2014年12月31日水曜日

All’s right with the world!

『すべて世は事もなし』

と訳詩集『海潮音』で、上田敏が名訳を施した由縁から、日本人にも広く親しまれるようになった、ロバート・ブラウニングの詩句が、本日のタイトル。

しかし直前の『God’s in His heaven.(神、そらに知ろしめす)』と、対をなす一節だと承知していなければ、その真価は玩味できない。『All's right』と屈託無く人生を謳歌するには、自身の住まう『the world』を如何に感受しているかが肝要……というironyが、この詩句に籠められた趣意なのだから。

長野正毅先生が、再々用いておられる言い回しを拝借すれば。『私は「私」ではあるものの もうちょっと大きな何か』すなわち『全体の一部』に過ぎないと弁え、『全体の意志』全体の知恵』をこそ尊重する。そんな『考え方』が、『All's right with the world』の秘訣ではなかろうか。

とは言え、その心境に達する事ができるのは、“少数派”なのだと思う。

“多数派”つまり“普通の人”が、『私は「私」ではあるものの もっと大きな全体の一部』と達観できかねている最大の枷は、恐らく“私利私欲”なのだろう……と、つい推定的な語調になってしまうのは、憚りながら私自身も、“普通の人”に比較すると極度に我欲を欠いた、“普通じゃない人”だから。

どんな分野であれ、生業となさっている職務の範囲を大きく超え、他者の「為に成る」べく、各々お持ちの「溜め」を役立てようと、欲得抜きで天然自然に行動化してしまう物好きな御仁w は、間違いなく私利私欲に疎い“少数派”だ。

『ひなママ』さんは、ご自身が『うまくいっちゃったADHD』である旨、“種明かし”してらっしゃるが。実は私にも、『うまくいっちゃった“少数派”(多分、ADHDクラスタ)』の自覚がある。語弊を怖れず言及すれば、実はノーベル賞受賞者の大多数も、『うまくいっちゃった“少数派”』ではなかろうか、と拝察する。

私利私欲の桎梏に囚われ、『with the world』の境地に未だ至らぬ“普通の人”には、『うまくいっちゃった“少数派”』を、僻む輩も居りましょうが。“少数派”の脳の“普通じゃない”機能様式は元来、地球上の生命を司る万世普遍の“多様性”で。ゆえに彼らは生来、人類の住まう世界を『All's right』へ導く駆動力となるべき存在で。

我欲の軛から天然自然に解き放たれた、あるいは『全体の意志』『全体の知恵』を極めて近しく感じ得る、“普通じゃない人”に生まれ付いたからこそ。空気読めないとか自己中だとか、“普通の人”の私利私欲に揉まれ忌避され、二次障害に苛まれる顚末に至ってしまった“少数派”が、発達障碍当事者なのだ、と私は思う。

妙な具合に先鋭化し、ますます狭量になりつつある教育課程で、“普通じゃない子”を忌避すべく貼られた、“タグ”や“レッテル”がASDであれADHDであれ。

より良き処を目指して努力する純粋な心根を持ち、自分には達し得ない未来を担って下さるお若い方達を、『うまくいっちゃった“少数派”』へお迎えしたい。

***

先月末に身内の不幸がございました喪中につき、年頭の御挨拶を謹んでご遠慮申し上げます……という次第で、年明けの賀詞に代えての一筆啓上。

来たる新しい年も、欲得抜きで、
天然自然に『好奇心と敬意と仁愛』を以て。

本来、万世普遍の原理である筈の“多様性”が、
何故“障害特性”と呼ばれるようになってしまうのか? 

ボンヤリ考え始めた仮説を、より鞏固な主張へ展開し、
具体的な戦略戦術へと結びつける努力を、続けて参ります。

世界中の皆様に良いお年が訪れますよう、祈念を籠めて……
God’s in His heaven. All’s right with the world! 


2014年12月29日月曜日

為に成るには溜めが要る

年の瀬も押し詰まり、皆様ご多用の時季だというのに、警察のご厄介になった。

と言っても、単なる落とし物で。現場は、自宅から徒歩5分の、商業施設。
モノは、内科やら眼科やら、同じく近所にある掛かり付け医の、診察券数枚。

恐らく何日間かは、サービスカウンターで預かっていて下さったのだろうに。粗忽な持ち主が、その間に落とした事さえ気付かなかった結果、恐らくは最寄りの交番経由で、自宅から徒歩で片道25分の所轄署送致となった。

診察券は、貴重品ではない。次の受診時に、再発行して貰えば、事足りる。
落とした分は全て、拾得・保管戴いているようだから、悪用される危惧も無い。

かえって遠くなった保管先へ、“処分”を依頼する選択肢もあった。

実際、“関係先”の一つとして“捜査依頼”を受け、お仕事の合間に「診察券、落とされたみたいですよ」と、電話でお知らせ下さった内科医院の受付嬢からも「引き取りに行くかどうか、事前に電話を」と、警察署の代表番号から担当課の内線番号まで、懇切丁寧なご伝言を戴いている。

しかし、私は小一時間掛けて、徒歩で往復する事を選んだ。

***

動機の第一は、いつも図書館へ向かう途上、横目で見遣るだけだった所轄署へ、入ってみたいという好奇心運転免許どころか自転車さえ持たぬため、警察との御縁は滅多に無いのだ。そして第二には、自分の不注意で、関係各所へご面倒をお掛けしてしまった次第を、虚しくするのは心苦しいゆえ。

床に散らばった診察券に気付き、拾い集めてサービスカウンターへご持参下さった方。そこで所定の保管期間を過ぎ、駅前交番へ届け出て下さった担当者。交番から所轄署まで、送致して下さった制服警察官。“捜査依頼”を承け、カルテで検索した拙宅の電話番号へ、連絡して下さった医院の受付嬢……

日頃から習い性となった妄想の“癖(へき)”が、脳裏に在り在りと描出するから。

関わって下さった方々は一様に、いつも通りに当たり前の事をしただけ、と仰るかも知れないが。名前こそモノに明記されているとは言え、見ず知らずの粗忽な持ち主の「為に成る」べく、各々お持ちの「溜め」を少しずつお分け下さった次第を、ひたすら有り難く愛おしく感じてしまう。

理系女子の行動原理は、やっぱり『好奇心と敬意と仁愛』

***

冬型の気圧配置が、少しずつ強まって行く気配の寒空。斑に浮かぶ雲の群れを見上げ、初めて警察のご厄介になったのも落とし物、ソプラノリコーダーを失くしたんだっけ、と思い出す。

あの時は、さすがに帰宅して即、気付いた。慌てて探しに戻ったけれど見付からず、母に叱られ、警察へ届けを出しに行ったのだ。生まれて初めて捺印を要求され、印鑑なぞ持ってはいない小学生だから、こういう時は拇印を捺すのだと係官に教えてもらった。

埒もない追憶に耽りつつ、同じ頃、学校の図書室で二類の棚を総ナメにするほど、伝記・評伝を読みまくり、哀惜の念という感情を生まれて初めて抱いたことも、ついでに想い起こす。

  今在る自分が多少なりとも、他人様の「為に成る」大人になれたのは、
  生い育って来る間にお分け戴いた「溜め」が、深く積み重なった必然。

北西の季節風に舞い上げられたメタセコイアの葉が、空中に描く赤銅色の落下軌道を追う束の間。未だ襁褓の取れぬ私の裡に、既にして棲み着いていた『本当の自分』が、そう告げてくれる


2014年12月24日水曜日

名乗りの由来は

拙ブログを開設して、9ヶ月あまりが経ちました。

“タイトル”と“アドレス”を決めた(と言うより、Bloggerから指示されるが儘に、入力したw)経緯は、最初の記事で『事のはじめに』と題して綴りましたが。

筆名については何も解説してなかったなぁ、と思い当たり。『訊かれて名乗るも、烏滸がましいが』となる以前、訊かれてもいないのに説明しちゃうのは、自己顕示欲丸出しみたいで恥ずかしい事この上無いのですけど。

どうやら「ヒルマ」という名乗りが「屁理屈、上等!」な文体と相俟って、御笑覧下さる皆様方へ、「筆者は男性」という事実に反する、そして全く意図していなかった印象を与えてしまっている様子でしてw

然りながらその実体は、性差を超越した存在こそ正義!な、中二病魂を引きずってる小母ちゃんですから。意想外な現況を、大いに好ましく感じております一方、誤解を与えたまま蔭でニヨニヨしてるのも大人気ない、という事で。

***

カタカナ表記すると、その字面から往年の外国人プロ野球選手、または監督を想起させてしまうのが、「筆者は男性」と誤解される原因?と、拝察してますけれど。

Hilma」は、歴とした女性名。

リンク先の解説に拠れば「20世紀の変わり目に、時折」あるいは「19世紀初頭のスカンジナビア文学で、恐らくはWilhelminaの一変形として」用いられたらしく。個人的には、Wilhelminaの趣意が"willing to protect"、すなわち「守護を志すこと」という字義だと知った件が採用の決め手だったり。

正直に白状すれば、「Wilhelminaの一変形」と知って最初に連想しちゃったのは、無論『灼眼のシャナ』の“ヴィルヘルミナ・カルメル”女史ですけどね!って、やっぱり実体は、中二病魂を引きずってる小母ちゃんですw

あ、ついでに姓の「箭澤(やざわ)」ですが。

日本人の姓では用いられない「箭」を敢えて採用したのは、勿論『xxxHOLiC』の“壱原侑子”女史に肖ってのこと。ちなみに「箭」の字義は、ヤダケ。使い様によっては、矢軸にも筆軸にも釣り竿にも侑子さん愛用のキセルの羅宇にもなる、という含意ですw

***

などと、あれこれ蘊蓄を並べてはみたものの……
実の所、最初に閃いたのは「昼間っから、駄文を綴っております」の、「ひるま」だったりw

兎にも角にも、「ヒルマ」は女性名と、お心得願えれば幸甚です。


2014年12月21日日曜日

大統領さんへの返信

『ヒルマさんへの手紙』
そして『ヒルマさんへの2度目の手紙』

どちらの記事も、たいへんありがたく、

感謝感激でピャーッとなりながら、拝読しました。

メチャメチャ嬉しかったんですけど、12/17の記事

寄せさせていただいたコメントで、
「いってらっしゃい!」のみならず
ウッカリ新年のご挨拶まで、してもうたんで。

自分の“せっかち”を悔やみつつ、家事を片付けながら

どうお返事したものか……モダモダしておりましたw

そんなんしてたら、ひなママさんから

「励ます力の連鎖」いい言葉ですなぁんて、
またまたありがたい記事を、賜りまして。

ガッツリ『励ます力』を分けて戴けましたし、

今日は頑張れそうですw

***


『僕には ほめてくださったポイントの

 意味がよくわからず』てのは、11/28の記事
宛てたコメントの文章、かなぁと拝察しました。

『「まあそうなんだ」と思う様にしたまま』で、
実は、断然OK! どっちゃかと言うと
サポートスタッフの皆さんが、判って下されば……
てな心積もりやったし。「まあそうなんだ」と
心に留めていただけただけで、充分ありがたいです。

でも、あん時の“予言”もう当たってますねんでw

第一に、
『ヒルマさんへの手紙』で知らせて下さった
『もう一人の僕』を感じることができた
『本当の自分』こそが、“メタ認知”ってヤツ
なんですよ。

第二に、
『ヒルマさんへの2度目の手紙』で書いてはった
僕だけでなく、スタッフそして青木さんまで
 巻き込んで、「HAPPY」をシェアした
あの感じが、まさに“感覚情報の共有”で。

そして最後に、
12/17の記事で、決断して下さったこと。

ヒロさんに遠慮せんで、
「ブログをお休みします」「後はよろしくね」
青木先生やスタッフさんに遠慮せんで、
「いろんな体験をする旅にでます」

あれこそが、最終ゴールの『妥当な行動化』
だったんです!

……って言われても、大統領さんご自身は、
全然、気付いてはらへんかったでしょ?

『外見そのまま、中身ごっそりと
だれかの人格と入れ替わったかのような』変化は、

本人が、いちいち意識せぇへんくらい、小っさな、
せやけど、着実にライフが溜まってくこと=成長が、
コツコツ積み重なった結果、なんどすぇ。

だからこそ、小っさな成長にめざとく気付いて、
「オイ。ちゃんと、ライフ溜まってるぞ
と声を掛けてくれる『本当の自分メタ認知

自分だけでなく、支えてくれてる周りの人達と、
気持ちをシェアする=感覚情報の共有力

ライフを溜めるために、必要な決断は
遠慮せんで思い切ってする=行動化の瞬発力

の3つが全部、揃っててくれないと、
どんな天賦の才能に恵まれてる人でも、
なかなか、上手く成長できひんのですわ。

逆に言えば、3つが全部揃った大統領さんは、
着実にライフを溜めて、グイグイ成長して行ける。
つまり……

旅のはじまりは もう思い出せない 
気づいたら ここに いた 

って感じになってかはるんやろねぇw 

***

ちなみにひなママさんはオビ=ワンで、
ヨーダはヒルマさん』て、ヒロさんの“たとえ”
なかなか、お上手でございましたけど……
わたしら二人とも、一応、女子なんでw

ひなままさんは、
秘密の地下室で腐海の謎を調べてる、ナウシカ

ヒルマ小母ちゃんは、
「青き衣の者」の伝承を語る、大ババさま

大統領さんは、
腐海の謎を解くため世界中を旅する、ユパさま
てのは、いかがですやろか?

さてヒロさんは、誰がよろしうございますかねぇw

2014年12月18日木曜日

どうして名古屋大学が?

今年の物理学賞が、赤崎勇先生天野浩先生へ授与された結果、21世紀に入ってからノーベル賞を受賞した日本人13名のうち、名古屋大学関係者は6名となった。

もう少し詳説すれば、名古屋大学を主な研究教育の場として、授与された方が3名(野依良治先生赤崎勇先生天野浩先生)。また、名大大学院で博士号を取得した後、受賞なさった方は5名(下村脩先生小林誠先生益川敏英先生赤崎勇先生天野浩先生)で、なんと東大・京大を上回り国内最多である。

毎日新聞 2014年10月08日 東京夕刊掲載記事
『ノーベル賞:関係者6人目、名大「科学で世界へ」 旧帝大最後発、伝統作る気概』
より引用させて戴きました

いわゆる“七帝大” −−− すなわち1886年(明治19年)に設立された東京帝国大學を筆頭に、1939年(昭和14年)までの五十余年で都合9校誕生した帝国大學のうち、“外地”に設置された京城(現ソウル大学校台北(現台湾大学を除く、7校を前身とした国立大学 −−− の中で、どうして最も歴史が浅い“末っ子”が、斯くも目覚ましくthe Nobel Prize winnersを輩出しているのか?

特集記事を企画した毎日新聞の取材に応えて、諸先生が熱く語って下さった「名大(めいだい)の素晴らしさ」は、実に的を射たご見解ではありますが。

学部の4年間、その恩恵にガッツリ浴しながら、大学院入試では、京都大学もチャッカリ併願。有り難くも双方から合格を頂戴できた所で、「やっぱり学位は京大で」と、アッサリ決断してしまった上。母校には終ぞ御縁の無いまま、東京大学のとある研究機関で勤務したのを最後に、研究職からスッパリ足を洗ってしまった、不肖の後輩も。

僭越ながら少々穿った視点で、国立大学法人名古屋大学の「素晴らしさ」の根源を、ズバリ申し上げれば。“七帝大の末っ子”だから、ではないかと拝察。

益川先生のコメントと、同じじゃんね」とのツッコミは、暫し待たれよ。

我が主旨の第一は、“七帝大の長男”すなわち東京大学のように、設立当初から現在に至るまで、国家予算から潤沢な資金を投じられるのが当然ではなかったこと。
そして第二は、“七帝大の長男”のように、優秀を極めた完成度の高い受験生が、難関突破を目指してくれるのが当然ではなかったこと、なのです。

《以下、本音全開な『どうして名古屋大学が?』のネタバレ(?!)御注意!》

2014年12月12日金曜日

敬愛する心の共振

前回レビュウした、司馬遼太郎『胡蝶の夢』。実は、臨床心理士ブロガー『ひなママさん』へ、初めてコメントさせて戴いた話題だったりします。当該の記事で、

 『「発達障害」をはじめとする
  自閉スペクトラム症の研究や分類が
  普及するほどに
  文化、文学までもが退化していくのではないか』

と慨嘆なさっておられた一節に、深く感ずる処があったゆえ、なのですが。

ひなママさんのブログ『グレーな卵、金の卵になあれ』の読者は、障碍当事者の親御さんが、圧倒的に多いご様子。ですから、当事者でもなく支援者でもない、謂わば“野次馬の突撃”には、内心きっと面食らっておられただろう、と拝察します。

然りながら、当方と致しましてはジックリと、時に数ヶ月あるいは年単位で、ブログなり作品なりを、僭越ながら吟味させて戴いた上、「この御方は、敬愛申し上げるに相応しい」と確信できた場合に限り、“突撃”させて戴いておりますので。

一緒に紹介させて戴いた、“小説家たる心の師匠”こと長野正毅先生は、勿論申し上げるに及ばず、『発達障害な僕たちから』のお二方も、当方が捧げたささやかな敬愛へ、ガッツリバッチリお応え下さっています。

あ、大統領さん&ヒロさんへ向けた気持ちも、無論、敬愛なんです。定型多数派に有り勝ちな、「自閉症スペクトラム当事者さんで、二次障害に苦しんできたのに、頑張ってて偉いなぁ」という、ぶっちゃけ“上から目線”な、ではなく。

より良き処を目指そうと努力する、純粋な心根こそが、敬意の念の対象で。
自分は達し得ない、未来を担ってくれる若さこそが、仁愛の向く先なんです。

そして、当方が捧げたささやかな敬愛は必ずや、その相手に共振するんです。

***

私がブログを始める、キッカケになって下さった、“敬愛するブロガー様”へ。
あなたは、私が捧げた密やかな敬愛の心へ、共振しようとして下さってます。

けれど、生来鋭敏すぎる五感が、身体の内外から細かく大量に受け取ってしまう、あなたの“感覚情報”は、量も質も他の人達と異なっていたから。“事実情報”を共有することでしか、他者と繋がることが出来なかった。

今のあなたが、行動化を通じて天然自然に、他者への敬愛を示す方法を”知らない”のは、心の発達や脳の機能様式の違い、すなわち地球上のあらゆる生命を司る、万世普遍の原理=多様性の所為。

ですから、まずは、ご自分の多様性を否定せず、承認して下さい。
それから「多様性の承認」という行動を、周りにも向けて下さい。

見解の相違・価値観の違い・嗜好の差異……あなたと他者との間には、数え切れないほど、“事実情報”の共有に齟齬が生じていることでしょう。でも全ては、万世普遍の原理=多様性の所為なので。

全能の神でもないのに、それら齟齬の存在を否定することは、
傲岸不遜ではないか?と私は思うのです。

中にはどうしても、あなたのnegativeな “感覚情報”を喚起して、承認し難い“事実情報”もあるでしょう。 あまりに強烈な嫌悪感で、ワーキングメモリが飽和してしまうことも、あるかもしれません。

でも、negativeな “感覚情報”を、そのまま行動化するのは、危険なのです。
否定する心も、必ず相手に共振して、あなたへの否定になってしまうから。

あなたにとって承認し難い“事実情報”は、ひとまず文章に書き下すことで、ワーキングメモリの“感覚飽和” を、回避できるかも知れません。あまりに強烈な嫌悪感を喚起された場合は、それも一緒に書き出しちゃいましょう。

少し落ち着いたら、今度は、あなたのpositiveな “感覚情報”を喚起する、好ましい“事実情報”を書き足して。相手について、思いつく限りの事実情報”を、1枚の紙面上(PCやタブレットの、ワークシートでもOK)で、総覧できるようにします。

さて、ここに至っても、その齟齬は依然として、承認しがたい存在ですか?
敬意の念の対象や、仁愛の向く先が、発見できない残念な御方でしょうか?
どうにも判断に迷う場合は、個々の“事実情報”へ、重み付けしてみて下さい。

ジックリ吟味して戴いた上で、猶、あなたが承認すら出来ない相手は、「敬愛申し上げるに相応しい御仁ではない」と結論して差し支えない、と私は考えてます。

あなたの公平で誠実なお人柄は、重々、信頼申し上げておりますから。

ただし、そこまでの悪人は、滅多にいないものですし。仮に、そんな御仁に出逢ってしまったら、むしろ遠ざけるべきで。その節は、別途お知らせ下さい。

長文、失礼致しました。
より良き処を目指す、あなたの険しい道を、些かでも照らす灯となれば幸甚です。


2014年12月9日火曜日

愛されなかった天才

山下清『視覚の天才』だとすれば、司馬凌海は“聴覚の天才”だった。

しかし『放浪の天才画家』が、肉親や支援者や、彼の作品を愛好する無数の人々に、早世を惜しまれつつ逝去したのに対し。佐渡新町の富裕な商家に生まれ、神奈川戸塚の旅籠で、誰にも看取られることなく世を去った『語学の天才』は、官職も位階も剥奪され、明治維新の混沌に茫漠と埋もれてしまった。

サヴァン症候群あるいは自閉症スペクトラムを強く示唆する、司馬凌海の『奔放不羇な性格』を、今、窺い知ることが出来るのは。

同じく偉大な先達の姓を肖った司馬遼太郎御大が、当時の記録・逸話を丹念に蒐集・再構築し、歴史小説『胡蝶の夢』に登場させた「島倉伊之助」の、強烈かつ難儀な“個性”として、精緻詳細に活写して下さったおかげだ。

さもなくば、医学を『日本語で最先端のところまで勉強できる』『自国語で深く考えることができる』礎に、我が国が恵まれたのは、幼名を伊之助、長じて「海を凌ぐ」と傲岸不遜にも取れる名を自称した男に、天が賦与した“異能”の賜物だと。

今に生きる私達が、百三十余年前に世を去った“聴覚の天才”へ、深謝する機会は、たぶん永遠に失われてしまっただろう。

***

『胡蝶の夢』は、幕末・維新に同期して、一息に西洋化を果たした日本医学界の、紆余曲折を鮮烈に描出した作品だ。

第一の主人公は、松本良順

将軍家・奥医師の婿養子となるも、蘭方医学への熱意止みがたく、幕末の長崎に医学伝習所を開設。江戸にも西洋医学所を創立するが、在京・在阪の一橋慶喜・徳川家茂を往診した折、新選組との親交を深めた縁から、戊辰戦争で野戦病院の指揮を務める。仙台で官軍に降伏、のち赦免されて、維新後は山縣有朋らの推挙を請け、帝国陸軍の初代軍医総監となった。

良順先生こそは、勇気果敢・積極能動。“行動化の瞬発力”の体現者だ。

幕末・維新の混沌に怯むどころか、むしろ機に乗じて旧弊を除き、四民平等の世を切り拓くべく挑んでいく。遼太郎御大の歴史小説ではお馴染みの、坂本龍馬土方歳三を想わせる“個性”で、当初は彼一人を主人公とする構想だったかとも拝察する。

けれど、連載開始に当たり、著者が長編の稿を起こしたのは。

幼い頃から聞かされた、「佐渡は波の上」という常套句の比喩を解さず、字義の通りに受け取って、『波の上なら舟のように揺れるはずなのにどうして揺れないのか』と訝しむ、第二の主人公・島倉伊之助の“こだわり”を記述することからだった。

続く文章は、伊之助が生まれ育った故郷の風土を、紀行連作『街道をゆく』でもお馴染みの、簡にして要を得た筆致で、しかし鳥瞰図を展開するかのように、広大かつ明朗な眺望として、描出していくのだが。

『波の上に井戸があってたまるものか』
『波の上にこんな大きな山があるはずがない』

と、十歳になって猶、『波の上』という言葉の表面的な意味にこだわり続け、奇妙な疑義を呈する、伊之助少年の特異な“個性”も、再々巧みに織り込まれる。

執筆当時、サヴァン症候群自閉症スペクトラムの情報は、未だ手に入れ難かった筈なのに、あたかもそれらに精通していたかの如く。島倉伊之助こと司馬凌海が、生涯を通じて周囲から疎まれた、良く言えば『奔放不羇な性格』、有り体に言えば障害特性の異様を、精確に看破した著者の慧眼こそ、心底驚嘆に値する。

然れど、遼太郎御大の闊達な筆は、明晰鋭利なだけではない。機会のある限り『言語という言語を無限におぼえた』伊之助の、『異能としか言いようのない記憶力』つまり他者から唯一、重宝された『語学の天才』こそが、彼を温和な故郷から引きずり出した“災厄”だったと、『涙ぐむような悲しみとともに』慨嘆している。

その哀惜が著者をして、第三の主人公・関寛斎を登場させたのだ、と私は思う。

《以下『胡蝶の夢』のネタバレ(って歴史小説なんですけどw)御注意!》

2014年12月6日土曜日

『励ます力』の連鎖

私事で恐縮ですが、先週末から今週始めにかけて、身内の不幸があり。
故人は高齢でもあり、数年来の患いに、恢復の見込みは無かったので。

配偶者が万事周到に、準備していて下さったことから、私自身が格別の御用を仰せ付かる必要は、無かったのですが。それでも交々に耽る想いがあり、数日間、更新が滞ってました。

さて、上記の報せが届く直前、思いも寄らぬ、ありがたい出逢いに恵まれました。

にほんブログ村「発達障害」カテゴリで、『グレーな卵、金の卵になあれ』というブログを書いてらっしゃる『ひなママ』さんから、『コメントを そのまま記事としてアップしていいですか?』というご提案を戴きました(2014/11/28公開『「強迫観念」と「こだわり」』という記事に寄せた一文)。

『ひなママ』さんは臨床心理士としてお勤め、しかもカテゴリ上位のブロガーさんですから、光栄の余りピャーッとなりつつ……厚かましくも、逆リンク張らせて戴いちゃいます!超絶嬉しいのでw

   >>『「こだわり」行動まとめ・これは当然であり平常なこと』

ひなママさんが持ち前の“行動化の瞬発力”で、迅速なコメント紹介をして下さったのに、御礼の記事がすっかり遅くなってしまいまして、誠に申し訳ございません。

それから、この件に先立つこと数日、同じくひなママさんの、2014/11/20公開『母が助けてくれたひと言・それはすごくエキセントリック』という記事で、遣り取りさせて戴いたコメントを契機に。

やはり「発達障害」カテゴリで、『発達障害な僕たちから』というブログを書いてらっしゃる、当事者のお二方・大統領さん&ヒロさんと御縁が繋がりました。
以後、数件寄せさせて戴いたコメントを、昨日公開して下さったようなので。
これまた図々しくも、逆リンク張らせて戴いちゃいますよ!

  >>『程度の悪いアスペな俺 THANK YOU MR くそじじい ヒロ』
  >>『ヒロ、むかつく男だね、あんたは!! 大統領』
  >>『2つの悲しみ 大統領』
  >>『第三者からの「承認」 大統領』
  >>『突然の訪問者、70近いおじいさんの正体とは 大統領』

NPO法人青少年生活就労自立サポートセンター名古屋の、スタッフの皆様、内容確認のお手数をお掛けしまして、恐縮です。コメント公開、ありがとうございました!

さらに加えて、本日の記事タイトルでオマージュさせて戴いてるのは。
“小説家たる心の師匠”こと、Z会進学教室・渋谷教室長の長野正毅先生が、来年早々に上梓なさる御本の題名だったり。

配色やフォント、文字の大きさや配置……一見、無難なようですが、
実は精緻な配慮の元に、スッキリと上品な、それでいて静かに注意を促す……
著者のお人柄をそのままに表現する、デザインを目指して下さったんだなぁと感じた書影

長野先生もまた、にほんブログ村「高校受験(指導・勉強法)」カテゴリで、長年上位を維持してらっしゃる『長野先生の幸せに生きるヒント』の書き手です。

ノーベル賞の栄誉に輝いた、天才的な理論物理学者も。
障碍当事者さんを支援する、臨床心理士もサポートスタッフも。
受験生と保護者のみならず、読者全てに「幸せ」を教える小説家兼塾講師も。

発達の凸凹が あってもなくても。 学校の成績が 良くても悪くても。
未だ見ぬ将来へ思いを馳せ そこに生きる子ども達・若者達の幸せを願う。

『励ます力』の連鎖を、一介の素人字書きもまた、繋ぎ続けて行こうと思ってます。


2014年11月30日日曜日

A Lovely Curious Scientist

語学が苦手なことで世界一有名な科学者は、断然、益川敏英先生ってことになるのだろう。なんてったってノーベル賞の受賞記念講演を、日本語でやっちゃうという異例が罷り通ったのだから、文句なしの“史上最強”。ご自身の不得手を、全く卑下してらっしゃらないからこその、快挙である。

とは言え無論、語学自体を軽視しておられる訳ではなく。

「やっぱり、英語もできたほうがいいね」と、羞じらう笑顔がとってもラヴリー。正に『自己評価高いのに謙虚な御方』で、私にとって“一番尊敬できると思える”お人柄。数日前、朝日新聞に掲載された『耕論』で、言及なさっている大学院入試の逸話は、ご人徳が遺憾なく発揮されたゆえの成功譚だ。

『数学と物理学は満点』なのに、『ドイツ語は完全白紙』な“確信犯”。その上『英語も散々』だった学生を、「語学は入ってからやればいい。後から何とでもなる」と執り成して下さった「電子顕微鏡の世界的権威(上田 良二 先生と拝察)」こそが、ノーベル物理学賞の栄誉をもたらした、真の立役者なのかもしれない。

しかし益川先生も、最初からこの境地に、至っておられた訳では無いだろう。

今になって、振り返れば。凄まじいほど先鋭化した数学的論理思考が、圧倒的優位を占めていたから、言語的論理思考に割り当てられる脳の機能は、母語である日本語だけで精一杯だった、などと屁理屈も捏ねられるが。中学・高校時代は、英語がちっとも頭に入らない焦りで、随分お悩みになっただろうなぁ、と想像する。

その苦しいお気持ちを昇華して、ご自身が天賦の才と信ずる数学へ、全身全霊を傾け『自分のセンス、感覚を研ぎ澄まして』いったからこそ。大学院入試からノーベル賞の受賞記念講演まで、前代未聞の“方便”を使っても周りの方達が支援したくなっちゃう、ご人徳を備えるに至ったのだと、私は思う。

そして益川先生は、ご自身の人生に関わった、他者への敬意と仁愛を惜しまない。

『語学が大嫌い』な自分でも、ノーベル物理学賞を取れたのは、『日本語で最先端のところまで勉強できるから』『自国語で深く考えることができるのはすごい』と、全ての先達へ向けた畏敬の念へ帰着したり。

『英語が0点の学生がいたとしても、それだけで門前払いにするようなことだけはしないで』『20年もたてば、日本語で話せばすぐに翻訳してくれる器具が間違いなくできている』と、未だ見ぬ将来へ思いを馳せる。

それが益川先生を、「CP対称性の破れ」という“多様性”の起源発見へ導いた、学問への情熱、すなわち好奇心を支える礎なのだと、私は思う。


2014年11月24日月曜日

心を読み解く身体

実は私にも、心が、生命の本体たる身体を、手放しかけた経験がある。

前回、話題にした事故が、それ。自転車ごと空堀へ落ちたとは言え、咄嗟に左脚を衝いて身体を支えれば、石垣の角へ頭を強打するまでには、至らなかった筈で。

現場へ駆け付けた皇宮護衛官から、“加害者”として職務質問された予備校生も、「アタマ怪我したんわメッチャトロい本人のせいやんなんで俺がこんな目ェに遅刻してまうし堪忍して」的態度を、「相手は血ィ流してはるんやで逆走して来たんは君やろ逃がさへんぞ早よぅ答え」と(無論、もっと上品な言葉で)窘められていた。

しかし私は、その件を結局、事故扱いにしなかった。無線で要請した救急車を待つ間、“被害者”の意識状態を確認すべく、「前、見てへんかった?」と優しく問い掛けて下さった皇宮護衛官氏へ、「ぃや、見てた筈なんですけどぉ」と口籠もるしか術が無かった自分の、脳裏にあった映像は実の所、衝突直前の現場ではなく。

研究室の実験台と、器具を操作する自分の手、だったから。

***

たぶん私が『死んで生き返りましたれぽ』を、pixiv連載の段階で既に、他の読者より僅かばかり深く踏み込んで、読み解くことが可能だった由縁は。

実験操作や料理の手順、もしくは小説創作時の場面描出に、限定ではあるけれど。作者と同じく“視覚思考者”である件が、大きいのだろうと拝察している。

書籍版『死んで生き返りましたれぽ』には、作者が脳浮腫を患っていた最中の体感を、丹念に綴った文章が追加されていて。視覚野がある後頭葉に、浮腫が発現した理由を鑑みれば、そもそも作者の脳の機能様式が視覚思考優位、つまり普段から酷使しがちだった領域ゆえ、必然的に負荷も大きかったから、ではなかろうか?

私自身は、知能発達に不可欠なエピソード記憶・言語習得に必須な意味記憶の発現に伴い、言語的論理思考優位へ移行したようで、描く力が急激に低下してしまったが。小学校低学年まで、本を読んでいなければ、描くことに耽溺していた。一時は周りの大人達も「ひょっとしたら、将来は絵描きに」などと、考えていたらしい。

その“描く力”の名残、すなわち視覚思考優位モードへ、心の本体たる脳が、事もあろうに自転車での通学中、うっかりシフトしてしまったため、生命の本体たる身体を手放しそうになった、というのが冒頭の顚末。

サヴァン症候群自閉症スペクトラムを主題にした、『視覚の囚人』『感覚の囚人・共感の達人』での考察を経て、心が身体を介して社会と繋がるため、一番重要な感覚は視覚だと、確信するようになったのだが。

要するに、本来は心が外界と繋がることを、専らの目的に機能させるべき視覚が、思考の主要ツールとして先鋭化かつ酷使された結果。外界の状況に応じて、身体に妥当な行動化を指示する能力の、発現・発達を逸してしまう。あるいは概ね定型の発達を遂げた者でも、“行動化の瞬発力”を著しく損なう、という次第なのだろう。

***

『付録』には、本編でチラ見せして下さった『診断書』の全体画像と、ご家族への病状説明時に提示された『記録メモ抜粋』も掲載され、入院経過中、殊に当初数週間の激闘が、生々しく伝わって来る。

ザックリ言えば、有り得ないほど劇症の2型糖尿病患者が、
なぜか突然、救急外来で受診、という前代未聞の緊急事態。

だから『壮絶闘病レポ!!』の惹句は、医療関係者の観点からすれば、これ以上ない表現だし。単なる実務上の都合から変更された発売日が、『世界糖尿病デー』だったという偶然は、この御本に授けられた天命を、暗示しているのだと思う。

けれど、控えめながら丁寧な、改稿の手が加わっている本編や、書籍化の機会に追加された、写真や文章を拝読すると。

危うい生命の遣り取りを経て、辛くも取り戻した身体を介し、
心がもう一度、外界と繋がる、その過程を丹念に辿りながら。

それとは気付かぬまま『ゆるやかな自殺』を誘った、『死に至る病』を患う仕儀に己の心が陥った由縁を、ひとつずつ少しずつ読み解いて来た、とても静謐な(ゆえに上記の惹句とは、些かならず乖離してしまった)恢復の記録なのだ、とも思う。

心の本体たる脳と、生命の本体たる身体の有り様に、一切の疑問を抱かず。
易々と外界へ繋がれる、定型発達ないし健康な、世界の大多数を占めている人々には、おそらく真価を読み解くことが、難しいであろう一冊。

然れど、他者との違和感に苛まれ、心や身体を患って、“行動化の瞬発力”つまりは『生きる勇気』を見失いかけている人々、そして、彼らを癒やす術を志す人にこそ、全力でお奨めしようと目論んでいる。

Amazonさんのカスタマーレビューにも、
本記事の一部を抜粋・改稿して掲載させて戴きました!
医療を学ぶ皆さんへ、医学哲学の入門書として、お奨めしたい一冊

2014年11月17日月曜日

理系女子の真実

伝染性単核球症、いわゆる“kissing disease”だね」

ご丁寧に俗称まで補足して病名を告げると、内科の医師は、揶揄を含んだ視線を患者に向けた。なるほど……

(世に謂う“セクハラ親父”は、斯くも不躾で、下卑た顔付きをするのか)

私は、自分の冷静な眼差しを意識しながら、了解の意を短く伝える。
この診断に、若い女性患者が動揺を示さないのは、大いに不服だったと見え、医者は更に踏み込んで、心当たりがあるの?と、言わずもがなの質問をした。

「はい。あります」

自分では抑えたつもりだったが。僅かに挑戦的な色が、声に出てしまった。
内科医は、おや?という表情に変わり、手元のカルテに視線を移す。初診した若い耳鼻科医は、案の定、所見に加えて私の“身分”と“所属”も、記していたようだ。

「……あぁ、そう。それは、どうも……」

結局、患者ではなく医者の方が、狼狽を顕わにすることになった。

***

大学院に進んだばかりの修士課程2年間は、なかなかに波瀾万丈だった。

まず、与えられた研究テーマの進捗に難航した。しかし、秋から助手として着任した師兄の、アドヴァイスが見事に奏功。仕切り直した実験計画で、順調に転ずる。

次の春は、 実験の段取りを思案しつつ自転車で通学する途上、舗道を逆走して来た予備校生と正面衝突&御所のお堀へ愛車ごと転落。幸い、空堀で深さは40 cmほど、加えて堺町御門詰めの皇宮護衛官に、即時救護して戴けたので大事には至らず。

救急搬送を初体験+左後側頭部を5針&右手小指を3針縫っただけで済んだ。

極めつけが秋に、交際を始めて間もない相方からEBウイルスを初感染し、2週間の入院中、冒頭の遣り取りを交わす破目になった次第(あ、皇宮護衛官じゃないですよ相方は、メチャメチャ残念なんですがw 大学院の同級生、という有り勝ちな話)。

当時を思い起こすとツッコミどころ満載。文字通り「穴があったら入りたい…(>_<)…」けれど、男性ばかりの環境で、肩肘張ってる自分が健気で愛おしくもある。修士論文の締切直前、半泣きで徹夜しつつ、師兄のダメ出しを乗り越えたのも懐かしい。

退官間際に進学して来た弟子が、二人目にして最後の女子学生だった、師父も。
温かく見守っていた妹弟子に、アッサリ甥弟子と婚約されてしまった、師兄達も。

「ホンマに、大丈夫かいな?」と内心ハラハラしながら、極力控えめに気遣って下さる事はあっても。

決して、女子学生だからと甘やかす事は無かったし、ましてや、キャッチーだからという軽佻浮薄な理由で、理系女子という“看板”を、予算獲得やら対外広報やらの「売り」にするなぞ、絶対に有り得なかった。

更に加えて、当の本人が嬉々として従うなぞ、まるで思いも寄らぬ事だった。

***

いったい、いつからこの国は、職能には全く関係無い筈の“女子力”を、女性アナウンサーやら女性研究者やらへ、付帯させる事が“お約束”になっちまったのか? 

挙げ句の果てに内閣までが、『女性活躍担当大臣』やら『女性活躍推進法案』やら。軽佻浮薄な“看板”を恥ずかしげも無く、見せびらかす御時世とあっては……

然れど、当該ニュースを「それが普通でしょ?」とスルーしちゃうのではなく。

「おかしな事」「怖い事」と認識する感覚&発言する勇気を、たくさんの将来有望なお若い方が持っていて下さる事にも、心強く有り難く思える、今日このごろ。
小母ちゃんは「昔は良かった」とは、よう申しまへんぇ(*^_^*)


2014年11月15日土曜日

身体を取り戻す心

糖尿病については前職で、疫学から臨床まで、かなり深く学んだ。

職務上、患者さんと直に接する機会は、得られなかったけれど。データを解析する必要から、特に診断基準となっている各種検査値に関して、その道の権威と謳われる先生に、伝手を頼って御教授を請うた事もある。

だから村上竹尾さん『死んで生き返りましたれぽ』を、pixivで拝読した時。一番愕然とさせられたのは、診断書に記された来院時の検査値だった。殊に血中グルコースが932 mg/dlというのは、こんな数字が出せるのか?!と目を疑う値。

普通なら、ここに至る遙か手前で倒れている筈で。極めて頑健な身体をお持ちだったからこそ、ご自宅のトイレで人事不省に陥っている所を、発見される状況になるまで、ご自身を痛め付ける仕儀になったというのは、誠に皮肉な話だ。

健全なる肉体にだって、不健全な心が、宿ることはある。

肉体的には、むしろ恵まれていた作者が、糖尿病性ケトアシドーシスは勿論、横紋筋融解症からの急性腎不全と高アンモニア血症、全身状態の悪化から肺炎と敗血症、更に脳浮腫まで。主治医が『全部 死ぬ病気です』と断言した合併症を、同時多発するほど重篤な糖尿病を患った原因は、スポーツドリンクの過剰摂取。


元来極めて頑健な身体をお持ちでありながら

本来は“身体に良い”筈のスポーツドリンクで

なぜ心肺停止に至るまで病んでしまったのか?


その委細は無論、日常の偶然の蓄積が必然の奇譚へと帰着した、本作をお読み戴きたいが。生命の本体たる身体を顧みる事さえ忘れ、作者の心が惑溺し翻弄されていた「それ」と、一度は生きる事を放棄してしまった身体を、再び心が取り戻す力の源泉となった「それ」は、表裏一体……とだけ申し添えておこう。

そして浮腫で壊れかけていた脳が、嘗て世界と共有していた“事実情報”の記憶を、回復してくれた契機は紛れもなく、大切な人達との対話を通じて、一度は失ってしまった“感覚情報”をひとつずつ少しずつ、再共有して行くことだった。


患者が 家族が 医師が 看護師が  

如何にして、死への恐怖を乗り越え、

再び生きる勇気を、獲得して行くのか?


克明に物語ってくれた作者へ、『世界糖尿病デー』に合わせ出版を企画して下さった関係者の皆様へ、心からの感謝を込めて……

Welcome Back to Your Life and We All Love and Appreciate Your Story !

【追記】
 ご指摘の箇所、自分でも全く気付かぬうちに、潜在意識からポロリしたかも……です。拙宅も家族一同、ハマっておりますのでw 『犯罪係数』だとしても、滅多に拝めない値、なのでございましょうねぇ> T 様


2014年11月12日水曜日

好奇心と敬意と仁愛と

100人に1人、ひょっとしたら3人、「その子」は生まれます。

ご両親にとって初めての、あるいは2人目、もしかしたら3人目の
お子さんかも知れません。ご家族は皆、無事の誕生を言祝ぎます。

6ヶ月後、9ヶ月後、12ヶ月後、ひょっとしたら18ヶ月後

ご両親は、違和感を抱き始めるかも知れません。

2年後、あるいは3年後、もしかしたら4年後

ご両親は、「その子」の詳しい検査、または定期的な観察、
もしくは療育を勧められるかも知れません。

そして自閉症スペクトラムという言葉を、知る事になります。

***

ご両親が抱く違和感は……

他の子ども達が、『あったかい』『やわらかい』『いいにおい』がする
「おかあさん」に抱かれたがるというのに……

「その子」は、『うーん!(あつい!)(いたい!)(くさい!)』と
「おかあさん」を押しのける事かも知れません。

他の子ども達が、「おかあさん」と“視線”を交わしながら、一緒に絵本を読んだり、手遊びをしたり、うららかな午後の散歩を楽しんでいるというのに……

「その子」は一人で、ひたすら絵本のページをめくりたがったり、ひとつ所でグルグル回りたがったり、初めての場所を怖がって泣き叫ぶ事かも知れません。

でも「その子」は……

過ぎるほどに鋭敏な五感が、小さな身体の内外から
【細かく大量に】受け取り続ける【感覚情報】で、
育ち始めたばかりの脳を、“占拠”されてしまうから

お腹がすいた時、ごはんを食べさせてくれたり、
服が汚れた時、着替えさせてくれたりする人を、
「おかあさん」と、呼ぶことになっている。

そんな“事実情報”を共有するだけで、精一杯なのです。

***

10年後、15年後、ひょっとしたら20年後

成長するにつれ「その子」自身も、違和感を抱き始めるかも知れません。

“事実情報”を共有するだけは、他の子ども達と仲良くできない事や、
「その子」が判らない“なにか”を、他の子ども達は共有している事に

30年後、あるいは40年後、もしかしたら50年後

社会人になった「その人」は、気付くかも知れません。

「その人」が判らない“なにか”を共有する時、
他の人達は密やかな“視線”を交わしている事に

“事実情報”の共有に齟齬が生じた時、「その人」が憤りを抑えられず、
他の人達と喧嘩になってしまうのは、“なにか”を共有できていないから
なのかも知れないと

***

けれど私は、「その子」あるいは「その人」の
多様性を、好奇心と敬意をもって、愛したい。

そして、あなたが……

他の人達と充分に共有できていない“なにか”は、【感覚情報】なのだと

共有できない理由は、鋭敏すぎる五感が、身体の内外から【細かく大量に】
受け取ってしまうゆえに、あなたの【感覚情報】が、他の人達の“なにか”と、
量も質も異なっているためだと

【感覚情報】で脳を“占拠”されているから【身体内外からの情報を絞り込み、
意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】で、他の人達と“なにか”を共有する
ことに支障があるため、心の発達や脳の機能様式の違いが生じたのだと

好奇心と敬意と仁愛をもって、伝えたい。

でも、あなたの……

脳の機能様式の違いをこそ、好奇心と敬意をもって、私は言祝ぎたい。

多様性こそが、地球上のあらゆる生命を司る、万世普遍の原理だから

困難を背負って猶、社会に貢献したいと願う仁愛に、敬意を抱くから

***

前回の記事へ『一読しただけでは難しいです』とのご意見を戴いた(妄想深読みを文章化しただけ、でしたから。御指摘のとおりで、誠に恐縮)ことから、発想の基盤になっている『感覚の囚人・共感の達人』の主旨を、改稿してみました。

これまで直接・間接に邂逅できた、ASD当事者さん達への“頌詞”でもあります。

なお【】内は、綾屋 紗月 氏『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』より借用した表現です。発達障碍当事者研究に御興味おありの皆様には、以下の過去記事もお時間許す範囲で御参照戴けますと幸甚。

  >> 第1回『視覚の囚人』
  >> 第2回『視覚の天才 (1)』
  >> 第3回『視覚の天才 (2)』
  >> 第4回『視覚の天才 (3)』
  >> 第5回『感覚の囚人・共感の達人』

2014年11月10日月曜日

『東ロボくん』への期待

メディア各社の報道内容は、概ね「面白研究紹介」的な論調でしたけど。人工知能の苦手を如何にして克服させるか?てのは、教育技術論として非常に重要、且つ興味深い研究テーマなんですよね、ホントは。

無論、『東ロボくん』の“母”を自任しておられる新井 紀子先生は、そこを主眼に人工知能プロジェクトのディレクタを務めておられる訳ですが。

『情報共有』をキーワードに、最先端研究を推進してらっしゃる立場に在っても、プロジェクトの経過を報道する記者達から、「ロボットは東大に入れるか」というcatchyだけれども表層的な話題ばかり強調され、人間同士であるにも関わらず微妙にズレた解釈をされてしまうのが、なんとも遣る瀬無い。

***

前回の記事で私自身がモニョってた件も、端的に言えば『情報共有』、詳しく言えば「二次小説、すなわち、原作の世界観・登場人物をどんなに上手く剽窃できていても書き手は原作者様と別人」という、極めて基本的な“事実情報の共有”が、出来ていなかったゆえの“遣る瀬無さ”なんですよね、要するに。

ただし、“事実情報の共有”に齟齬があった一方、『勘違いをなさった読者様』は、原作漫画と拙作二次小説の妙味(大雑把に括れば「恋愛もの」なので、主要カップルの心情とそれを演出する物語の雰囲気、ですかね?自作を分析するのは超絶照れますけどw)については、的を射たご感想をお寄せ下さってる。

つまり、“感覚情報の共有”率は充分に高かった。

それが為に『基本的な“事実情報の共有”が、出来ていなかったゆえの“遣る瀬無さ”』という私自身のnegativeな感情を昇華して、読者様から戴いたメッセージを『無邪気な誤解』『微笑ましくも粗忽な勘違い』と許容できたし、『そのような誤解も招き得る、と事前に想定できなかった自分自身に』メタな自己ツッコミも出来た訳で。

ちなみに当該『読者様』との遣り取りは、終始、SNSのメッセージ機能を利用 。直接お目にかかったわけでもなく、そして恐らくは、最初で最後の“接触”でしょう。

けれども両者の間には、『読まさせて頂いてます』『応援しています』『よろしくお願いします』『ありがとうございます』といった“テクスト”を介し、positiveな【心理感覚の共有】を行う仮想的な【場の共有】が確かに実現していた。

極めて基本的な“事実情報の共有”に齟齬があったにも関わらず、私達が相互理解と共感に至り【親しさ・共同性】を構築できた結果、“事件”が難無く落着した(結論のみを言えば、私は彼女からのリクエストを穏便にお断りできた)“鍵”は、『とあるWEB漫画』を愛読しているという【心理感覚の共有】が根底にあったからだろう。

(注意:【】内は綾屋 紗月 氏『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』より借用した表現;詳しくは拙ブログで8月に公開したコラム『感覚の囚人・共感の達人』をご参照下さい)

***

さて、『東ロボくん』が昨年度の「全国センター模試」で出した成績傾向を詳しく見てみると、ちょっと興味深い妄想深読みが出来たので、記録として残しておく。

毎日新聞 2014年10月23日 東京夕刊掲載記事
『チェック:東ロボくん猛勉強!! 国立情報学研の人工知能 東大届かず私大A判定』
より引用させて戴きました

総合7科目の偏差値が45だったので、これを上回った教科を“得意”・下回った教科を“苦手”と定義すれば、日本史・世界史・数学・物理が“得意”で、英語・国語(ただし現代文のみ;古文は勉強してないようですw)が“苦手”らしい。

日本の大学受験を経験なさった皆様なら、概ね同意戴けると思うが。“事実情報の共有”は比較的“得意”なゆえに、歴史や数学・物理はまずまずの成績だった一方で、どうやら“感覚情報の共有”が“苦手”なため、現代文の『小説の読解』や英語の『対話文を完成させる問題』で得点できない様子。

この成績傾向、自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder、略称:ASD)当事者、殊に『音楽と数学で考える(パターン思考)タイプ』の当事者さんが訴える得意・苦手と、定性的にかなり合致しているように思う(現実の当事者さんは、もっと顕著な凸凹に苦慮して居られるのだが)。

そして今年の『東ロボくん』は“苦手”の英語で『会話文を完成させる問題の「特訓」が奏功し、昨年より43点アップ』。総合成績の偏差値も47.3に上がったそうで。

他者との【心理感覚の共有】を行う、仮想的な【場の共有】が困難だとしても。
対話の「特訓」で比較的得意な“事実情報の共有”を最大限に活かす事が、ASD当事者さんにとっても苦手を克服する一つの“鍵”となり得るのかも知れない。

【追記】
 サヴァン症候群の画家達に端を発し、ASD当事者の「脳の機能様式」をあれこれ考察してみた関連記事も、6本目となりました。発達障碍当事者研究に御興味おありの皆様には、以下の過去記事もお時間許す範囲で御参照戴けますと幸甚です。

  >> 第1回『視覚の囚人』
  >> 第2回『視覚の天才 (1)』
  >> 第3回『視覚の天才 (2)』
  >> 第4回『視覚の天才 (3)』
  >> 第5回『感覚の囚人・共感の達人』


2014年11月6日木曜日

創造者と消費者の狭間で

昨春以来、とあるWEB漫画の二次小説書かせて戴いている経緯は、当ブログでも何度か話頭にしたが。先日、全く思いも寄らぬ、と言うより、至極不本意な出来事に行き当たり、些かならず憮然としている。

とある読者様から、『あなたを原作者様だと勘違いしてました』とメッセージを戴いたのだ。個々の作品に逐一「二次創作」タグを付け、作品を公開している SNSアカウントのプロフィールでも「二次小説」「二次書き」と連呼しているのに。 何故『勘違い』をされてしまったのか……

まさか、原作者様の“自演”だと思われていた?

というのは、さすがに妄想深読みが過ぎる邪推、かつ自惚れが過ぎる僭越だろう。単に、無邪気な誤解と考え、念のためプロフィールに、原作が自主制作漫画なので一応の許可を頂戴した上での二次創作だが、原作者様が主催なさっているWEBとは独立した運営である旨、注意書きを加えた。

にしても、不愉快な気持ちは、燻り続けている。

その矛先が向いているのは、無論、微笑ましくも粗忽な勘違いをなさった読者様ではなく。そのような誤解も招き得る、と事前に想定できなかった自分自身に、腹が立つ。まぁ元実験研究者には毎度お馴染みの、メタな自己ツッコミですがw

そもそも、二次小説を書かせて戴きたい!と思い立ったのは、原作の素晴らしさ、そして原作者様の“描く力”と“語る力”を賛美したいが為。ならば感想をお送りすれば充分なのだが、それだけじゃあ芸が無い、と字書きの業が疼いてしまった次第。

有り難くも頂戴した“萌え”を燃料に
世界観・登場人物を拝借して縦横に

この原作でなければ創造し得ない物語として、胸の裡に滾る存念を二次小説に綴る至福は、何物にも代え難かったけれど。『微笑ましくも粗忽な勘違い』をしていたのは私で、恐るべき不遜を働いてしまったのでは?という疑懼が湧き上がる。

……でも、原作者様は鷹揚に笑って……きっと、赦して下さっちゃうんですよ。

そんな安定の潔さも、天然自然なドラマツルギーも。創造者としての“覚悟”の座り具合が、痺れるほどにカッコイイ御方だからこそ。単に無邪気な読者として、彼女が物語った作品を、蒙昧に消費するだけでは忍びない!と滾ってしまうんですがw

この“狭間”でアンビヴァレンスを味わわせて戴くのも、悪くなかったけれど。
“覚悟”を据える準備も、頂戴した“萌え”を燃料に、企てていきたいものです。


2014年11月2日日曜日

2014年11月1日土曜日

Welcome back to your "HOME" !

そういえば萩尾望都先生の最新作『AWAY -アウェイ-』第1巻も、主人公がメガネ男子なんですよね……

物語の“主役”は、カバー表に描かれた鹿賀 一紀(カガ カズキ・中学2年生)嬢に違いないんですけど。第1巻収録の、世界が『メチャメチャ』になって十日余りが経過した「4月1日」と、日付が変わるのとほぼ同時に各国で“異変”が起きた「3月21日」は、彼女のイトコに当たる大熊 大介(オオクマ ダイスケ・高校2年生)君の視点で語られます。

なんとなれば大介は、『榛野市のイケメン』『ミスター榛野』と称され、みんなから人望を寄せられる『桜木台高のプリンス』なので。高校生を束ねるリーダーとして、大人たちが消えてしまった町で、残された子どもたちを守るため、八面六臂の活躍をせねばならなかったから……

十代の少年少女が、就学年齢に達していない『小さい子』は勿論、生後間もない『赤ん坊』の生命まで預かる事になる設定は、確かに小松左京御大の短編小説『お召し』ですが。原案どおりの12歳以下の小学生達ではなく、中学生・高校生が次々に勃発する難題へ、大人の手を借りず対処せねばならない状況は、『11人いる!』あるいは『トーマの心臓』で描かれたモチーフの、“変奏”でもあります。

***

『トーマの心臓』の舞台となったシュロッターベッツ高等中学には、何人かのメガネ男子が脇役ながら登場してるんですけど。同級のヘルベルトも、一学年下のレドヴィも、最上級生のバッカスも。メガネを掛けた生徒達は共通して、みんなから人望を寄せられる『委員長』ことユリスモール・バイハンの、品行方正・成績優秀で優等生然とした振る舞いに、むしろ懐疑的な眼を向けます。

更に、『八角メガネ』を掛けて登場する、サイフリート・ガストの役回りを考え合わせると。極めて勉強熱心な『委員長』でありながら、メガネを掛けて“いない”主人公・ユリスモールに対峙するメガネ男子達は、一見して非の打ち所が無い優等生の、ずっとひた隠しにして来た弱点を、時に冷静もしくは冷淡な、時に酷薄あるいは残忍な視線で、暴き出す存在だったりするのです。

然りながら、自らメガネを掛けて“いる”主人公・大介は、『桜木台高のプリンス』としてリーダーシップを発揮しようと、懸命に努力しつつも、ちゃんと動揺したりテンパったり、時に遣り場の無い憤りをぶちまけたり。自身の弱点を顕わにする事に、何の屈託もありません。

でも……カバー裏に描かれた大介は、メガネを掛けてないんです!(とは言え萩尾先生が、その点に何らかの意図を込めてお描きになったのか、は不明ですけどw)。

***

物語の行方は、大人たちが消えてしまった町で、今後ますます、大変な事態が生じていくに違いないんですけど。萩尾先生がこれまで描いていらした、時に極めて深刻もしくは残酷な、あらゆるモチーフの“変奏”を交々満載しつつ、『AWAY -アウェイ-』の空気はちっとも重苦しくない。むしろホッとするような、『11人いる!』を想起させるイイ感じのゴタゴタ感があります。

多分それは、舞台となっている『榛野市(ハンノシ)』のモデル、すなわち萩尾先生がお住まいになってる飯能市の空気が、反映されてるんじゃないかなぁ、と拝察(あ、娘が まだ小学生だった頃、偶然ですが品川に住んでて、飯能まで何回かお邪魔した御縁がありましてw)。

子どもたちが抑圧される事なく、ちゃんと動揺したりテンパったり、自身の弱点を顕わにする事に、何の屈託も抱かず暮らしているhometownで。

時に冷厳あるいは酷薄なメタ認知が命ずる“描かねばならぬ事”ではなく、心が天然自然に“描いてみたくなった事”を創作のhome groundたるSFで。

自由闊達に物語って下さる萩尾先生へ、“Welcome back to your HOME !”と言祝がせて戴きたくなる最新作ですv

#9月半ばより始まった怒濤の“秋季コミックスレビュウ”は、これにて完結!
#お時間許す範囲で、他の5篇にも御笑覧を賜れますと幸甚です。

  >>第1回『奇譚の日常』
  >>第2回『日常の奇譚』
  >>第3回『『それ町』第13巻感想!』
  >>第4回『日常の偶然・必然の奇譚』
  >>第5回『エゾノー発・イーハトーブ行』

2014年10月30日木曜日

メガネの極意

娘は、小学2年生。
私は、小学3年生。
そして相方は、小学4年生。

というのが一家揃って単純近視、メガネ女子&メガネ男子揃いな拙宅の“メガネデビュウ”学齢。娘と私は「本ばっかり読んでたから」、相方は「時刻表ばっかり読んでたから」と、原因は『環境説』ということで全員の意見が合致してます。

当人が掛けてるから……なのか、何なのか。

所謂メガネキャラが萌えポイントである点も、合致していて。例えばアニメの『PSYCHO-PASS』では、主人公たる「朱ちゃん」と「狡噛さん」の御両人を差し置いて、娘ともども「宜野座さん」が断然!必然!絶対!の一押しキャラだったりw

相方は「俺は特に、メガネ女子への執着無いけど」とか冷静を装いつつ、『書生葛木信二郎の日常』に登場する「大室 丹 先生」の超絶貴重な水着姿(無断リンク、平にご容赦!!!)に「をを!すっげーメニアックじゃね?」とメチャメチャ反応してたりw

で、ここから先は、夕食の膳を囲みながらの馬鹿話、なのですが。意想外に、かなり説得力がある(?)屁理屈を展開できたかも〜と自負してる次第を、記録として残しておきます(あ、一家揃って「屁理屈、上等!」な考察好き、でもありますw)。

まず、筋金入りのメガネ男子萌え(あ、私です)の主張は、「弱点を顕わにしている所」こそが最重要ポイント! 

具象的表現としては、“世界一(?)有名なメガネ男子”こと「のび太くん」の『メガネ、メガネ』すなわち両手を前へ伸ばし、メガネを探してる姿が代表的ですねv

つまり、視力が悪いというハンディキャップを表象する事によって、保護欲ないし庇護欲すなわち萌えの代表的「感情」を喚起する、という戦術なのです!(と、大先達・藤子・F・不二雄先生がそこまで意識して居られたか、は不明ですけどw)。

実は前出の宜野座さんの場合、何を隠そう“伊達メガネ”だったんですが。
アニメ2期では、メガネを外しちゃって……誠に、残念至極)

『父に似た自分の目元が嫌いという理由で掛けていた』との1期設定は、すなわち「父に対するコンプレックスこそ彼の弱点」という隠喩表現なのです!(と、メタファが大好物な虚淵 玄氏であれば大いに有り得る、と勝手に深読みしてますw)。

そして、冷静を装いつつ「屁理屈、上等!」な考察欲求(?)に弱い、相方が主張する事には「女子のメガネは、すっぴんと同義」こそが最重要ポイント! 

つまり審美的に優位なコンタクトレンズを敢えて使わない飾り気の無さが純粋な好意や愛着というこれまた萌えの代表的「感情」を喚起する、という解釈(でも大室先生が御活躍の大正時代は、未だコンタクトレンズは無かったんですけどw)。

然りながら、嘗て見合い結婚全盛だった数十年前は、良縁に支障する“欠点”でしかなかったメガネが(我々の両親の時代は、そうだったみたいですよマジで)『萌えのジャンルの一つ』として、むしろpositiveに捉えられるようになった訳で。

日本から発したsubcultureの、多様性をそのままに愛でる懐の深さは、大いに言祝ぐべき“美点”だよなぁ……と、それにドップリ魅了されてる自分自身の心理をも「屁理屈、上等!」な考察で解題してみる、秋の一夕でした。


2014年10月26日日曜日

エゾノー発・イーハトーブ行

今回は、タイトルからして“出オチ”ですけどw
いやぁ、第1巻読んだ時から、ず〜〜〜っと気になってたんですよねぇ。

“八軒くん”て、メッチャ誰かに似てるんやけど……誰やったかなぁ?)

んで『人にかまって損するタイプ (by 駒場一郎)』なトコが激しく宮澤賢治!と腑に落ちたのは、『それ町』第13巻の第104話「暗黒卓球少女」からの“伏線回収”繋がりで、第9巻の第71話「歩く鳥」を復習中。

『サザンクロスでも石炭袋でも降りませんから』と(自宅玄関先でウッカリ降りそうになった挙げ句、すったもんだで運良く戻って来られたくせに)宣言してる丸子商店街の“カムパネルラ”こと嵐山歩鳥嬢が、南第3中学の“ジョバンニ”へ向かって『だって文学少女ですもん』と喜色満面で言い継ぐ場面だったり。

とは言え、作者・荒川 弘氏は、蝦夷地の由緒正しき『百姓貴族』にお生まれ。

岩手・花巻の質屋兼古着屋に生まれた『石こ賢さん』が描く、叙情豊かな幻想譚とは一線を画し、超絶リアルな『イーハトーブ』への道程が『銀の匙 Silver Spoon』第12巻で怒濤の如き展開を見せるのは、理の当然です。

だって八軒くん自身の『イーハトーブ』は、全97話にして単行本「11と9分の1」巻分を費やし、ガッツリ描かれた超絶濃密な高校1年生の春夏秋冬を経て、これ以上無いってくらいバッチリ明確になってるんですもん。

出資者候補の八軒 数正氏からは、渾身の企画書を『迅速に処理』されてますがw

父親として『本気には本気で返す』という想いがあってこそ。『人の夢を否定しない人間に、俺はなりたい』という“理想”を『自分の意思だ!!』と覚悟した、その意気や良し。それを『無謀な挑戦』として潰えさせたくない故の、親心ですもん。

Amazonさんのカスタマーレビューでは、急展開を惜しむ読者様が、けっこうな割合で“違和感”を訴えて居られる様子ですけど。憚りながら、“親心”の有り様を絶賛満喫中(泣)な視点で拝読しておりますと、「そう!そう!! 高2から高3て、メチャメチャあっという間やったわ〜!!!」とひたすら激しく同意!なのです。

時に全く台詞の無い走馬燈の如き急展開にしても、エゾノー祭で馬術部見て
『めっちゃ心震えた』から入学しちゃった彼女の名さえ記されてない件にしても。

必ずや、痺れるくらい超絶カッコイイ“伏線回収”を魅せて下さると、『ハガレン』以来の圧倒的な親近感と絶対的な信頼感が全く揺らがない所以は、7月末にも記事に致しました通り、“百姓の血”、中でも最強の“開拓農民の血”で描いてやるぜ!って覚悟が、相も変わらず全てのページからガッツリ伝わって来るから。

発刊予定は、鬼が笑うとも謂われる来年ですが。
続く第13巻では期待に違わぬ、八軒くんの『イーハトーブ』と荒川さんの“漫画描きの血”を、バッチリ読ませて下さるものと絶賛待機させて戴きます!


2014年10月20日月曜日

日常の偶然・必然の奇譚

先月来、筆者も全く想定外だった連載を、心の滾りが赴くままに、突発させてしまった“日常の奇譚”コミックスレビュウ。本日は第3回目にして、完結を目指します!

一応、話頭は続いておりますため、前回までの2篇も併せて、お時間許す範囲で御笑覧戴けますと幸甚。てことで、リンクを張りつつ……
>>第1回『奇譚の日常』を読む
>>第2回『日常の奇譚』を読む

***

さてさて、斯様に愛して止まない『シャーリー』『それでも町は廻っている』そして『書生葛木信二郎の日常』なのですが。他人様へお奨めしようとなると、実は逡巡してしまう作品だったり。

定法どおり舞台背景を、「20世紀初頭のロンドン」とか
「大田区の丸子商店街」とか「大正時代の帝都東京」とか。

次いで主人公の設定を、「13歳ながら、良く出来た頼りになる少女メイド」とか
「メイド喫茶でバイト中な、探偵志望のへっぽこ女子高生」とか
「妖怪屋敷に下宿してる、小説家志望な帝大卒の書生」とか。

説明し始めた途端、お聞き下さってる相手の反応に、曰く言い難い気配。

すなわち「ロンドン」だの「商店街」だの「大正」だの「帝都」だの。「少女」やら「メイド」やら「女子高生」やら「妖怪」やら「書生」やら。余りに人口に膾炙した“タグ”の群れが、いわゆる“萌え”を追求した既存作品の“イメージ”から、妙に堅固な、しかし全く該当しない先入観を構築していく様が感知できてしまって……

むしろ、従来の“萌え”を狙った一連の作品に対する、密やかにして果敢なるアンチテーゼとも謂うべき、これら“日常の奇譚”の真髄を、適確に表現できない自分にこそ憮然とし。ウームと言葉に詰まってしまうのです。

叶う事なら“日常の奇譚”タグを、大々的に普及させたい所存ではありますがw 

そこまでの気概と実力、ならびに無謀を己に許してしまう根拠無き自己肯定感は、残念ながら欠く身なれば。敬愛して止まない大先達・藤子・F・不二雄先生の、これこそ“日常の奇譚”の結晶と申し上げるべき『ドラえもん』を、前々回前回ともに引用させて戴きながら、胸の裡に溢れる滾りを切々と綴って参りました次第。

その上で愈々、『書生葛木信二郎の日常』の魅力を語らせて戴けば。

まず第一に主人公たる葛木信二郎の、キャラを敢えて立てて“いない”所が、ツボを見事にギュギュッと押さえて素晴らしい。なんてったって、初回から『小説家志望』と謳っているのに、如何なる小説をお書きなのか、第36幕まで一切描出されてない(あ、揶揄じゃないですよ〜w ホントに真摯に称讃しておりますです)。

仮に、ドラマツルギーの在庫が心許ない描き手であれば、信二郎の兄・悌一郎をこそ、主人公にしちゃうでしょうね。社交的で頭が良くて、祖母から受け継いだ力も強くて。単なる“見鬼”に留まらず、人事の外に棲む怪しきモノをも巧みに統べる彼ならば、作者が構想に詰まった時でも、勝手に話を転がしてくれそうですし。

然れど“日常の奇譚”をこそ、物語ろうと志すのならば。

一見、掴み所の無い個性、そして小説家を目指すにしてはツッコミどころ満載な、“大正の野比のび太”こと葛木信二郎が、必然的に主人公なのです。

なぜなら『黒髭荘奇譚』の真の“主役”は、

百年を遡った昔には、「江戸」と呼ばれ
五十年前の維新で、「帝都」に定められ

その名を「東京」と改めて以後、『時の流れに遅れまいと 
みんなが必死になって、積み上げるように』『生きてきた街』だから……

《以下、最終話・第48幕「新しい日常」のネタバレ御注意!》

2014年10月16日木曜日

令嬢と奥様の日常

“高校生”繋がりで入手した『それでも町は廻っている』第13巻『銀の匙 Silver Spoon』第12巻『咲 -Saki-』第13巻とは、完っ全っにっ“別世界”ですがw

先月末は、25日に目出度く発売なった村上リコさんの『図説 英国貴族の令嬢』も、併せて購入。『図説 英国メイドの日常』そして『図説 英国執事 貴族をささえる執事の素顔』に続く、河出書房新社ふくろうの本『図説』シリーズの第3弾ですv

カバー表はジョン・シンガー・サージェントの「ウィンダム姉妹 (1899)」
華麗にして優美なること正に“Daughters of the British Aristocracy”ですね〜v 

思い起こせば『小公子』を耽読していた小学校低学年の砌から、英国上流階級の風俗が大の好物(先日は、アガサ・クリスティーの著作『バジル氏の優雅な生活』『T.E.ロレンス』辺りが起源と綴りましたが……もっと年季入ってましたw)。

なので今回の新刊も、大変美味しく堪能させて戴いたのは無論なのですけど。それにも増して一押しな“お奨めポイント”は、『ダウントン・アビー』を愛する方々が第1シーズンを復習第2シーズンを予習なさるのに絶好の“参考書”ということ。

なんてったって今年5月にスタートしたNHK地上波放映の最中、実況ツイートハッシュタグで盛り上がりつつも、著者が「ぎうっぎう~ 」になってらしたのは、まさしくこの御本の原稿と拝察されますから、理の当然。

そして、ドラマの企画・製作総指揮・脚本を担うジュリアン・フェローズ御大が、限嗣相続を主題とするに至った由縁、加えて、グランサム伯爵家のご令嬢お三方をはじめ、伯爵夫人コーラ様や先代伯爵夫人ヴァイオレット様が抱えるお悩みの根幹が、一挙に深〜く拝察&隅から隅まで納得できちゃう好著なのです。

来月1日から始まる第1シーズンのアンコール放送、更に末日からの第2シーズンスタートに備え、階上と階下の運命が織りなす極上のドラマを、余す処なく御賞味なさりたい皆様方には、万全の体制を整えるべく(是非『英国メイドの日常』『英国執事 貴族をささえる執事の素顔』と御一緒に)全力でお奨めしたい一冊です!


2014年10月9日木曜日

Here Comes the World Fool News !

「暗黒卓球少女」に、激しく心動かされたあまり……毎度お馴染みのメタな妄想深読みと、魔法少女のアンチテーゼへ注ぐ偏愛が、思わず炸裂してしまった『それ町』第13巻のレビュウ、たくさんの御来臨を賜り恐悦至極に存じます。

何だかよく判らない“滾り”を、誰もが読める漫画として顕現させて下さった歓喜に任せ、思いっっっっ切り屁理屈を書き連ねてしまいましたけど。

結局、一番好きなのは、第101話「モテない紳士」(恐らく“変態紳士”のもじりだけど、かなり外しちゃってるタイトルも一層愛おしい!)だったり、断然、一押しの“神コマ”は、150ページ冒頭の『アナスターシャ…!?』(間違いなく読者の皆様全員が、ご唱和なさったであろうページ構成も一層素晴らしい!)だったりw

なので、東京では10月5日早朝にスタートした『ワールドフールニュース』!Episode.01「新キャスターの憂鬱!?」を観るなり、しっかりハマっちゃいました〜v

元来、ウェブアニメとして制作されてたようですが。テレビ版は更に洗練され、脱力癒やし系の得も言われぬ妙味が全開! 殊に『それ町』第13巻の149ページ最終コマで、嵐山歩鳥嬢が『アナスターシャのせいだよ……』と宣言した、自信たっぷりの表情にピコーンとなった皆様には、是非ぜひ、見逃し配信で一度御覧戴きたく。

『群馬テレビが開局以来はじめて自社制作するアニメーション』
ということで、監督も前橋ご出身らしく。

Episode.01でも既に、群馬ならではのアレコレが(判りやすい所では、こんにゃく○○とか、ラスクとか。ちょっとディープな所では、県庁とか、ヤマダ電機とか、カッパピア跡とか)さりげな〜く登場してる、控えめな郷土愛も一層麗しい!

今後は、上毛かるたとか、ひもかわうどんとか、焼きまんじゅうが、如何に登場するのか超絶楽しみです〜vvv

などと言いつつ、『つる舞う形の群馬県』を“永遠のライバル”と目す、生まれ故郷の隣県でも、高松信司先輩に思いっっっっ切りはじけたアニメを、作って戴くってのはどうでしょうかね?とちぎテレビさん!と、思わず妄想炸裂するのも嬉しい、北関東からじわじわ全国デビュウしております本作、超絶オススメです!!!


2014年10月4日土曜日

『それ町』第13巻感想!

明朝末期を舞台にした武侠小説の、素敵に上質な荒唐無稽を賞翫しつつ。次の記事こそ、『シャーリー』第2巻を御供に来臨戴いた(あ、“ライフワーク”繋がりで)、『AWAY -アウェイ-』第1巻を話頭に!と目論んでたんですが。

“高校生”繋がりで『銀の匙 Silver Spoon』第12巻『咲 -Saki-』第13巻と一緒に、ゆるゆる入手した『それでも町は廻っている』第13巻。その第104話「暗黒卓球少女」に、ガツン!!! と強烈な想定外の一撃を、お見舞いされちゃいまして。

ウッカリすると底抜けのお人好し、さもなくば畏れを知らぬ増上慢、と誤解されかねない位、然したる根拠もないのに自己肯定感が高い性分。ゆえに生来、他人様を嫉ましく思う事は、滅多に無いヤツなのに(あ、歩鳥じゃなく私が)。

この話には俄然、燃え上がりましたよ!
「どーして描けちゃうのっ?!! こんなスゴイ話がっ!!!」
てな、不遜なる嫉妬の炎がメラメラと!

でも、次の瞬間には……ずっとず〜っと長い間、胸の裡に溢れかえっていながらも、何だかよく判らないままで、どうにも掴み所が無かった“滾り”が、形有るモノ=誰もが読める漫画として顕現し、人の世をより良き方向へ導く様を目撃出来た、歓喜の怒濤に昇華されちゃいましたけどね〜(あ、“昇華→消火”繋がりでw)

更に言えば、『それ町』への“愛が試される”一話でもあったり。

斯く言う私も、最後のページで伏線回収に気付いたものの。「えっ?! アレって何巻?! 何話だったっけ?!!」となり、「くっそ〜っ!読んだ時には『どういう回収されるか超絶楽しみ〜(デュフフ)』とか思ってたクセに思い出せん!!! (ウガーッ)」と素直に降参。

ええ、ネットで検索させて戴きましたよ!私なんぞより遙かに深い“愛”をお持ちの皆様に、敬意を込めておすがりしました!にしても、単行本で4巻分・歳月にして3年1ヶ月後の“回収”は、小母ちゃんには誠に厳しい試練でしたが(ゼーハー)

そんな次第で、不遜なる嫉妬の炎を燃やしたり己の不甲斐なさに打ち震えたり歓喜の怒濤に身を委ねたりしつつ。

月野うさぎ嬢木之本桜嬢鹿目まどか嬢も体現していた、底の知れない包容力と無敵の向日性こそが、嵐山歩鳥嬢の魅力であり“武器”であり。

木野まこと嬢大道寺知世嬢巴マミ嬢と同じく、主人公を見守る針原春江嬢の心優しい眼差しこそが、『それ町』の通奏低音たる善性であり。

変身出来なくても魔法が使えなくても世界を救わなくても
人の世をより良き方向へ導く物語は、確かに描けるのだ!

と、男子高校生の果てしないバカバカしさ&女子高校生の愛すべき傍若無人振りで、読者を呵々大笑させた挙げ句、不意打ちのように実証して見せた“語る力”こそが、作者・石黒正数氏のなんとも掴み所が無い天賦の才なんだよね、きっと……と再認識させて戴きました『それ町』第13巻、超絶オススメです!!!


2014年10月1日水曜日

ランキング外しました

お慕いしてるブロガー様が入村してらっしゃるし、
村長さんが、せっかく企画して下さったんだし……

という理由で至極消極的に参加させて戴いてた、にほんブログ村のランキング。
どういう仕組みかは存じませんが、なぜかGoogle+経由でお運び下さったPVは、
カウントされない状況が続いてました。

訪れて戴いたのにランキングへ反映されないのは、如何にも気ィ悪い。
けど、村長さんへ不備を訴えて、お手数を掛けるほどの事も無いし……

と言う次第で、これまた至極消極的な対応、誠に恐縮ですが。
PVランキング、外させて戴きました。あらあらかしこ。


2014年9月30日火曜日

武侠小説入門!

「てことは、室町から安土桃山江戸初期、江戸初期から明治でOK?」
「まーね、大雑把には」
「をを〜、なるほど!」

共通一次を世界史で受けて以後(センター試験には非ずw)、すっかりご無沙汰だった中国史を娘相手に復習しつつ、満を持して金庸御大『碧血剣』を読み始めた。

つまり日本では足利義政公が、むしろ仁徳ゆえに思うに任せなかった国政を厭い、自身の嗜好に耽溺して応仁の乱を引き起こし、それを端緒に下克上の世へ突入しちゃった一方、美意識だけはヤタラメッタラ先鋭化して、宋から伝わった茶湯が唐物数寄の書院の茶、更に佗茶へ発展していった頃。

大陸では、洪武帝の文人大弾圧で宋代以来の美意識が廃れた上、歴代の暗君が行った独裁的な恐怖政治で世が乱れ、勘合貿易のお得意様が寄越した南宋青磁の逸品に、不粋な楔を打って突き返すようになっちゃった一方、武芸武術だけはムチャクチャ先鋭化して、各地方の郷紳が権力を振るうようになった、という“設定”ですね!

確かに日本の歴史小説も、人気があるのはいわゆる乱世な戦国時代から江戸初期、もしくは幕末から明治維新だしなぁ……

という理解で宜しいのか、日本語訳の監修をなさった岡崎由美先生の総説『漂泊のヒーロー —中国武侠小説への道』を、都度参照してみたり。

そんな右往左往も楽しく、第1巻「復讐の金蛇剣」をゆるゆると読了。

物語は、主人公たる袁承志青年が、修行を終え華山を降りて早々に、とある奇縁奇遇を得た顛末すなわち、彼の兄弟子に当たる黄真先生曰く『石樑で店開きしたとたんに大儲け、まことにめでたい』一件落着を見た所までしか進んでいないが。

岡崎先生が解題して下さった金庸作品の魅力すなわち、『凡庸な作家なら、数作の長編に分けてしまいそうな趣向を』『惜しみなく一作に盛り込んで』、読み手の“在庫”に応じた『好み次第の読み方ができる』所以が、既にして垣間見える。

冒頭、大陸から遠く離れたブルネイ王国に、とある華僑の一族が高官の職を得るに至った由縁を簡潔に説くくだりや、当時の世情に昏いモブキャラ視点で稿を起こす気配りは、俄然、司馬遼太郎御大の語り口を想起させるし。

名将の遺児が、亡父を慕う旧臣・盟友の助けで辛くも危難を脱し、深山高峰に匿われて秘かに武芸の修行を積む、というドラマツルギーは古今東西お馴染みだが。

思いも寄らぬ経緯から、稀代の剣客とうたわれた武林の奇俠・金蛇郎君との因縁を結ぶ次第は、伝奇小説も斯くやという凝った趣向。それでいて、男女の機微はあくまでも、純情可憐な少女マンガをも思わせる筆致だったりw

烏滸がましくも拝察すれば、金庸先生は“在庫”が素晴らしく豊富なだけでなく、あらゆる人事の本質を鋭敏に見抜く慧眼を備えて居られるのだろう。更に妄想深読みをお許し戴けるなら、袁承志青年のキャラクターをつらつら鑑みるに。

生真面目で誠実・礼儀正しく謙虚・年長者からの受けが極めて良い一方、女心や世間には極端に疎い“設定”は、本作執筆の数年前に大陸で誕生したばかりだった(そして自分を外交官として採用するよう申し出た、査良鏞青年をけんもほろろに断った)中華人民共和国を、ひょっとしたら隠喩してるのかも?という気がしてくる。

さて明日は、彼の国が建国65周年を寿ぐ国慶節

第二の故郷たる香港で、民主派の大規模デモに対し、政府が強制排除すべく催涙弾を使用し、祝賀の花火大会も中止せざるを得なくなった様相を、卒寿をお迎えになった金庸先生は、如何なるお気持ちで御覧なのだろうか?


2014年9月24日水曜日

夏の思い出

8月に生まれた娘の誕生日は、例年、夏休みの真っ最中。鉄分多めの相方からは夏の旅行を、私からは道中に読む本を贈るのが、いつしか誕生祝いの習いとなった。

時々、車窓に目を遣りながら小さな手で紐解く本が、児童書から小説へ変わって、はや幾年。今年は遂に、彼女の方から「忙しいから遠出は無理」と旅行を断られ、代わりにトーハク「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」へ行こう!と纏まる。

美術は大の苦手だが、史記・三国志クラスタなので同行するか…と思われた相方は別件が入って、娘と二人、鶯谷駅の南口から炎天下の新坂を上る。敢えて上野で降りないのは、混雑を避け目的地へ速達する、お馴染み“急がば回れ”のアプローチ。

坂上に設けられた墓参者目当てのタクシープールを横断し、職員通用門を横目に正門へ向かって辿るのは、彼女が小学校へ上がる前から通い慣れた、人通りの疎らな舗道。訪れた日は、楠並木の梢から降ってくる蝉時雨が、殊の外、賑やかだった。

***

「あの人は相変わらず、やりたい放題だねぇ」
「でも当時の所有者は、皇帝だったからねぇ」

特別展を堪能した後、敷地内のレストランで遅い昼食。他愛ない会話の主人公は、昨年観た「上海博物館 中国絵画の至宝」展以来、母娘揃って一方的に親近感を抱いている、乾隆帝こと愛新覚羅弘暦陛下である。

如何なる『神品至宝』であっても、余白があれば御名御璽だけでは飽き足らず、自作の漢詩を讃として書き込みまくり、時には、若い頃に献じた頌詞を、後年、削除・改訂までなさっていた、マニアックな御仁だ。

「“持ち物には名前を書きましょう”的なw」
「“見ましたハンコ+ひとこと”みたいなw」

叶う事ならトーハクの“中のヒト”になりたい、と志している娘。将来は台北や北京の博物院まで、満洲族でありながら、漢族伝統の文物を蒐集かつ溺愛しまくった『十全老人』が、故宮に遺したコレクションを観に行きたいらしい。

***

午後も、娘の希望で“総合文化展”を観る次第となった。まずは、お気に入りの東洋館から、特別展に合わせて企画された、特集展示「日本人が愛した官窯青磁」へ。

金繕いが施され口縁に覆輪が嵌められた、南宋官窯の逸品『青磁輪花鉢』。完形としては世界に4点しかない稀少な米色青磁や、川端康成が愛蔵した端正な青磁盤。生産窯不詳ながら、印象的な造形と深遠な釉調の美しさゆえ国宝となった『青磁下蕪瓶』と並んで、全く思いがけない事に、その茶碗があった。

『青磁茶碗  銘  馬蝗絆』

足利義政が蔵していた折の逸話は、どこかで読んだ覚えがある。けれど、まさか実物を目の当たりに出来るとは……半ば呆然としながらも、六弁の花びらを象った優美な口縁の造形と、釉薬の濃淡が織りなす円やかな景色に、心を奪われる。

ひび割れを繋ぎ留める鎹から滲み出た、錆色を認めた刹那、一つの天啓が閃いた。
娘が自分の将来を期しているのは、義政公も生涯追求し続けた、数寄の道なのだ。

すなわち、愛蔵の品に無様な鎹を打たれて突き返されても、猶。立腹するどころか、美を解する心を喪失した彼の国(当時の王朝は)の不幸を憐れみ、大きなイナゴ(馬蝗)が襲来した天災と見立て、以前にも増して慈しむ在り方。

両親が志した自然科学とは、合理の様式が異なるだけ。この世界の多様性を愛おしみ、そこに隠れされた理を探究する真髄に、相違は無いのだ。

そして、良く言えば磊落、有り体に言えば暢気に過ぎる彼女の性分は、案外、その道に向いているのかもしれない、とも思う。

親バカなのか、バカな親なのか……多分、両方だけどw
見守ってやるしかないなぁと、妙な所で腹を括ったのが
今夏最高の思い出と、なってくれますように。


2014年9月20日土曜日

日常の奇譚

先月は、昨年来、愛読させて戴いている『書生葛木信二郎の日常 —黒髭荘奇譚—』第7集が発売され、やっぱり欣喜雀躍中でしたw

こちらの奇譚、主人公は小説家になる志を抱いて帝都に上って来た、京都帝大卒の書生。時は上野公園で東京府主催の博覧会が度々催され、浅草には通称「十二階」こと凌雲閣が聳える、大正の御代です。

年端も行かぬ13歳ながら、良く出来た頼りになる少女メイドとも、
下町商店街のメイド喫茶でバイト中な、探偵志望の女子高生とも、
一見、全く共通点は無いような……

メイドポジション&『服だけメイド』なキャラは登場しますけど。
信二郎自身は残念ながら(?)、メイド服は着用してくれませんしw

あ、申し遅れましたが、奇譚の主人公たる最重要属性は、小説家志望でも帝大卒の書生でもなく。妖怪を見知し妖気を感知する力、すなわち“見鬼”だったりします。

小説家志望とか書生とか見鬼とか……東京都西部の古い木造家屋にお住まいな民俗学専攻の大学生および彼のお祖父様を、僭越ながらウッカリ想起してしまう設定w
ですが個人的には、葛木のお祖母さまから中途半端に受け継いだ“常ならぬ力”そのものが、“奇譚の日常”の由縁って訳じゃあない、と思うのです。

何故なら信二郎は、自分の力が及ばぬ事を再々慨嘆しながらも、否応なく見えたり感じたりしてしまう妖異を、決して奇怪なるものと恐怖したり忌避したりはしないから。あくまでもヒトでありながら、人事の外に棲むモノ達を、在るが儘に受け容れ、維新開化が成って久しい世でも、共に幸福である事を何より優先する。

あやうい奇譚をも、ホンワカした日常に変えてしまう。

そんな底の知れない包容力こそ、シャーリー・メディスンにも嵐山歩鳥にも相通ずる、“奇譚の日常”の主人公・葛木信二郎の魅力!だと思うのです。

更に加えるべきは、描き手に溺愛されまくった挙げ句の、“やられキャラ”っぷりw
シャーリーも歩鳥も信二郎も、のび太くんも斯くやの不運に見舞われ続けてます。

そして物語の共通項は、過去と未来の邂逅ゆえに生まれた、稀有なるあたたかい日常を、終幕の後、愛惜すべき奇譚へと転ずるであろう、“破局”の予兆。

19世紀には珍しくなかった13歳のメイドと、20世紀を象徴する自立した女性。
商店街の過ぎ去った日々を、気儘な時系列で愛おしく懐旧する未だ来ぬ日々。
江戸の昔なら誰もが信じていた妖異と、維新開化の果てに変貌を遂げた東京。

折々の不運で主人公を散々翻弄しつつも、優しく包み込んでくれる幸福な、過去と未来が交錯する物語の裡に、来たるべきcatastrophe…女主人の結婚や、商店街の凋落や、大正関東地震による帝都壊滅…が然りげ無く、しかし揺るぎ無く示唆され続けているからこそ、彼らの日常は奇譚として一層の輝きを放つのだ、と思うのです。

さて、11年越しで第2巻が発売された『シャーリー』は言うに及ばず、第12巻・第98話を数える『それ町』でも、未だcatastropheは描かれていないのですが。『書生葛木信二郎の日常』がデビュウ作となります作者様に於かれては、サンデーGX10月号掲載の第47幕・11月号掲載予定の最終幕にて、果敢にも“奇譚の破局”に挑戦中!

その妙味の解題は、次回を乞うご期待!!! という次第で……
最終幕を拝読するまで、如何なる主旨で展開するのか?! 筆者にも皆目予想がつかないレビュウ連載第3回は、10月20日ごろ掲載予定です。

>>第1回『奇譚の日常』を読む
>>第3回『日常の偶然・必然の奇譚』を読む