としたら、どうなるでしょうか?

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昨年6月、『“合理的配慮”て何ですのん?』という記事に綴った『娘が最初に就学した小学校』は、発達の凸凹の有無を問わずどの子が不登校に陥っても不思議は無い、就学意欲を喪失させて然るべき『文化圏』で、子どもたちを生活させている状況でした。

端的に箇条書きすれば、

1. クラスメイトの15%以上が、発達凸凹当事者(専門家からの勧告済み)
2. 上記のうち、定常的な他害行動を発現しているクラスメイトが1名
3. 上記の他に、多動傾向があって立ち歩いてしまうクラスメイトが10%
4. 加配の教職員は、学級当たり1名しか付けられない
5. 保護者会で話し合い、都合がつく親は随時教室で担任を支援することに

となりますけれど……

加配教諭が事実上「2.のお子さん」専任になってしまい、「3.のお子さんたち」への対応が不充分なまま、依然、担任教諭は授業に専心できない=どのお子さんも適切な公教育を受けられない状況に、関わる者全てが不備を感じていた不合理な配慮こそ、名目上は「担任を支援する」との建前で「都合がつく親は随時」学校側を監視するという、『社会的資源をめぐる争いの最前線』が教室内に生じた原因だったと私は思うのです。

そして、拙宅が転校する決断を下した“事件”は(発達の凸凹を抱えつつ「得意を伸ばす」ことで頂戴した「良い子」の証を、紛失させた“真犯人”の)、配慮の恩恵を唯一受けているように見えた「2.のお子さん」を貶めると同時に、学校を代表する立場にあった校長先生が、「良い子は全校集会で表彰してあげましょう」と情緒的庇護を特定の生徒へ発動した不適切に対する、義憤が衝き動かした独善と捉えるべきなのでしょう。

その上で私自身、幸甚にも娘の「得意を伸ばす」ことが叶い、「みんな」の「普通」を上回らせることが出来た嬉しさの余り校長先生から提案された情緒的庇護を浅薄な虚栄心に俯瞰が曇り丁重に固辞できなかった結果、発達障害なのか・そうではない「良い子」なのかという『差異をめぐるやりとり=政治』を敬愛を以て回避できなかった自らの不徳に、あの“事件”は思い至らせてくれたのだと、むしろ今は深謝しています。

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加えて娘の転校は、「うまくいっちゃう文化」を醸成する契機にもなってくれました。

それまでは「得意を伸ばす」ことで、発達の凸凹を補填していくつもりでしたけれど、誰かと競ったり自分だけ先んずることを嫌う娘自身の価値観を、最優先で尊重すべき旨に気づかされたのです。自閉圏当事者の皆さんが綴って下さった文章を拝読し始めた件と併せ、「みんな」の「普通」を上回れるよう中高一貫校の受験へ親が主導するのではなく、公立中学校からの高校受験を娘自身の嗜好に沿って選択する覚悟が出来ました。

また、小中一貫教育が先行実施されていた教育特区を転校先に選んだ結果、先進的な公教育の恩恵にあずかることが叶い、特に経済活動体験将来設計学習は、就労に『向いた文化圏』が家庭内で醸成される基盤を築いて戴けたと思います。それにも増して有り難かったのは、学校の先生がたは勿論、学区内の「育ち」に関わる大人たち全てから、子どもたちの個性を承認する「うまくいっちゃう文化」で頼もしく支えて戴けたこと。

親子三代揃って地元の公立校&ご近所みんなが昔馴染みの顔なじみ……まるで昭和時代?みたいな学区は、発達凸凹クラスタかなと拝察されるお子さんも「あの子はそういう子なんだよね」と、ありのままに受容する胆力を備えた大人がPTA役員や地区委員。不登校気味なお子さんにも「高校は、チャレンジかエンカレッジへ入れば良いのよ〜」なんて言って下さるボトムアップの「文化」こそ合理的配慮の真髄だと思うのです。

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小学校中学年から思春期前半にかけ、学区まるごと「うまくいっちゃう文化」な公教育を授かったおかげさまで、障害告知された当時の基準なら高機能自閉のラベルが貼られる筈だった娘は、テンプル・グランディン博士ご著書「励ます力」の源泉に、併願優遇で進学した私立高校の先生方へご心労をお掛けしつつも、一般入試で私立大学へ現役合格。初年度は、留学や大学院進学・奨学金公募の推薦に適うGPAを獲得しました。

彼女の大学受験と時を同じくして始動した発達障がい学生支援部門には、今のところお世話になっておりませんが。いかに出身高校が無名でも、新入生歓迎会で「名門!」と喝采して下さるサークルの伝統と相俟って、多様性を鷹揚に受容して下さる学風すなわちボトムアップの「文化」への信頼は、どんな支援より心強い「合理的配慮」であるらしく、センター試験方式への不適応による失敗体験を完璧に払拭してくれた模様です。

教育特区一部の高等教育機関など、いわゆる「意識の高い」現場で先行実施されていた「合理的配慮」は、障害者差別解消法の合理的配慮規定等として本年4月より施行。政府が主導したトップダウンの法整備で、国公立の大学等では障害者への差別的取扱いの禁止と合理的配慮の不提供の禁止が法的義務となり、私立の大学等では障害者への差別的取扱いの禁止は法的義務・合理的配慮の不提供の禁止は努力義務となりました。

その一方で、子どもたちの「育ち」に関わる立場にありながら、障害の「受容」は「迎合」ではないし、支援への「信頼」は「依存」ではないし、「合理的配慮」は「情緒的庇護」ではないのに、勘違いなさる大人たちが依然、後を絶ちません。

「かわいい子」とは思っても「かわいそうな子」と思うべきではない「障害の受容」「支援への信頼」「合理的配慮」の何たるかを充分に理解できていないため、他罰的になったり独善的になったり利己的になったりしてしまう大人は、お子さんたちがうまくいかない『文化圏で生活している』旨に気づける俯瞰が備わっていない結果、「育ち」の場で『社会的資源をめぐる争いの最前線』を生じさせてしまうのだと思います。

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先述したとおり、合理的配慮の真髄はボトムアップの「文化」にあります。

まずは、「普通」と称される基準に当て嵌めて「みんな」より優るか劣るかで評価した途端、発達の凸凹が有っても無くても、「育ち」の本質であるお子さんの変化を見失うことになる旨、お気づきになって下さい。

さらに、「育ち」に関わる大人が他罰的になったり独善的になったり利己的になったりすれば、むしろ就学・就労意欲を喪失させて然るべき文化圏で、お子さんたちを生活させている事態に陥ると、お心得戴きたい。

そして、他罰的でも独善的でも利己的でもない俯瞰からご覧になった上で、「育ち」の場で醸成される「文化」に不合理が生じていると確信なさるなら、より相応しい支援・適用すべき合理的配慮は何か、明確に助言・提案できる専門家(スクールカウンセラー等)へ、遠慮せず・躊躇せずご相談戴くことが最善かつ充分な対応とご認識願いたいのです。

「合理的配慮」の真髄は 我が子であれ よそ様の子であれ 
「かわいい子」と思っても 「かわいそうな子」とは思わず

>> 初回『“合理的配慮”て何ですのん?』を読む

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