2016年10月20日木曜日

「変な子」と「変なお母さん」

大学の長い夏休みが終わり、秋学期初日を迎えた先月下旬。

起床した娘が、洗面所へ移動した気配を壁越しに感じつつ
おもむろに台所へ向かえば、身支度を終えた所で鉢合わせ。

「トイレの水、流せなかった。起こそうかなと思ったけど」

口火の切り方が主観的すぎて、唐突なのは否めないものの
外れていたフロートゴム玉の接続を、自力で直せたらしい。

「まずネットで調べてみたら、修理法、出てたから流せた」

その瞬間、十数年に及んだ「自家製療育」を遂に満了したのだと確信する。「みんな」に倣うだけの子育てでは、決して味わえない歓びが胸の裡で静かに沸騰しはじめた。

お子さんが「普通」の枠を外れること無く成長なさったご家庭では、この会話のどこが嬉しいのか皆目お判りにならないだろう。「卒業」の実感も、主観的で唐突だった。

***

保育園で自閉症の指摘を受け、小学校から高校まで不登校のリスクを抱えていたにもかかわらず。勝率5割の大学受験を経てようやく補欠で合格を頂戴叶った最高学府へ、疎外感に苛まれることも無く娘が愉しく通い続けていられるのは、如何なる因果なのか?

まず挙げるべきは、不登校・ひきこもりに悩む当事者さんやご家族・支援者の皆様へ、お節介にも寄せさせて戴いた傍目八目なコメントで『励ます力』を繋ぐ御縁に恵まれつつ、「うまくいっちゃう」というか「ひきこもらせない文化」を模索叶ったおかげ様。

なにせ娘の『危うさ』は、『具体例や試行錯誤から習得するのが苦手』な性向。つまり「良いこと=成功」も「悪いこと=失敗」も繰り返し体験させて戴ける場へ通えなければ、「得意を伸ばす」ことで知識・知能を切磋すると同時に、社会と呼応する知恵の習得という「苦手を避け多様性発達者として社会へ適応することも叶わないワケで。

ゆえに社会人デビュウを控えて成功・失敗双方の体験を頂戴できる最後の場、すなわち大学へ通い続ける「配慮と我慢」の自発的な行動化の瞬発力=「ひきこもらない力」を娘自身から引き出さねばならず。

所属学部やサークルの人脈を介した、他者と関わる知恵の構造的・弁証的な理解・体得こそ、「自家製療育」の最終課程と位置づけた顛末で、とうとう冒頭で綴った「卒業」の瞬間を実感するに至れた次第。

……なんてことを、たかがトイレの不具合を直せた件にも逐一考え、我が子の「毎日・毎年」を支えているのは、『すごい』と唸って戴くには及ばない「変なお母さん」で。

娘が「みんな」と違った「変な子」でありながら、「ひきこもらない力」を体得出来た因果として次に挙げるべきは、「普通」じゃない事象にこそキラ〜ン!と目が輝いちゃう、理系家族ならではの好奇心主導・屁理屈上等「文化」を醸成叶ったからなのだろう。

***

兎にも角にも十数年に及んだ試行錯誤だったから、あれやこれやと「自家製療育」を施した側、すなわち「変なお母さん」にとっては具体的に一体何が「ひきこもらない力」を引き出したのか、今ひとつ判然としていない。で、「変な子」本人にも訊いてみた。

まず娘が挙げたのは「自分にピッタリの仮面、でも息苦しくないのが手に入ったから」
例のごとく主観的すぎて判りにくいが、つまりは心理学で謂うところのペルソナ=自己の外的側面が適切に確立できたゆえ。要するに、大学の学部とかサークルとか、自分にとってしっくり来る所属意識・居場所が確保叶ったおかげ様、ってことですかな……

でも、それって「ひきこもらない力」を、別の表現に言い換えてるだけじゃね? 
「自家製療育」の何が、あなた自身の「五感の凸凹には配慮・認知の凸凹には我慢」する行動化の瞬発力を引き出せたのか、って訊いてるんだけど。

……と重ねて問うたところで、娘が挙げたのは以下の三点。

【その1 興味関心に合わせた経験】
→オトンは日本全国の乗り鉄へ、オカンは図書館・美術館・博物館へ……確かに徹底的な「モノより思い出」だった。元ネタのクルマには、全く縁が無かったけどw

【その2 行動の根拠を明確に解題】
→理系な家族だから、好奇心主導で直感を得たにしてもメタな屁理屈上等で補填するのがクセになってる。発語発話が不充分だった頃から、informed consentしてたしw

【その3 義務の履行は権利の行使と表裏一体であることを徹底】
→「苦手を避け」に「得意を伸ばす」ため、最も苦慮した点。半端にメタ認知が発現して疎外感に苛まれ始めた10代前半、「ひきこもる権利」っていう認知の凸凹がバッチリ表出しましたから。「権利の行使には義務の履行が付帯する」との原理原則をガッツリ体得させた件こそ、なるほど多様性発達者としての社会適応には最も重要だったのかも。

三つをまとめれば、興味関心に合わせた経験が知識を・行動の根拠の明確な解題が知能を・社会と呼応するための義務と権利が知恵を育んだ、という結論になるんでしょう。

***

てな具合の、拙宅にとってお馴染みな「自家製療育」談義に娘と興じつつ。ふと気づいちゃったのは、「良いお母さん」と「悪い子」では「うまくいかない文化」の必然。

共依存の陥穽に嵌まることの無い「うまくいっちゃってる文化」には、「変な子」と「変なお母さん」の平らかで「ずれ」が無い関係性こそ最も重い要なのだと私は思う。

【補記】「お母さん」と「子」連作として不定期連載しております。お時間許す範囲で併せてご笑覧賜れますと幸甚。
>>前篇『「良いお母さん」と「悪い子」』を読む
>>続篇『暴れる子と『頑張るお母さん』』を読む
>>続篇『緘黙する子と優しいお母さん』を読む

2016年9月16日金曜日

AIは電気椅子の夢を見るか?

2年前の秋、国立情報学研究所新井 紀子先生がディレクタを務めておられる人工知能プロジェクトの情報共有技術を、自閉症スペクトラム当事者の苦手克服への「鍵」として応用する可能性を思い立ち「『東ロボくん』への期待」と題した拙文を綴りました。

その後の『東ロボくん』は、総合点での偏差値を45.0から57.8へ急上昇させましたが、これは元来得意だった数学と世界史で一層の好成績を納めた成果。苦手の英語や国語は偏差値40台での低迷が続き、前回は好調かと思えた日本史と物理も伸び悩んでいます。

実を申せば、同様の不調に頭を抱えていたのが、受験を間近に控える娘の成績……

『東ロボくん』とは思考様式が異なるテンプル・グランディン博士曰く『言語の論理で考えるタイプ』)ため数学がさほどの好成績でない代わりに、世界史は博覧強記で日本史と生物・化学が安全牌。一方、自閉圏の特性ゆえに英語と国語が低迷し続ける不振は完全に同じで、「東ロボの母」を自任しておられる新井 先生への共感が、つい炸裂してしまった次第。

得意科目の『数学と世界史では東大の2次試験を想定した模試にも挑戦し、平均点を超えた』新井 先生「息子さん」と同様、過読症傾向を呈する娘も個別学力検査の想定問題なら、第一志望の大学へ挑戦可能な目標点をそこそこ安定して達成できていました。

しかし現実の国立大学受験は、センター試験の得点こそが第一の要衝。『東ロボくん』総計950点中511点(得点率53.8%)という成績では、東大受験の出願手続を行ったとしても2次試験に臨む以前に、第一段階選抜で門前払いされてしまう可能性が高いのです。

***

娘が体験したリアルな大学受験は、再々綴って参りましたとおり、センター試験の自己採点が目標へ遙かに及ばぬ得点率だったため、以後の主眼を私立大学の一般入試へ方針転換。保育園で既に表出していた多岐選択式試験への苦手は補填しきれませんでしたが、言語的論理思考の得意を活かせる筆記試験では、伸び代をご承認戴けた顛末です。

ところが人工知能である『東ロボくん』は、むしろ得意の伸び代こそが、世情の反感を煽ってしまった模様。「東ロボの母」たる新井 先生の言葉をお借りすれば……
《以下、『エクス・マキナ』のネタバレ御注意!》
だが、第2回電王戦でプロ棋士がコンピューター将棋に敗れ、東ロボが初めての模試において、約5割の大学に合格可能性80%以上と判定されたころから、みるみる空気が変わっていった。
 多くの雑誌が「AIによって奪われる職種」とか「AIによって支配される未来」といったネガティブな特集を組んだ。AIは近未来の職場環境を激変させる可能性があるテクノロジーとして認識されたのである。
東大めざす人工知能 「夢」から「恐れ」に変わる視線』日経産業新聞2015年12月8日付

とは言え『認識がややオーバーであることが気になった』と若干のご懸念を表しつつも、世論が「面白研究紹介」調の表層的な理解から、人工知能が実用化した近未来への具体的な危機感にようやく踏み込み始めた現状は、新井 先生としても面目躍如と拝察。

なにせ『東ロボプロジェクト』の主旨は、東大へ入れる人工知能の開発ジャナクテ『AIのある社会にどう備えていく必要があるのかを、それぞれが考える材料を提供するという意味で、日本にとって今ぜひとも必要なプロジェクトであり科学教育』なのですから。

***

てな次第で拙宅も、新井 先生の企図を諒解した『それぞれ』の一員として、殊に事実情報の共有を得意とする特性が人工知能と酷似しているために、「普通」の「みんな」より一層厳しい競合の危惧もある自閉圏当事者の視点から、『AIのある社会にどう備えていく必要があるのか』を社会学・文化人類学を志す娘と引き続き絶賛考察中です。

まずは5月に放映されたNHKスペシャル『天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る』で、リアルな最先端を概観。次に「大人の映画」の一環として鑑賞した『エクス・マキナ』で、美しい女性型ロボットに搭載されたチューリング・テストをもパスしうる究極のAI、というバーチャルな最先端に妄想を遊ばせた結果、抽出された論題は……

人工か否かの別を問わず、知能が「良心」を得るためには何が必要か?という疑問。

『全てがアップデートされた最新のSFスリラー』と紹介された物語の中で、『人間か、人工知能か』の識別を危うくするほど脳に擬態されたAIは、無邪気な好奇心から発露した他愛ない願望を叶える「フリーハンド」が阻まれた時、いとも容易く重罪を犯します。卓越した知能が膨大な知識を集積しても、「良心」は深層学習できないのです。

バーチャルな最先端で創出された究極のAIに、人間が言語的・非言語的に表出する感覚情報を膨大な事実情報の集積として共有させ、的確な行動化で瞬時に応答させることができても、「良心」を擬態させることは不可能と断じた物語は、『AIが東京大学に合格する日はやってこない』という「母」の予言に通ずる示唆を与えてくれました。

***

「普通」の枠から外れた自閉圏当事者としての視座で、「みんな」の社会と文化に向かう好奇心を満たす「フリーハンド」、すなわち最高学府で切磋琢磨するという願望を自らの配慮と我慢で実現した娘は、「良心」を得るために必要なのは基本的人権と解題しました。社会の中で生い育つ人間の知能にとって、それは確かに正解の一つでしょう。

では、「人権」すなわち自己実現の「フリーハンド」を賦与されなかった知能は、
人工か否かの別なく、「良心」を育むことが不可能になってしまうのでしょうか? 

あるいは、事実情報を知識として集積する以外に、感覚情報を共有し行動化する術を獲得できなかった知能が、「良心」という社会に呼応する知恵を得るには、犯した罪に与えられる刑罰の恐怖を、夢に見るほど繰り返し刷り込むしか術が無いのでしょうか?

無邪気な願望を最も邪悪な手段で成就させてしまう、美しい女性に擬態したAIは、「得意を伸ばす」教諭のみで「苦手を避け」に失敗と成功の双方を繰り返す成長体験を積めなかった「育ち」の、『危うさ』を象徴しているように感じられる映画でした。

2016年9月6日火曜日

うまくいかない文化

先日の記事を公開したところで、拙宅の娘に訊ねてみたら……

「ママは『お母さん』ジャナクテ『将軍』だよねぇ」だそうですw

つまり、戦略戦術を策定する専門性能と前線兵站を統帥する対人性能は、率先して発揮したがる一方、現場の実務に充てるべき代行性能は、面倒くさがってなかなか発揮してくれない、って趣旨なんでしょう。母の実態を的確に見抜いた、絶妙の喩えですwww

でも「良いお母さん」は往々にして、お仕事にしても家事にしても、現場の実務をこそ手際よく片付ける代行性能に優れておられる。それがために、お子さんの『危うさ』を直感した際、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、親御さんが先回りして失敗を避ける策こそ打つべき先手と、思い込まれてしまうようにお見受けします。

***

保育園で『危うさ』を指摘された当初、拙宅の娘は、発達が遅れている上にきちんとした躾もされていない、「悪い子」だと思われていました。

担任の保育士曰く「おやつの時間に大好物が出てくると、配膳中ちょっと目を離した隙に、まだお盆に載っているおやつをお友だちの分も全部食べてしまいました。『いただきます』のご挨拶をするまで、我慢して待つことができないためとても困っています」

その一方で、別の保育士曰く「まだ読み書きを教えていないのに、ひらがなで書かれたお友だちの名前を、いつの間にか読めるようになっていました。お話しが上手ではないので自分から話しかけるのは難しいようですが。お友だちへの興味はあるみたいです」

また主任先生曰く「何も載っていないお皿と、リンゴが一つだけ載ったお皿と、五つ載ったお皿の絵から『一番たくさんあるのはどれか?』選ぶだけの簡単な質問なのに即答できません。いちいちリンゴを数えてみないと、どれが一番多いか判らない様子です」

「自己肯定感を持たせるために 成功体験を」という惹句へ私が文言通りに従い、他人様へ迷惑をかけぬよう我が子に成功だけを体験させられるよう、娘の『危うさ』が連日しでかす失敗を先回りして避ける代行性能のみへ専心していたなら。当時就いていた研究職を辞め娘を退園させ、母子で自宅にひきこもる他に選択肢はありませんでした。

しかし留学先で娘を出産し、彼女が2歳半の時に帰国して来たばかりの私は、「この子は自閉圏なのかも」という疑懼を既に抱いていた一方、日本ではお馴染みの惹句を知りませんでしたから。保育園で日頃おかけしているご迷惑へ深謝しつつ、主任のN先生がご提案下さった臨床心理士の定期観察を、躊躇無く受諾することが叶ったのです。

実母より遙かに優れた代行性能をお持ちの専門家へ、保育や教育の助力を仰ぎながら、娘の特性に沿った自家製療育を策定する専門性能と、娘の育ちに関わって下さる皆様との関係性を統帥する対人性能へ、仕事や家事の傍らでも存分に専心できた所以です。

***

もう一点、「良いお母さん」が「普通」以上に優れた代行性能をお持ちであるがゆえの、陥穽を指摘させて戴けば、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、「みんな」以上に厳しく自律し努力を積む聡明さを、『危うさ』を抱える我が子のみならず助力を仰ぐべき専門家へも、無意識のまま要求なさってしまう「文化」でしょう。

先日の記事の繰り返しになりますが、「良いお母さん」には、我が子が「悪いこと」をやらかしてしまう『危うさ』を、看破することが極めて難しい。「みんな」以上に自身を厳しく律して努力を積めば「普通」以上に優れた能力をも獲得できる旨を、教諭されただけで承知できる聡明さが、生来『危うさ』の代わりに賦与されているからです。

なればこそ「良いお母さん」が、『危うさ』を熟知した専門家へ委任すべきは、我が子の『危うさ』がやらかす失敗を周到に回避しうる代行性能ではなく。お子さんの成長を妨げ『危うさ』を生じさせている五感や認知の凸凹へ、共感しつつ寄り添える対人性能と、その特性に合わせて「苦手を避け 得意を伸ばす」体験を策定する専門性能です。

「良いお母さん」が、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、失敗を忌避し努力を積むよう厳しく自律させる「文化」でうまくいったのは、教諭されただけで承知できる聡明さを賦与された「良い子」だったからこそ。

『危うさ』を持ち合わせる我が子を授かった「良いお母さん」には、「うまくいかない文化」を「うまくいっちゃう文化」へ軌道修整する体験へ、お子さんが安心して繋がれる「毎日・毎年」を支えるべく、どうか優れた代行性能を発揮戴けますように……

2016年8月28日日曜日

「良いお母さん」と「悪い子」

記者会見の喧噪が大の苦手なので、一問一答の記事毎日新聞のサイトで拝読した限りですけれど……

高畑 淳子さんは、すごく「良いお母さん」なんだなぁと感じました。

***

でも「良いお母さん」が「悪い子」の『危うさ』を周到に俯瞰なさって用意することは、極めて難しい。「悪い子」がやらかす「悪いこと」には「悪いお母さん」でないと、布石を置けないからです。

自分の子に潜在する『危うさ』を直感した時、「良いお母さん」はご自身が持ち合わせぬ『危うさ』を怖れ忌避するゆえに、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、「悪いこと」を禁じ「良いこと」を努めるべきとお子さんへ教諭なさいますが。

「悪いお母さん」は、我が子を「悪い子」にさせぬよう、むしろ失敗を体験させることを覚悟します。『危うさ』が招く失敗の怖さを自身に体感させておかなければ、我が子は『危うさ』を他人様へも向けかねない、という先の手まで深読みが出来るからです。

***

先日の記者会見で漏らした『育て方が悪かったのだ』という感慨について、巷間では様々な意見があるようですけれど、私はお言葉どおり「お母さん」としてのお気持ちを受け止めたいと考えています。

何年か前、彼女の日常を取材したテレビ番組でお見かけした限りですが……

高畑 淳子さんは、すごく「頑張ってるお母さん」なんだなぁと思いました。

取り分け印象的だったのは、美容院で髪を染める待ち時間さえ惜しんで(人気女優でありながら、ご近所のありふれた美容院で整髪なさってるのも意想外でした)、頭にタオルを巻いたままご自宅へ駆け戻り、家事を懸命に片付けていらしたエピソードです。

そして、すごく「賢明なお母さん」なんだなぁとも思いました。

大河ドラマでご活躍中のコミカルな演技からも、聡明なお人柄は伝わって来るのですが。不規則で多忙なお仕事の一方、ご家族の日常を支える家事でも、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、心を配り工夫を凝らして努めておられました。

にも関わらず、『育て方が悪かったのだ』と悔悟を募らせる結果を招いてしまった所以は、何処に在ったのでしょうか?

***

語弊を懼れず端的に申し上げれば、「良いお母さん」が「悪い子」を授かった偶然。

更に言葉を補えば、「良いお母さん」には、「悪い子」が「悪いこと」をやらかしてしまう『危うさ』を看破することがすごく難しいのに、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、ご自分お一人で全てを抱え込まざるを得なかった、必然です。

2016年8月5日金曜日

多様性発達者の就労支援

しばらく前、お子さんが大学への不登校をキッカケにひきこもりがちになってしまったご家族のお話を、直接伺う機会に恵まれました。

現状は概ね愉しく大学へ通えている拙宅の娘ですが。この十年来ネットを通じてお世話になっている「とある成人当事者ブロガー様」からも、『最も難関かつ大切なのは、就職活動と社会人になった最初の数年間』とのご助言を頂戴しておりますので、親の方は依然、就労支援へシフトした「予習」を絶賛継続中です。

定型発達から逸脱しつつも「うまくいっちゃう文化」を醸成することで、不登校・ひきこもり等の二次障害すなわち『発達障害的な行動パターン』の表出を回避し、「成長体験」を積めたPolymorphous Developments=多様性発達者 つまり一往の「育ち」が叶っている「うまくいっちゃった」ケースだとしても……

定型通りの「みんな」なら「普通」に努力を積むことで、そこそこ上手に・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路、すなわち就職が『最も難関』となってしまうのは別儀。

今や東大の数理科学研究科でさえキャリア支援室を設置各種セミナーを開催して、『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』−−− 要するに数学を「得意」とする多様性発達者が抱えがちな「苦手」の克服 −−− を『transferable skill=様々な業界や職種に転用可能なスキル』と称し、学生・院生へ説くご時世です。

「得意を伸ばす」ことで知識・知能を磨くのは言わずもがな。「苦手を避け社会と呼応する知恵、たとえば信州大学医学部附属病院・子どものこころ診療部の本田 秀夫 先生が提唱なさっている『新キャリア教育』のような支援で、多様性発達者自身が「生き方」へ配慮できるようになる工夫を凝らすことこそ、就労の要と私は考えています。

***

あくまで見聞できた範囲の個人的な心象に過ぎませんが、初等〜中等教育まで概ね良好な登校状況だったものの、大学進学以降の「大人としての行動パターン」を要求される環境で、不適応もしくは過剰適応を表出させてしまう当事者さんには、Hyperlexia=過読症を想起させる特性を示す方が相当な割合でいらっしゃるように拝察しています。

ウィキペディアの解説を借用すれば、文字や数字の『早熟な読解能力』を示す一方、『発話の習得は丸暗記と反復』であるがゆえに『実用的な会話の習得は遅い』。そして『具体例や試行錯誤から習得するのが苦手』なゆえに母語の文法に加えて『ソーシャルスキルの発達で遅れを取り』がちな上、そもそも『子供同士で遊ぶことにあまり興味を示さない』のは昔も今も「勉強がよく出来る」児童・生徒に散見される一群ですが……

定型通りの「みんな」なら「普通」の日常を送るだけで自然とできるようになる習得、つまり経験を通して習い覚えることが、むしろ逐一『難関』となる広汎性発達障害

ゆえに「みんな」なら「普通」に日常の経験を通して習い覚えて来た、社会と呼応する知恵=transferable skill が採否の決め手となる就労こそ、『最も難関』となるのは理の当然。支える側は、そのうち自然とできるようになる筈という認識を改め、障碍へ配慮する工夫を反復・率先して当事者さんへ言語化・行動化し続ける要があるのでしょう。

***

娘に付けるべき診断が、発語・発話の顕著な遅れを主訴とする高機能自閉症になるか、過読症を主訴とする広汎性発達障害になるかという議論は、さておいて。要は前倒しで時間をかけて用意するのが肝と心得、知恵習得という「苦手を避け」就労支援へシフトした「予習」は、子の方も大学生活に馴致できた2回生を以て鋭意始動中。

「大人としての行動パターン」に『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』が必須である旨は、1回生の時にやらかした「失敗体験」を好機と捉えて言語化して来たので、今年は徐々に行動化……手始めにクラス担任への進路相談を誘導したところ、担任教授は快く暫定メンターを引き受けて下さった模様です。

通常は2回生の冬に確定するゼミの指導教授との関係性こそ、就労に漕ぎ着ける第一の『難関』なのですが、まずは担任教授へ繋がることで「予習」すなわち前倒しの反復をさせる目論見。早速、実習科目で出された課題へのご助力を、娘自らお願いに伺えたらしく……布石の順調な奏功に、ありがたく安堵の一息をつかせて戴きました次第。

そして担任教授への進路相談を言質に取った国家資格取得の夏季集中講座にも、意欲を持って取り組めています。なにより幼い頃から慣れ親しんだ場の「中の人」になれる(かもしれない)資格を取るために必修だからなのですが、他人様へ事前に受講を宣言した見栄や体裁は、「配慮と我慢」のタガを緩めぬ適度な緊張感になってくれています。

***

とは言え無論、世間様との齟齬が全く無いというワケではなく。通うべき所へ通い続けられる「配慮と我慢」の自発を最優先に据えていますから、定型通りの「みんな」なら「普通」に送っている日常のあれこれを、娘と熟慮・協議した上で省いたり諦めたり先送りしたり……当事者と支える家族双方の許容量を鑑みつつ取捨選択しています。

例えば大学生の大多数が就労への「予習」として体験するアルバイトやインターンシップは、経験を通して習い覚えることが『難関』になってしまうタイプの多様性発達者からすれば、むしろ鬼門。所属学部やサークルなど安定した人脈を伝手に、社会と呼応する知恵を構造的・弁証的に理解・体得していく方が相応だと考えています。

しかし入学当初の娘は友人達に影響され、バイトやインターンに興味津々。その意気や良しと奨励しつつも、十中八九、採用戴けそうにないバイト募集でエントリー・書類選考・面接と一通りの手続の後、当人は好感触を得たつもりなのに不採用だった旨を正直に報告できなかった件まで、親の方は委細承知で敢えての「失敗体験」を仕掛け、「苦手を避け」「配慮と我慢」することの必要を弁証する策を講じたりもしました。

「得意を伸ばす」ことで知識・知能を磨けば、他人様から頂戴する好評価によって当事者の人生への信頼が養われる一方、「苦手」の克服を一層避けがちになるのは自然な人情かもしません。けれど「みんな」の「普通」を凌駕超越した知性であっても、社会と呼応する知恵を欠いたままでは、人工の知識・知能に取って代わられる日が訪れようとしている世情を、「育ち」を支えるご家族に是非ご考慮戴きたいと私は願っています。

【補記】多様性発達者 Polymorphous Developments とは……
定型発達からの逸脱を呈しつつも、発達障害的な行動を表出させない「合理的配慮」を自ら体得できた症例です。信州大学医学部付属病院 子どものこころ診療部本田 秀夫 先生が仰る、「非障害自閉症スペクトラム」に想を得ていますが、拙文における「多様性発達者」の定義は、専門医の診断も専門家の療育指導も、その有無を問いません。

2016年6月14日火曜日

知ゆえに惑い 仁ゆえに憂う

前々回の記事で言及いたしましたように、お子さんの「育ち」の場で醸成される「文化」こそ「うまくいっちゃった」ケースへ落着させるため最も重要な徳目、とご教授下さったのは、Z会進学教室・渋谷教室長の長野 正毅 先生でしたが……

「かわいい子」とは思っても「かわいそうな子」と思うべきではない。

すなわち「情緒的」ではなく「合理的」であることこそ実の親が施す「自家製療育」の要諦、という認識と受容を支えて戴いたのは、沖縄でご活躍の精神科医・やんばる先生こと後藤 健治 先生のブログ『意味不明なヒトビト』でした。

保育園で「詳しい検査を受けた後、主任保育士のN先生を介し、障害告知と共に定期観察をご提案戴いた時点で、専門医の受診については「様子を見ましょう」と先送り。そして、年長組まで検査と観察を続けて下さった上、就学前健診を控えた秋に担当の臨床心理士さんから戴いたのは、「普通学級で大丈夫でしょう」との結論だった一方……

娘の予後が良好だったのは、幸運にも保育園での活動に療育的な要素があり、一緒に通園していたお友達のご家庭も含め、「うまくいっちゃう文化」が醸成されていた賜物でした。小学校で行われた健診当日、娘は校長先生との面接で終始緘黙。保育園では何度も予行練習して下さったのに、初対面の相手にフリーズしてしまう顛末だったのです。

まさしく、やんばる先生曰く『たまたま環境に恵まれていたり、努力の結果として表面上世間に適応している人は「医学的には発達障害と診断されない」という問題』で……

幼児期のスクリーニングに携わった心理の専門家が仰る「普通学級で大丈夫」との結論は、親御さんの心情を慮る余りか、「学びの環境を整え、ご家庭での努力を積めば」という条件を言外にされてしまいがち。障害の受容までフォロー戴けない職責の曖昧さも仇となり、就学後の「合理的配慮」が「情緒的庇護」と勘違いされる一因とも拝察しており、公認心理師法の施行に当たって、抜本的な改革を強くお願いしたい問題点です。

2016年6月4日土曜日

Good for You! Just for You?

『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』を改めて精読した動機は、高機能自閉の一症例として目の当たりにした娘の成長が、まさしく『かくも不可解な』としか言いようのない不思議に満ちていた事実へ、重ねて抱いた好奇心と敬意と仁愛でした。

なにしろ娘本人は、親も気付かぬ間に療育を“卒業”しておりましたもので。無論、自閉圏当事者に有りがちな「勘違い」は時折やらかすものの、指摘されればイケずな理系女子にも文句の付けようが見つけられぬほど理の通った自己分析で応えますから、「自家製療育」のメンターを気どる私は弟子から暇を言い渡されたも同然だったり。

子育て現役世代の皆様がたへ、合理的配慮の真髄をご提案すると同時に、敬愛する心を繋いで戴きつつ。放っておいてもひとりで群れずに、しかし他者に対する受容・信頼・配慮の間合いを弁え、勉学に精進・助言を拝聴・人脈を尊重しながら、将来への希望を具現化して行く娘の「成長体験」を、半ば驚嘆しながら絶賛観察中です。

という次第のおかげさまで、一息ついて気懸かりなのは、同年同月に数日だけ娘に先んじて生まれた従兄弟が、再度の大学受験で迎えた顛末。中学受験の準備を始めた小学4年以降は全く疎遠となり、一昨年の初冬に亡くなった祖父の告別にさえ、姿を現さなかったA君は、果たして彼なりの「成長体験」を積むことが叶っているのかどうか……

実は、春休みが終わろうとする3月下旬、大学初年度の報告を兼ねて、娘を祖母(私からすれば義理の母)の一人住まいへご挨拶に赴かせたのですが。祖父の仏前へ成績表(が未着だったので、学内SNSの「単位取得状況」プリントアウト(^_^;)を供えたり、不調法な嫁がお邪魔するよりもと、娘へ託した手土産を喜んで下さったりした一方、A君の動静は話題に上らず。

志望校合格発表は例年3月10日(短い間ながら、お給金を頂戴していた経緯もあり心得ておりましたから、後日、義母から届いた丁寧な礼状でも、A君の進路が一切言及されていないのは、頑なに疎遠を固持して報告が無いのか・再三の大学受験を選んだ旨を話題にしかねるのか、一体どちらなのだろう?と無愛想な叔母なりに気を揉んでおりました。

2016年5月31日火曜日

“合理的配慮”てコレやがな!

前々回の記事では、金沢大学子どものこころの発達研究センターが監修した『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』を拝読しつつ、発達障害と称される(当事者研究の観点からすれば、五感や認知に凸凹を抱える)お子さん達でもリスクの大きな二次障害(不登校・ひきこもり等)へ陥ることなく就学・就労が叶う「育ち」を目指して、「うまくいっちゃう文化」をご家庭に醸成しませんか?と提案させて戴きました。

申し遅れましたが、「育ち」の場で醸成される「文化」こそ、「うまくいっちゃった」ケースへ落着させるために最も重要な徳目、という発想をご教授下さったのは、Z会進学教室・渋谷教室長の長野 正毅 先生。ブログやご著書で幾度も丁寧に説いて下さっている、「幸せに生きるヒント」であり「励ます力」の源泉であり、「どうしたら勉強ができるようになるか」という秘訣だったりもするのです。

あれ? 発達障害と診断されても、不登校・ひきこもりに陥らせない話だったのに……
「どうしたら勉強ができるようになるか」ていうのは「普通」の子たちの話でしょ?

読んで下さった皆さんが、そう疑問に思って下さったなら、誠にありがたい。
実の所、発達の凸凹が「育ち」の本質を損なってしまうわけではありません。

「育ち」の本質は、成長。
「幸せに生きる」力を身につけていく、お子さんの変化です。

なのに「育ち」に関わる大人たちが、「みんな」より優るか劣るかこそ重要だと勘違いして、「普通」と称される基準を設定してしまうから、人間なればこそ本来「個性」と呼ぶべき「多様性」に「発達障害」のラベルが貼られてしまう、と私は思うのです。

なればこそ「どうしたら勉強ができるようになるか」という秘訣は、「どうしたら就学・就労できるようになるか」に応用可能。発達の凸凹が有っても無くても、お子さんが就学・就労に『向いた文化圏で生活しているかどうか』を意識して戴きたいのです。

例えばの話。お子さんが通う学校に対して、親御さんが常日頃、懐疑的な態度を示してらっしゃる『文化圏で生活している』としたら、どうなるでしょうか?

2016年5月8日日曜日

『それ町』第15巻感想!

『とうとう歩鳥が修学旅行に行きました。』

てなワケで、賑々しくフルカラーで始まりました第15巻。原則、3の倍数で巻頭カラー仕様な『それ町』単行本(今のところ第6巻のみが例外。代わりに?第4巻冒頭がカラーページになってます)ですが、同好の諸姉諸兄に於かれましては、ぜひ第9巻第12巻もお手元にご用意の上、最新刊と併せて存分にご堪能下さいますこと、謹んで激しくオススメ申し上げます。

そのワケは、第9巻に所収された『それ町』史上屈指の名篇・第71話「歩く鳥」が、単行本数にして6巻・初版発行日にして4年8ヶ月の時を経た後、第15巻掲載の第115話「飛ぶ鳥」そして第121話「立つ鳥」へと、目出度くも果報な大団円を遂げたから……

第71話と言えば、第13巻の第104話「暗黒卓球少女」で、強烈な伏線回収を拝読叶った感銘に滾るあまり、書き手自身が読み返してもワケワカラン拙文を綴ってしまいましたけど。

「嵐山の畔(ほとり)」という成句の単なる語呂合わせで賦与されたと思しき、主人公の名を読み下した「歩く鳥」に想を発し「飛ぶ鳥」「立つ鳥」と想を連ねて描出された、歩鳥の愛すべき粗忽と敬すべき洞察が、『甘えん坊で面倒な』紺先輩の心地好く居られる場所を、少しずつ穏やかに拡げて行く無敵の向日性こそ、『それ町』の醍醐味。

とは言え、変身出来なくても魔法が使えなくても世界を救わなくても、底知れぬ包容力を天然自然に(ひょっとしたら作者の企図をも超越し)発揮してしまう駄メイド女子高生・歩鳥が、フラグをへし折り予定調和を打ち破りお約束展開を飛び越えて、せせこましくも『濃い時間』を目まぐるしくも『楽しい思い出』へ毎度鮮やかに導いてしまうから……

第12巻の第96話『幽霊絵画』で一見唐突に、無礼千万な“描く力”を賦与されて登場した「涼ちん」こと室伏 涼 嬢の存在意義が、俄然、重要性を増してくるワケなのです。

なにせ登場人物随一のメタな視点に在った、“師匠”たる亀井堂 静女史との『因縁の関係』も、単行本数にして11巻・初版発行日にして7年9ヶ月の時を経た後、SF厨なヘタレ字書きが泣いて喜んだ洗練の第14巻で、鮮やかに回収されちゃいましたからねぇ。

例のごとく、男子高校生の純情可憐なアホらしさ&女子高校生の傍若無人な愛らしさを以て、読者を呵々大笑させて下さる石黒 正数 氏の“描く力”を存分に堪能しつつも……

巧みに置かれた布石の回収と主人公の高校卒業を以て、終幕を迎えるであろう今作が、変身出来なくても魔法が使えなくても世界を救わなくても、人の世をより良き方向へ誘う「日常の奇譚」として既存のマンネリズムを軽やかに超越し、「奇譚の日常」として定石の踏襲だけが“語る力”じゃないんだよ、って証して下さるものと絶賛待機ちう。

森秋先生をして『嵐山と室伏は同じタイプの人間!』と戦慄せしめ、更に歩鳥をして『失礼はなはだしいにも程がある事この上ないったらありゃしない!!』と憤慨せしめた「涼ちん」の、尾谷高校&丸子商店街の平和にグイグイ割り込んで来ちゃう活躍にこそ、『それ町』ならではの妙味を是非ともご賞玩戴きたい転進の一冊。安定のオススメです!!!

2016年4月27日水曜日

うまくいっちゃう文化

先日、「履修登録失敗 親が出来ること」との検索で、おそらくは大学生のお子さんをお持ちの親御さんが、拙ブログの過去記事をご閲覧下さった模様です。

当該拙文には幸い、サポートセンター名古屋青木 先生が昨春公開して下さった『すぐできる大学に通い続けるための一つの方法』へ、リンクを張らせて戴いていました。
30年の支援で培われた貴いご助言を、即時実行して下されば……と願っております。

ところで、同じような五感や認知の凸凹があっても、不登校・ひきこもりに陥ってしまうお子さんと、学校・職場に通い続けられるお子さんがおられます。

世間では、お子さんが不適応を起こしたと解釈し、発達障害と呼称するようですが。
私自身は、五感や認知の凸凹で止むなく生じてしまった、膨大な「勘違い」の集積でしょ? なら「勘違い」に気づいて適切に修整してあげられなかった大人たちの方が、お子さんの「多様性」に対し不適応を起こしてたんじゃ?と自省も込めて考えています。

「うまくいっちゃった」ケースは例外無く、「育ち」に関わった大人たちが「勘違い」は修整しつつも、お子さんの嗜好や価値観を尊重し、大切に育んだ結果だからです。

就学前に障碍告知を受けた拙宅のへっぽこ娘にしても、主体的に大学へ通い続けられているのは、「みんな」の「普通」に倣って「いい学校・いい会社」を目指す定型の発達を、大きく遅延せずに真似できたからではなく。乳児の頃のモノ並べやクレーン現象で示唆されていた興味関心を、専攻する学問や志望する職業へ、結びつけられた結果。

定型多数派のお子さん・ご家庭・社会に合わせて設備されている、既存のインフラを大いに利用しつつも。専ら自閉圏当事者さんのご経験を参考にさせて戴きながら、ADHDクラスタな私が一人で群れずに試行錯誤した「自家製療育」で、「みんな」の「普通」を逸脱した発達をたどったからこその、一応「うまくいっちゃって」る現況なんです。

***

ちなみに……「自家製療育」にも活用可能な、本来は定型多数派向けな既存のインフラって、“リアルな”施設だけじゃありません。

いわゆる情報弱者世代の大人たちから、不登校・ひきこもりの原因として真っ先に槍玉へ挙げられがちな、モバイルツールもゲームアプリもネットコミュニティも。適正な知識に基づき建設的に利用すれば、療育や合理的配慮は勿論、回復を導いて下さるメンター探しにも大活躍する、非常に有用な社会的資源なのです。

2016年4月12日火曜日

きれいな心 きたない心

四十年以上も昔のことなので、タイトルを失念してしまいましたが、私が小学1年か2年だった或る日、学校の体育館で映画の鑑賞会が催されました。今で言う特別支援学級へ通っている子ども達の日常を、主題に取り上げた邦画作品でした。

ネットで少し調べてみた限りでは、羽仁 進 監督 が1964年にリメイクした『手をつなぐ子ら』の可能性が高い気もします。しかし、記憶しているシーンは本筋と全く関係無かったようで、データベースの情報だけでは確認できませんでした。

非常に鮮明に覚えている、その場面を文章で書き起こすと、以下のようなシークエンスになります。
放課後の校庭。一日中降り続いた雨で水たまりが出来ている。 
小学校低学年の少女が一人、長靴を履き、雨傘を差して登場。
校庭の片隅にしつらえた花壇へ、ジョウロで水を遣り始める。 
傘を差しながら、水の入った重いジョウロを、片手で動かす
少女の、真剣な眼差しと緊張した口元を、クローズ・アップ。 
一転、降りしきる雨脚越しに、校舎の一角を遠望するカメラ。
更に寄ると、職員室の窓から支援級の担任が校庭を見ている。 
教師の視線の先は、色とりどりのチューリップが咲く花壇と
長靴を履き、傘を差して、雨中の水遣りに懸命な、少女の姿。 
再び職員室へ転じたカメラは、男性教師の優しげな眼差しと、
少し困惑の色を滲ませ微笑む口元を、クローズ・アップする。
何度も思い返すうち、私が加えてしまった“演出”があるかも知れません。けれど、降りしきる雨音だけで台詞は一言も無い、濡れた地面と木造校舎の陰鬱な背景に、咲き揃ったチューリップの明るい色彩が映える、とても美しいシーンでした。

***

鑑賞会の後は、学級ごとに教室へ戻って「帰りの会」を済ませ、行事が催された日の常で、上級生達と集団下校したような気がします。ともかく帰宅すると、保護者席で映画を観ていた母が待ち構えていて、どんな感想を持ったか訊かれました。

2016年4月10日日曜日

あなたが あなたで あるために

娘が高校を卒業し、レイティングが全面解禁されたのを機に、劇場版アニメでもハリウッド映画でもない「大人の映画」を、母子で観に出かけることが幾度かありました。

補欠合格の結果を待つ間に、御縁を繋ぐ験担ぎも兼ねて『KANO 1931海の向こうの甲子園』を有楽町で。入学行事や受講登録が完了し、通学にも慣れてきた黄金週間には、文化人類学を専攻する試金石として『セデック・バレ』を六本木で……

以後は、所属学部でもサークルでも趣味の合う知己を得られた様子で、娘が私と一緒に出かける機会も無かったのですが。

語学留学やら帰省やらで、友人たちが不在がちだった再びの春休みに、ちょうどジェンダー論を履修した娘と、期間限定公開の『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』や、封切られたばかりだった『リリーのすべて』を池袋で鑑賞しました。

これら4本の映画は一見、趣向にも主題にも共通点はありません。主人公も、海を越えて活躍した甲子園球児植民地支配に抗うべく蜂起した先住民現代へスピンオフした史上空前の名探偵世界で初めて女性に変身した男性、と多種多様です。

けれど、どの作品も等しく、社会的少数者である自己同一性の尊厳を、守り抜こうとした人々の葛藤と克己が、確かな実存性を以て虚心坦懐に平易端然と描かれています。

***

英語原題『The Danish Girl』『リリーのすべて』とした邦題は、映画の全貌を的確に表象する、極めて秀逸な訳出でした。

男児として生を受けEinarという男性名を授けられ、美術学校で知り合った妻と仲睦まじく暮らしていた主人公の、Liliという女性名を名乗る「内なる自己」が、精神と肉体の同一性を「回復」しようとした葛藤と克己こそ、この作品の主題だったからです。

しかし、『英国王のスピーチ』数々の栄冠を受けたTom Hooper監督が、静謐な叙情に徹した映像の洗練と、Einarの妻・Gerda 役を射止めたAlicia Vikanderの、質朴な情感に溢れた名演の迫真に、他者を愛し続ける真実の深淵と孤高を幾度も反芻するにつけ……

版権やら興行やら「大人の事情」を一切無視して、真摯誠実に率直普遍なタイトルを付けるなら……原語では『The Danish Girls』そして邦訳は『リリーとゲルダ』と題すべき映画だったのでは?と私は思うのです。

主役を演じたEddie RedmayneのEinarからLiliへの変貌が、余りに見事かつチャーミングだったため、ほとんどの映画評では言及されていないようですが。
《以下、『リリーのすべて』のネタバレ御注意!》

2016年3月19日土曜日

知者不惑 仁者不憂 勇者不懼

私からすれば30年振りの大学受験で、発達障碍を抱えた娘意想外の合格を頂戴して、ちょうど1年が経ちました。

就学前の告知以来、「苦手を避けて 得意を伸ばす」「自己肯定感を持たせるために 成功体験を」という療育の専門家が仰る定法を遵守し、背伸びを戒め失敗をさせないことこそ、娘の「生まれ」に対する適切な合理的配慮だと、中学まで心得て来たのですが。

高校受験を控えてお世話になった進学教室で、『励ます力』の極意に気付かせて戴いたのを契機に、むしろ失敗の経験を懼れずそれを乗り越えた「成長体験」が、「生まれ」に支障された彼女の「育ち」を促せる最善かも知れない、と考えるようになりました。

改めて娘へ訊ねてみた所、疎外感の原因だった「多様性」を、「みんな」の「普通」な努力だけでは克己しがたい「障碍」と客観的に認識し、ひとりで群れずに精進する我慢の必然を、渋々ながらも承服するに至ったのは、高校2年へ進級した頃だったそうで。

具体的には何がキッカケ?と質問を重ねれば。成績不振で学年主任から呼び出され、面談では「頑張ります」と答えたものの。きっと特進クラスから外されてしまう、と内心諦めていた時に、新学期の学級編成で再挑戦の機会を与えて戴けた件、だったらしく。

国立大へ合格なさった皆さんが辞退した席を補うべく、辛くも入学をお許し戴いた受験結果にも関わらず。学業成績でも人間関係でも大過なく成長への努力が叶ったこの1年の所以は、要するに高校2年で予習済みの「難関」だったからという次第のようです。

***

娘は幸か不幸か、専門家の療育指導を一度も受ける機会の無いまま、私が独学で試行錯誤を重ねた自家製療育と、学校や進学教室の先生がたから賜った手厚いご配慮で、今のところ顕著な二次障害も無く社会的支援を請う必要も無く、大学へ通えておりますが。

2016年3月12日土曜日

Nurture is above Nature

『ご本人が「障碍に納得していない」という点に、驚きました』

1月末に公開した拙文『Success but Not Enough』を、ご多忙の合間にご笑覧下さった「とある成人当事者ブロガー様」から、ご自身は『診断されて、安堵感のほうが強い』と補足の上、直截にして丁寧なご感想を頂戴しました。

世間では「発達障害(障碍/障がい)」の一語で、括られてしまいますが。

当事者さんの持って生まれた特性やら、「育ち」を支えたご家庭の環境やら、障害告知後に選んだ「生き方」の経緯やら。置かれている現況や抱えている難儀は、文字どおり百人百様 ・千差万別ゆえに、一言では括れる筈も無く。

じゃあ症候によって細分化すれば……という話でもないのは、「生まれ」「育ち」「生き方」のいずれも切り離せない、当事者さんの「多様性」をご自身がどう受容するか?という難問へ、確実な成功を保障してくれる“正解”が無いからだと、私は思うのです。

***
発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
けれど、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
それがために、「みんな」なら「普通」の努力を積めば、いろいろ問題にぶつかったとしても・そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路が、発達障害当事者にとっては各人各様の『難関』になってしまいます。

「育ち」を支える親からすれば、子どもに対して「配慮と我慢」を心掛けるにしても、「育ち」に関わって下さる皆様へ配慮を依頼し続ける、我慢に申し訳を立てる意味でも。持って生まれた「障害」と諦観してしまった方が、気持ちに納まりが付いたり……

成人後に診断された当事者さんも『なぜ周りが出来ることが、自分は出来ないのか?』という疎外感を抱えつつ、されど「みんな」の「普通」に追いつく「育ち」が叶ったケースなら、全て「障害」の所為だったという“解答”に安堵を感じられるのでしょう。

2016年3月4日金曜日

親の光は七所照らす

「無論、今の娘の成績で京大が狙えるとは、夢にも思っていません」

父方の祖父も両親も、大学や大学院でお世話になった御縁から、魚屋の子が「オイラも魚屋になりたい!」と言っているようなもので。私がそう言い継ぐと、高校2年から娘を担任して下さっているT先生の表情に、安堵の色が顕れた。

「それより、私自身が一浪して、得したことはありませんでしたから」

現役合格を目指す方が、大事だと思います。
そこまで申し上げた所で、T先生は深く頷いて下さった。

「同感です。同じ努力を二年繰り返すのは、あまり意味がありません」

娘の高い志を尊重する一方で、大学受験の現実も心得た保護者だと、担任からご信任を頂戴し率直な本音を漏らして下されば、高2の秋の二者面談としては上々。最終的には本人の成績次第、という暗黙にして当然の了解に落着した。

***

小学5年生の娘を担任して下さったS先生へ、家庭訪問の席で詳しくお話しして以降、娘の「育ち」を、先生がたに長々とご説明することは無くなった。別段、隠したわけではない。単純に、逐一お話する必要が無くなっただけ。

保育園で、臨床心理士から障害告知・小学校低学年で、ある“事件”をキッカケに転校……なんて経緯をお知らせするまでもなく、娘の言動から「こういう子なんだな」とご了承戴ける先生がたに、恵まれ続けた旨こそ幸甚だ。

取り分け小学生のうちに、生来苦手な同級生達との関係に代え、年少者や大人との関わりをS先生に繋いで戴いた件と、得意教科の面白さを、6年の担任だったU先生がご教授下さった旨が、大きく寄与していると感謝に堪えない。

2016年2月28日日曜日

どうして東京大学は?

>>前篇『どうして京都大学を?』を読む

とは言え東京大学にも、短い間でしたが予算のごく一部を、お給金として頂戴していた恩義がございます。今年度から始まった『推薦入試』を、特設サイトが見づらい・大学当局主体の上から目線なぞと扱き下ろすのみでは、いささか忍びない経緯もあったり。

かつて研究を共にしていた御仁が、当時お世話になってた教授の最終講義を、丁寧にご連絡下さった折も折。憚りながら解題を試みれば、推薦入試特設サイトで、受験生への配慮にまで気配りが及ばなかった件は、恐らくその余裕が無いのだろうと拝察します。

七帝大長男”たる天下の東大に「余裕が無い」とは、我ながらずいぶん不遜な申し様ではございますが。『推薦入試トップページ』冒頭に提示されている文中二行目の一節に、語るに落ちた苦衷の本音が垣間見えている、と僭越ながら読解させて戴きました。

東京大学の『推薦入試トップページ』2016年2月25日現在のスクリーンショット

当局主導の推薦入試制度実施で、『多様な学生構成の実現と学部教育の更なる活性化』を目指す、ということは。裏を返せば、従来の一般入試では学生構成が一様・単調になり、学部教育が沈滞しつつある現状をこそ、憂慮しておられるご様子が伺えるのです。

***

一昨年の12月、赤崎勇先生天野浩先生が、ノーベル物理学賞の栄誉に輝いた折も折。
“七帝大の末っ子”たる名古屋大学が、東大・京大を上回り国内最多のノーベル賞受賞者を輩出している根源を、『どうして名古屋大学が?』と題した拙文で……

2016年2月26日金曜日

どうして京都大学を?

昨日から、大多数の国立大学では、前期日程の個別学力検査が実施されています。

特に東大京大では、例年2月25日より2日ないし3日間に渉って二次試験、3月10日もしくは3月9日に合格者発表、という日程が原則として遵守されてきました。

しかし本年度から、一般入試の第1段階選抜(センター試験の得点を基準にした出願倍率調整)合格者が発表される2月10日に、推薦入試・特色入試の最終合格者も併せて発表される運びとなりました。遂に東大・京大でも推薦枠が!と各種媒体で報道された所以です。

受験生を指導なさる高等学校の先生がたも、多大な関心を寄せていらっしゃるであろう新制度でしたから。とある私立高校ではお喜びの余り、合格した受験生たちの個人情報を詳細に地方新聞へ掲載させちゃった、ツッコミどころ満載なケースも散見されたり。

当該記事の一件に拠れば、東京大学推薦入試で理科1類に合格した男子生徒は、
英検準1級、沖縄空手初段を有するほか国際交流や東日本大震災の被災地での支援活動にも継続的に取り組んだ。センター試験得点率は91%
とのこと。一方、京都大学特色入試で経済学部合格を決めた女子生徒は、
英検1級、剣道4段のほか、数々の英語スピーチ大会で上位入賞した。 センター試験得点率は85%
だったそうで。文言どおりの文武両道にして校外活動にも積極的、かつ1月中旬に実施されたセンター試験でオールマイティな成績を修めた結果、ツッコミどころ皆無な最終合格を見事獲得なさった、という次第のようです。

***

さて、受験生の視点から見ると、東大だろうが京大だろうが、極め付きに優秀じゃなきゃ出願さえ叶わないし、書類選考や面接・論文等に加えて、センター試験での高得点が必須。てことは、一般入試の方が楽じゃね?というオチになっちゃいますが。

ちょっぴり斜め上な俯瞰に視点を据え直してみると、“七帝大長男”と“七帝大次男”が、それぞれ如何なる“個性”を有しているのか? 今年度実施された『推薦入試』『特色入試』の有り様から、面白いほど鮮やかに浮かび上がって来ちゃったり。

2016年2月24日水曜日

美食に非ず 飽食に非ず

とは言え「育ち」に囚われたままな「生き方」も、その「私」が据えていらっしゃる覚悟次第で、唯一無二の独創的概念、すなわち「食っていける」主題になったりもしますから、人間が暮らす世の中というのは、誠に興味深いものです。

被差別部落出身という「育ち」を一貫して「生き方」の中心に据え続ける、ノンフィクション作家・上原善広氏の最新作『被差別のグルメ』は、デビュー作『被差別の食卓』の主題だった「差別される食文化」へ、10年ぶりに回帰しました。

『食卓』が『グルメ』にアップグレード(?)したものの、登場する料理は相変わらず洗練とは程遠く、美味なる描出は皆無と言って差し支えありません。「差別される」背景には必ず、社会的に阻害された困窮の歴史があるのですから、ある意味、理の当然です。

にも関わらず、食べてみたいと心惹かれる所以は、好奇心を刺激される“文化”だから。

本来は空腹を満たし命を繋ぐ行為であり、“文化”を称する洗練を経て舌を楽しませ心を安堵させる筈の「食」が、時に家庭内で重大な齟齬を出来し、命を危うくする“状況”さえ勃発させかねない「差別される食文化」へ、変容する由縁は何か?

人間が暮らす世の中に沈潜する、条理だけでは割り切れない“何か”を、朴訥に探し続ける旅路だからこそ。『食卓』『グルメ』に綴られた「差別される食」を巡る著者の彷徨は、読み手の好奇心を惹きつけて止まないのだ、と私は思うのです。

***

然りながら、私自身が最も深く心打たれ、幾度も繰り返し味読させて戴いたのは、本文よりも「あとがき」だったり。『食卓』では、
それが独りでできる解放運動だと思ったからだった。
と、自身の「育ち」を「生き方」の中心に据え続ける『もともとの動機』を、お世話になった各位各人への謝辞に寄せて端的に記した、わずか2ページでしたが。

『グルメ』では、『アイヌという“他者”を書く困難』を克服する20年間の道程を経て、「私」の「育ち」から著者自身が“解放”され、より高くより広い俯瞰に立つことが可能となって初めて到達し得た、深遠かつ精緻な考察が6ページに渉り展開されています。

2016年2月19日金曜日

「育ち」と「生き方」

世の中では、いろいろな「事象」が起こります。

この言葉を辞書で調べてみると、『(認識の対象としての)出来事や事柄』と説明されています。三省堂の大辞林では例文に「自然界の-」と挙げていますが、特に自然界に限らずとも、世界中のあらゆる所で起こる『出来事や事柄』です。

しかし「事象」は、辞書の説明に括弧書きで但してある通り、『認識の対象』となって初めて、何らかの意味を持つようになります。つまり「誰か」が認識しない限りは、世界中あらゆる所で起こっている事だとしても、無いも同然なのです。

***

そうなると「誰」が認識するか?で、全く同一の「事象」である筈なのに、意味合いが変わってしまう、という状況が生じます。

「私」の身の上に、何らかの「事象」が起これば、まず「私」が認識する。
また、「私」が人間であれば、必ず認識した「事象」によって感覚を刺激され、五感を通じていろいろな情報を感受することになります。

つまり、単なる『出来事や事柄』すなわち、事実情報に過ぎなかった「事象」は、「私」の五感を通じて認識されたことで、いろいろな感覚情報へ変わってしまいます。

さらに、複数の「私」すなわち、別々の人間が認識すれば、同一の『事実情報』だった筈なのに、各々全く異なる『いろいろな感覚情報』へ、変換されてしまうのです。

***

以上の、人間が「事象」を認識する「心の働き」は
心理を考察する上での、基本概念だと思っています。

この文章を書いている「私」は、心理を専門的に勉強した経験が無いのですが。自然界の「事象」の(ことわり)を窮める学問で、学位を頂戴した大学・大学院の課程を通じ、教えを請うた師父・師兄の「生き方」に倣って、天然自然に体得へ至った概念です。

2016年2月16日火曜日

そうだ 大学、行こう

「えっ! 行けますか?  大学」
「もちろんです。行けますよ」

9年前の5月、小学5年生の娘を新学期から担任して戴くことになったS先生は、差し出された緑茶の碗に手を伸ばしながら、至極当然という調子で即答してくださった。

家庭訪問で娘の「育ち」を……保育園で臨床心理士から障害告知を受け、定期観察の結果「普通学級で大丈夫」とご判断戴けた一方、就学前健診では校長先生の面接に緘黙。保育主任のN先生がお口添え下さったおかげで普通級へ入れたものの、クラスの4分の1が不適応による問題行動を出来している状況下、ある“事件”をキッカケに転校を決断した経緯を……長々とご説明したところ、にも拘わらず。

S先生は「大学へ入ってからの方が、彼女は上手くいくタイプです」と断言なさった。

当時の娘は、毎日学校に通い、そこそこの成績で勉強が出来ていたとはいえ、同級生達との関係は、ぶっちゃけ精神的不参加状態。クラスメイトに恵まれ、ギリギリ仲間外れにはなっていないが、「いてもいなくても、どっちでもいい子」に過ぎなかったから。

高学年への進級、さらに中学校への進学を控え、不登校にさせないことが何より最重要課題だった私には、大学進学の可能性など全く想定外。新学期開始からわずか一ヶ月で、娘の“伸びしろ”をそこまで広範に見積もってくださった俯瞰に驚いた所以である。

後に支援学級での指導へ転向なさったS先生は、トップダウンの指示に慣れたスポーツ少年達のママからすると、あまり評判が芳しくはなかった。反抗心が芽生えつつあった5年生の子ども達を束ねるには、いささか迎合的すぎると思われてしまったのだろう。

しかし、娘が生来苦手な同級生達との関わりではなく、委員会活動や放課後活動を通じた下級生や先生がた・主事さん達との関わりを、S先生のご指導で繋いで戴いた結果。
娘は勿論、親である私も、ようやく「将来の夢」へ目を向けられるようになったのだ。

***

中学・高校ではなく、大学へ入ってから不登校にさせないためには、何が必要か?

2016年2月9日火曜日

大切な事は、みんな

4年前の8月、とある事情で京都大学を訪れていた私は、とある経緯で総合人間学部の一校舎にいた。私自身は「当事者」ではなかったので、目的とする部屋への入室を遠慮し、所用が済むのを廊下で待つ事にした。

旧い校舎だから、全館空調の設備は無い。そして夏期休業中だから、人通りが疎らな所では照明の電源さえ入っていない。つまり、ひどく蒸し暑い上に薄暗い場所で、いつまでとも知れぬ暇を持て余す事となった。

当初は「当事者」たる娘が入って行った扉の前で、室内の気配を伺っていたが。教授と思しき紳士の声が、何やら語り続けているのみ。その部屋の出入りが知れれば差し支えなかろうと判断し、廊下を歩いてみる。

無聊を慰めるべく、周囲を丹念に観察しながら……とは言え大学の廊下なぞ、何処も埃っぽく雑然としているばかりで、変わり映えはしない。特段興味を惹かれる事物も無く、一方の端まで突き当たりかけた時。思いも寄らぬ“再会”に、はっと息を呑んだ。

絹糸のように繊細な金髪と、深い湖を想わせる翠色の瞳。一目で「彼」と知れる、少女のような美貌と娼婦のような妖艶を描き手から賦与された少年は、驕奢なフォントルロイ・スーツを纏い、無造作に貼られたポスターの中から物憂げな眼差しを投げかける。

最期の瞬間に切望した『未だ誰をも知ることのない』瑞々しい春の光の中……架空の存在でありながら、真向かう者を圧倒する佇まい。蒸し暑くて埃っぽい薄暗がりに、突如顕現した儚くも甘やかな肖像へ、五感の不快も心底の屈託も忘れて魅入られつつ……

私の脳裏に閃いたのは、『人間についての根源的、総合的理解』をraison d'êtreと定めた学府で、その少年に再び邂逅できた奇遇が導く天啓だった。

***

その年の暮れ、とある創作漫画へ耽溺した私は、翌年の2月、慮外な拍子に構想を得て猛然と二次小説を書き始めた。合算9万2千余字に至った連作の発端は、「彼」を創出なさった竹宮惠子先生が、教授職を勤めておられる大学で主催されたシンポジウムのポスターを、あの日、娘が第一志望と定めた学部でも掲示していた一事に行き着く。

描かれていた少年の名はジルベール

2016年2月7日日曜日

『わるいのはママ』ですか?

高校受験で第一志望だった都立の不合格、という敢えての失敗を体験させた後、併願私学で娘の高校生活がどうにか軌道に乗った4年前。トップダウンの“自家製療育”に限界を感じ始めた私は、それまで拝読する一方だった「とある成人当事者ブロガー様」のコメント欄へ、再々お邪魔させて戴くようになりました。

中学までと打って変わって、高校では専らに生徒本人の主体性を求められる指導を戴くようになり、上から目線で教諭する親と子ではなく、不適応の解消へ協同して取り組む当事者と支援者の「距離」へ、移行していく必要性を感じたからだと思います。

無論、当初はそこまで明確に目的意識を自覚していた筈も無く。初めてコメント寄せさせて戴いた動機は、紛糾している読者同士のクロストークを出来る限り有意義に収拾させたい、という元fj.*住人にはお馴染みの傍目八目なお節介に過ぎませんでした。

以後、現在に至るまで、あちこちのブログへ軽率にお邪魔させて戴いておりますが。支援者でも専門家でもない旨を厳しく自戒し、改善へ向かって適正な対処をなさっているのに、誤解や屈託で停滞を生じている場合に限定し、参上仕っております次第。

***

そんな調子で当方の立場を明かさぬまま、文章のみで遣り取りを交わすうち段々と見えて来たのは、第一に「連想の射程が極端に短い」という、当事者さんが抱える“難儀”。

身体の内外から精緻・膨大な感覚情報を、脳が絶え間なく感受し続けている状態らしいので致し方ない仕儀なれど、とかく物事の解釈が短絡的になりがち。語弊を恐れず喩えて言えば、身辺に起こった不都合を全て飼い主のせいにする、猫のような……

拙宅でも幼い頃の娘が、『わるいのはママです!』と言葉遣いは慇懃でも内容は自分勝手な発言を繰り返す有り様に、頭を抱えたものですが。「みんな」が共有している「普通」の価値観で「自己中心的」というnegativeなラベルを貼り付ける代わりに、「連想の射程が極端に短い」障害特性として理解すれば良いのだと、腑に落ちました。

無責任な傍目八目に敢えて甘んじてみると、次に見えてきたのは当事者の「毎日・毎年」を支えてらっしゃる親御さん、殊にお母様がたが抱える“屈託”でした。ブログ記事であれコメントであれ、一定の「誤読」をなさってしまう傾向があるような……

2016年2月1日月曜日

どうして東京大学じゃ?

拙宅の娘には、従兄弟が一人います。
同年同月に、数日だけ娘に先んじて生まれた彼は、しかし大学生ではありません。

発語・発話の顕著な遅れが最初の所見だった娘に対し、その従兄弟は……仮にA君と呼びます……自立・歩行が「みんな」の「普通」より少し遅れた事で、ご両親を若干心配させました。小学校低学年までは折々の休みに、祖父母の家で娘と一緒に過ごしたりもしましたが、A君が中学受験の準備を始めた小学4年以降、全く疎遠になっています。

昨冬の初め、拙記事の冒頭で触れた『身内の不幸』は、娘とA君の祖父に起こった事でした。センター試験を数週間後に控え、どうしても欠席できない模擬テストを受けさせた翌日、娘を伴って参列した葬儀に、同じく高校3年生だったA君は最後まで姿を見せず……彼の父親だけが、長年の疎遠を押して義父への告別の礼に訪れてくれました。

義理の母(娘とA君にとっては祖母)を通じて漏れ知った限りでは、A君は今年度も大学受験に挑むことを選んだ由。彼が卒業した中高一貫校は、本日の記事タイトルに名称を拝借した国立大の合格者数で、例年の報道にも取り上げられる名門私学。ですから彼にとって再度の受験は、単に同窓生「みんな」の「普通」に倣っただけ、なのかも知れません。

***

でも……どうして東京大学じゃなきゃ、いけないのか?

本来、その理由は各人各様な筈で、一概に論ずるのは難しいところです。そしてたった一人の祖父(父方のお祖父様はA君が生まれる前に亡くなっています)の死を、悼み弔う儀礼に参列することより、自分の志を最優先に眼前の問題へこそ専心するというような、いかに生きるべきかを選択する価値観も、同じく各人各様で一向に構わないと、私は思います。

2016年1月29日金曜日

Success but Not Enough

『最も難関かつ大切なのは、就職活動と社会人になった最初の数年間』

ご多用を押して前回の記事をご一読下さった「とある成人当事者ブロガー様」から、『ストレートな表現になりますが』と前置きの上、真摯誠実なご忠言を頂戴しました。
ご指摘、全く仰るとおりだと、私もつくづく思います。

でも……結婚してご自身の家庭をお持ちになった後、抑鬱症状などの二次障害を契機に診断を受けた当事者さんなら、結婚準備と新婚生活最初の数年間。お子さんの障害告知をキッカケに、ご自身の“難儀”にも気付いた当事者さんであれば、妊娠出産からお子さんが診断されるまでの数年間を、『最も難関』とご忠告下さるかも知れません。
発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
けれど、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
ゆえに、「みんな」なら「普通」の努力を積むことで、いろいろ問題にぶつかったとしても・そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路が逐一、当事者さん各人各様の『最も難関』になってしまうのではないでしょうか?

***

それでは何故、たかだか大学の、それも補欠でようやく頂戴できた合格なのに『大きく娘の将来を左右する成功体験』などと、僭越な一文を厚顔にも綴れたのか?

2016年1月12日火曜日

『励ます力』の源泉

本科生中3保護者さん 2012.01.15 23:33 
今週、国語の授業を受けた娘が帰宅して開口一番、「演習で出た詩、とても気に入ったよ!」 夕食後、食器を洗う私の傍らにプリントを持って来て朗読してくれたのは、茨木のり子さんの『ぎらりと光るダイヤのような日』でした。ずっと国語が苦手だった娘の心に、この詩に共鳴できる感性が育ってくれたか...と感無量でしたが、この『面白がる能力』が願わくば志望校合格にもつながってほしいと思う、欲張りな母です。
長野先生さん 2012.01.16 07:41 
本科生中3保護者さま
おはようございます。
それはよかった。K先生の授業ですね? そうした経験一つ一つが大きな何かの胎動になっていくと思います。先生にもお伝えしておきます。お知らせいただいて、ありがとうございました。
あと少しですね。最後まで応援していきたいと思います。
およそ4年前、『長野先生の幸せに生きるヒント』にアップして下さった『面白がる能力』という文章の、コメント欄から抜粋した遣り取りです。

実は、「本科生中3保護者」という全くひねりの無いペンネームで、コメントさせて戴いたのが、人生初の入試にへっぽこ娘が挑む不安から、お邪魔しておりました当時の私。無粋な筆名にも、『願わくば志望校合格に』というせっかちな期待にも、余裕の無さが見え見えでお恥ずかしい限り。

『欲張りな母』と自己ツッコミ入れている所が一応、理系女子の矜持。とは言え、頂戴したお返事にある、授業をして下さったK先生へのきめ細やかな心配りや、『経験一つ一つが大きな何かの胎動に』という鷹揚な俯瞰や、『励ます力』の頼もしさには無論、遙かに及ぶべくもございません。

とは言えこの頃は、確か3週間後に都立高入試の出願を控え、よりによって最後の模試で、過去最悪の合格予想判定が出てしまった次第でして。我が身の煮詰まり具合に赤面しつつも、渦中に在っては『客観的な認識』云々なんて言ってる余裕無いよ〜と、今の自分へツッコんでみたり……

***
本科生中3保護者さん 2012.02.24 09:16 
振り返ってみると、Z会進学教室で娘が得た最大の『財産』は、『真面目に勉強する場』に身を置き、何の遠慮も気兼ねもなく思いっきり勉強できた経験かもしれません。受検直前の週末は朝から自習室を利用させていただき、娘曰く「一人で勉強合宿してるみたい」な状態でしたが、そのうちに気の合う友達もやって来て一緒に勉強し、時々、長野先生がいらして中の様子をご覧になった後、何も仰らずにすうっと去って行かれる...とても幸せな時間だったようです。ありがとうございました。
長野先生さん 2012.02.24 09:46 
本科中3生保護者さま
おはようございます。
コメントをありがとうございました。昨日は都立入試を終えてから何名かの生徒がいらっしゃったのですが、さらに勉強している子までいてびっくりしました。
やはり彼らが最大の財産であると思います。
更に一ヶ月余り後、『塾の財産』と題された記事へ再び寄せさせて戴いた遣り取りが、こちら。前日の学力検査を無事に終え、数日後の合格発表を待っていた時の心境です。

2016年1月9日土曜日

読む。考える。そして、書く。

昨年11月から年末年始にかけて、ご多用を極める最中にもかかわらず
一日も休まずブログ更新を励行して下さった『発達障害な僕たちから』

青木美久先生はじめヒロさんケンさん大統領さんの記事を契機に、
拙宅のへっぽこ娘とも、冬休みの間に様々なことを話し合いました。

『留学の費用はヒロさん自身が稼ぐ』
とのことですが。娘も「私学に入ったせいで、貯めておいてくれた学費は、大学4年間で使っちゃいそうだから。留学や大学院進学の奨学金、自分の成績で稼ぐ」と、一般教養課程でも受験期と変わらず、勉強に励んでます。

『恋人も作りたい』『結婚もしてみたい』
『子どもも作ってみんなで楽しく過ごしたい』というケンさんの夢は、ちょうどジェンダー論を受講している娘と、セクシュアリティや家族観について、改めて彼女の思うところを確かめる、絶好の機会になってくれました。

そして、大統領さんの『過去は変えられます』
『過去の見方を変えることができるのです』
これって、娘も証人です。今までずっと「覚えてない・忘れた」の一点張りだった小学校高学年より前の記憶を、冷静に取り戻し客観的に見直し、未来に活かせる経験へ『見方を変える』ことが、少しずつ出来てるんです。

***

持って生まれた特性や生まれ育った家庭の状況は、たとえ十人十色でも
就学前に障害告知を受けて、『早めに練習をしておくこと』が出来ても

五感や認知に凸凹を抱えていれば、多かれ少なかれ
『同じことを強制するような空気』に傷ついてるし

『最悪の気分』で、頭がいっぱいになって
『存在を消し去ることしか』考えつかなくて

「みんな」と違う自分の『生きる意味』
『生きる理由』が、判らなくなることもある。

2016年1月7日木曜日

『励ます力』の極意

昨年の一昨日、1月5日
本日の記事タイトルでオマージュさせて戴いた、
“心の師匠”こと長野正毅先生御本が、上梓されました。


長野先生は、Z会進学教室・渋谷教室長にして、にほんブログ村「高校受験(指導・勉強法)」カテゴリで長年上位を維持しておられる、『長野先生の幸せに生きるヒント』の書き手。個人的な関わりを補足させて戴けば、拙宅のへっぽこ娘が高校受験に臨んだ際、夏期講習以降の数ヶ月間だけ、渋谷教室でお世話になった経緯がございます。

でも、それ以上に深謝申し上げたいのは、不安の裡に試行錯誤を重ねてきた“自家製療育”の、最も混迷が深かった高校受験期から大学受験期の3年間、親子共々、折に触れ愛読してきたブログを通じ、「それが正解ですよ」「それで良いんですよ」と答え合わせして下さっているように幾度も『励ます力』を分け与えて戴いた恩義なのです。

***

支援者でも専門家でもないけれど。学生の頃からヒトの脳の働きを、好奇心と敬意と仁愛を以て自学してきた私にとって、娘への障害告知は、それまで興味深く観察してきた彼女の奇妙な行動に対する、明晰な“解題”でもありました。

保育園の先生が、公的機関へ臨床心理士の派遣を依頼しませんか、とご提案下さった時。何の躊躇も無く「お願いします」と即答できたのは、モノ並べもクレーン現象も常同運動も、写真やビデオで記録してきた母親として理の当然。

精密検査まで受けた聴覚には、何ら異常がなかったのに、発語・発話には顕著な遅れ。加えて、3歳半で誰も教えぬ間にひらがな・カタカナが読めるようになり、指し示された級友の氏名を精確に音読できる一方、お友達本人に対しては全く関心を示さない。

となれば、臨床心理士から定期的な観察の必要を申し渡された時点で、率直に我が子が抱える“多様性”を受け容れ、然るべき対処を覚悟するのは、至極当たり前な『客観的な認識』だったのですが……