2014年8月30日土曜日

「猿」に仕えた男

どんなに芝居が上手い役者さんでも、演技力だけでは如何ともしがたい事がある。

半年以上前の話で恐縮だが、今年の元旦に観た『利休にたずねよ』では、世評に違わぬ研ぎ澄まされた映像美を賞嘆する一方、観衆が熟知した(と思っている)歴史上の人物を演ずる困難に、つくづく感じ入ってしまった。

利休居士を演じたのは、十一代目 市川 海老蔵。Wikiに拠れば身長は176cmとのことだが、体格にも増して場を圧する持ち前の存在感こそが、これ以上は望めぬほど相応しい配役である旨、私如きが申し上げるまでも無く。

然りながら対する関白秀吉公は、世に周知され原作冒頭でも利休居士の独白として叙述されている通り、『小癪な小男』でなければならない。先に茶頭として仕えていた『精悍な骨柄』の信長公ではなく、思わず『猿めが』と罵りたくなる『下司』な男が、天下人となってしまった歴史の“あや”こそ、物語の根幹なのだから。

しかるに現実の体格が、僅かであっても利休役より長身というのは、秀吉役に配された俳優さんからすれば、誠に酷な話。これ以上は望めぬほど、利休居士に相応しい当代きっての歌舞伎役者と、対峙せねばならなかった大森南朋さんは、御自身の身長にも苦戦なさっておられたのでは?と、つい銀幕の裏側を拝察してしまう。

加えて物語の佳境で、白刃を交える如き遣り取りを主客が交わすのは、好悪に関わらず膝突き合わせねばならぬ、狭い佗茶の席。カメラワークで案配を工夫する術も無い。そこを敢えての配役ならば、受けて立った俳優の意気に感じて、脚本で思い切った加勢をして差し上げても良かったのに、と埓もない事を考えてしまった。

年初に観た映画を今頃になって思い出したのは、同じ時代を描く『軍師官兵衛』第31回「天下人への道」で、荒木村重役を務めた田中哲司さんの主役を遙かに凌ぐ高身長(岡田准一くん、ゴメンナサイ!)を、むしろ大胆に活かしたカメラワークが、鮮烈な心理描写、そして主人公の未来を暗示する演出となっていたから。

果たして第33回「傷だらけの魂」は、
“荒木村重”回と称すべきか、“田中哲司”回と讃すべきか!

主君を裏切り、朋友を陥れ、一族郎党を捨てて、意地汚く生き延びた煩悩からも逃げ続け、刀を捨て、剃髪して、茶道に専心しながらも救われぬまま、開き直ったように官兵衛の眼前に立ち現れる忘恩の徒。その浅ましさを『乱世が生んだ化け物』と自嘲する台詞は、魁偉な役者さんが吐いてこそ、凄みが増すというもの。

今は関白の御伽衆・道薫として奉仕する村重に、未だ秀吉になびかぬ茶々が、城を捨てた懺悔話を所望するという筋立ては、ヘロデ王に預言者・ヨハネの斬首をねだったサロメを彷彿させて、正に劇的!脚本もまた、裏切り者の難役に挑む俳優の意気に応え、渾身の趣向を凝らしていたのが、観ていて大変心地良かった。

映像美だけ、あるいは主役だけが突出するのではなく、登場する各人の見せ場を丁寧に工夫する有り様は、『人は殺すよりも使え』という軍師自身の生き様にも似て……企画意図にも合致した好感が持てる制作姿勢に、今後の展開も期待したい。


2014年8月25日月曜日

呪縛の読書感想文

以前、『三度の飯より』と題して綴った次第で、同年齢の子達に比べれば、文章の“在庫”はそれなりに多かった。

親に促されて自分でも詩のようなものを作り、新聞の地方版に幾度か掲載して戴けたこともあって、小学校に上がった時には、すっかり散文書きが得意なつもりに。

春の遠足を主題に、生まれて初めて書いた作文は、冒頭『先生!』と担任への呼びかけで始まる、大人へ媚びた演出が満載の、思い返せば顔から火を噴きそうな(違)代物だった。我ながら小賢しさが鼻につく、イヤな子どもである。

とは言え当の担任は、私の「先生って何歳なんですか?」という、これまた今思えば失礼極まりない問いにも「百歳だよ(ニヤリ)」と返す、茶目っ気たっぷりな女性で。

いつも鷹揚かつ丁寧に、幼い知恵を精一杯絞った文章へ、大小の花丸を賑々しく大盤振る舞い。私が得意げに鼻の穴を膨らませつつ、返却された原稿用紙に見入る様子を、優しい笑顔で見守って下さっていた。

しかし先生のお心遣いは、母の親バカを全開させる事態に至る。夏休みには鼻息荒く、読書感想文の課題図書だった『モチモチの木』を読むよう、申し付けられた。

大胆にして研ぎ澄まされた描線と、素朴にして洗練された彩色の挿画に、朴訥な語り口と単純な展開を装いつつ、巧みな場面構成で読者を魅了する本文が配された絵本は、今にしてみれば、滝平二郎斎藤隆介両巨匠の最高傑作だと思う。

とりわけ、斎藤先生にしては珍しく、説話めいた予定調和や教訓を一切排除したプロットが、人里離れた峠の猟師小屋でつましく暮らす、祖父と孫の情愛を趣深く描出して、誠に素晴らしい。

しかも主人公は『女ゴみたいに』色白で臆病な5歳の少年・その祖父は64歳にして『岩から岩への とびうつりだって』やってのける現役猟師・終盤には頼もしいお医者様まで登場!てな具合で、脱線恐縮だが現在なら個人的萌えポイント満載w

然りながら、当時はとにかく文字に餓えていたから、呆気ないほど短い上、劇的とは言い難い物語に、妙味を見出すべくもなく。何より生意気盛りの私には、年少組でとっくに卒業した筈の“絵本”を、強いて読まされたことが不服でもあった。

気乗りしないまま書いた文章は、当然、母親からケチを付けられダメを出される。
斯くして私は、作文が得手なのに「読書感想文だけは苦手」という呪縛を受けた。

さて、夏休みもいよいよ最終週。

読書感想文にお悩みの、お子様・保護者の皆様におかれては、如何なる名作であっても好きにはなれぬ本を、ゆめゆめ課題図書にはなさいませぬよう。感想を書く当人が愛読できる本を選ぶことこそ、呪縛を封じる唯一の護符でございますゆえ……


2014年8月24日日曜日

憂い無き備えのために

個人の実体験は通用しない『記録的な豪雨』に対して、
自衛のために備えを講ずる、きっかけになれば……

そんな思いで、気象庁ドメインで提供されてる『高解像度降水ナウキャスト』
のリンクを、左サイドバーの“毎度お世話になってます”に常設してみました。

気象庁が全国20箇所に設置している、気象ドップラーレーダーによる雨量観測網は、局地的な大雨の観測精度向上を図るべく、平成24〜25年度に機器を更新。
その結果、観測データの距離方向解像度が、500mから250mに改善しました!

更に加えて、気象庁・国土交通省・地方自治体が保有する全国の雨量計、ウィンドプロファイラやラジオゾンデの高層観測、国土交通省のXバンドレーダによる雨量観測情報も活用し、降水域の内部を立体的に(<ここがスゴク画期的!)解析。

250m解像度の降水分布を、30分先まで予測できるようになったのが、
高解像度降水ナウキャストなのです!!!

って、こちらのページにある解説を抜粋しただけの、受け売りで恐縮ですがw

極めて微力ながら、転ばぬ先の杖ならぬ、“降られぬ先の傘”
あるいは“被災せぬ先の避難”に繋げて戴けますと幸甚です。


2014年8月23日土曜日

白牡丹の結縁

「白牡丹」と称される中国茶がある。

そう知ったのは、昨年2月。何年か前に娘の所望で買った『決定版 お茶大図鑑』を開き、工藤佳治先生が監修なさった中国茶の章を、ぼんやり眺めていた時だ。

「香港で人気の高いお茶」

その明瞭な一文に、心惹かれた。続く解説に、聯想が羽ばたき始める。「透明感のある上品な甘さ」「さっぱりとした味わい」「ストレス解消や鎮熱作用」……

六大茶類」の一つとされながら、主な産地は福建省に限られ、生産量も少ないという白茶。代表的な銘茶に挙げられる一芯一葉摘みの「白毫銀針」より格落ちの、一芯二葉ないし一芯三葉(本来は「寿眉」だが「白牡丹」と銘されることも)で作られるが、揉捻を行わないため茶葉そのままの姿で出荷され、細かく砕けやすい。

市場に出回る量が少なく、扱いに注意が要るのに高くは売れないゆえか、行き付けの茶荘では見掛けたことが無かった。しかし、彼方此方とネットの情報を検索してみると、香港人達が日常愛飲している様が、髣髴として空想を刺激する。

彼の街に住まう人々にとって、至極ありふれた“普段着のお茶”……その製造工程は、摘み取った茶葉を放置して萎れさせ、若干の発酵を促した後、乾燥させるだけで、中国茶としては異例と言って良いほど、簡素なもの。むしろ、ドクダミゲンノショウコを生薬に仕立てる手順に近く、原初的な製茶法なのかと思わせる。

なのに、作られ始めたのは意外にも、1920年代の初頭。

そして大戦や革命の都度、生産を中断しながらも、香港で愛され続けている。

そう知った時、まるで“和了”に必要な全ての手牌が揃ったかのように、幾つもの場面を展開しながら、妄想の天空に出現した雲を衝く蜃気楼の如く、とある二次小説の構想が瞬く間に立ち上がった。

その楼閣が幻と消えぬうち、早う早う……と得体の知れぬ何かに急き立てられ、この1年程で書き綴った文章が、合算すれば9万2千余字の連作となっている。まとまった量の散文を書くのは、実のところ大学以来。自分の裡の何処にこれほどの“滾り”が潜んでいたのかと、我ながら呆気に取られるばかりだ。

然れど、そこに至れたのは勿論、物語世界・登場人物の拝借をご快諾下さった原典作者様と、ご愛顧下さっている読者のお嬢様がたが在ってこそ。

奇しくも作者様御用達の茶荘にて、実物の「白牡丹」との邂逅が叶った良縁と併せ深謝を捧げるべく、ブログ開設 50件目の本記事を謹んで啓上致します。

横濱中華街の中国茶専門店・悟空の「白牡丹」
白毫少なめで寿眉に近い感じですが、茶葉の色が誠に鮮やか!
綺麗な翡翠色は丁寧に製茶された証、だそうです。
ふんわり甘い香味と爽やかな喉越しが暑気払いに最適v

2014年8月17日日曜日

感覚の囚人・共感の達人

5月に公開した記事で、サヴァン症候群の画家・スティーヴン・ウィルシャー山下 清について試みた、以下の考察。その答え合わせとすべく、綾屋 紗月 氏『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』を、先月読了した。

***引用開始***

二人の『天才画家』は、本来、言語を習得し、知能を発達させ、社会性を獲得すべき乳幼児期に、過ぎるほど敏感な視覚で、その脳を謂わば“占拠”されてしまった結果、心理的機能の発達に障害を抱える事になったのだ、と思う。

殊にスティーヴンは、凡人の努力では到達し得ない傑出した映像記憶を、“異能”として天から与えられた代わりに、言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、ほぼ完全に逸してしまった。

***引用終了***

引用箇所で展開したのは、オリヴァー・サックス『火星の人類学者』の第六章「神童たち」で詳述している、少年期から青年期のスティーヴンについて読んだ限りの私見だが。その主旨は、

自閉症スペクトラム当事者の、特性の起源は感覚の違いにあり(Step 1)
とりわけ視覚過敏が、心の発達&脳の機能様式の違いを生んだ(Step 2)

という仮説である。より具体的に詳述すれば、

『過ぎるほど敏感な視覚』で感受した『映像記憶』情報により『脳を“占拠”されてしまった』(Step 1)結果、『言語習得に必須な意味記憶と、知能発達に不可欠なエピソード記憶、そして社会性獲得の端緒となる共同注視の発現を、逸してしまった』ゆえ『心理的機能の発達に障害を抱える事になった』(Step 2)

となる。従来は、自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder、略称:ASD)当事者の付帯的特性と解釈されてきた感覚過敏こそが、むしろ主訴ないし診断基準とされてきた心の発達や脳の機能様式の違いを生む“起源”なのでは?との発想だ。

驚いたことに私の素人考えは、『発達障害当事者研究』の前半で綾屋氏が展開している論旨に、ほぼ一致していた。特にStep 1は、『視覚』を【感覚】に/『映像記憶』を【身体内外からの情報】に/『脳を“占拠”されてしまった』を【感覚飽和】(【】内は綾屋氏の用語)に置換すれば、ピッタリ合致する。

感覚過敏こそが“起源”との発想に、「方向性は正解。視覚だけでなく、感覚全体に拡大してもOK」との“答え合わせ”を、当事者研究の第一人者から戴けた訳で。妄想深読みの面目躍如である。

Step 2については、スティーヴンが言語・知能の発達に深刻な障害を抱えた、カナー型と旧称されるASDであるのに対し、綾屋氏は、言語・知能の発達に遅れが無い所謂アスペルガー型との診断を受けており、一概には対照できない。

とは言え、綾屋氏曰く【感覚飽和】、すなわち身体内外から【細かく大量に】感受してしまう【感覚情報】で『脳を“占拠”されてしまった』ために、意味記憶エピソード記憶を獲得するプロトコルは、定型発達の常法から大きく逸脱していたと拝察される。

にもかかわらず、言語的論理思考が優位かつ傑出しており、全く新たな視点で発達障害当事者研究という分野を切り拓く所以となった。やはり彼女も、天から賦与された“異能”の持ち主と言えるだろう。

一方、『社会性獲得の端緒となる共同注視』に関しては、“視線”の共有のみに留まらず、【間身体性による動きの共有】に範囲を拡大して議論されている。

【感覚飽和】ゆえに【身体内外からの情報を絞り込み,意味や行動にまとめあげるのがゆっくりな】ASD当事者は、社会の多数派である定型発達者との【動きの共有】が困難であるため、【心理感覚の共有】ないし【場の共有】に支障があり、結果として『心の発達や脳の機能様式の違いが生じる』との解釈だ。

ザックリまとめればStep 2も、発想のベクトルは合致。ただし『視覚過敏』に限定せず、更に【感覚飽和】へ拡大した上で、『共同注視の発現』だけでなく、もっと包括的な【間身体性による動きの共有】に支障があるために、定型多数派との【親しさ・共同性】の構築に困難が生じると理解すべき、という“答え合わせ”になった。

神経科学も発達心理学も、ましてや小児精神神経学も、専門ではないけれど……

身体内外の感覚をひたすら受容するのみで、不快を感じれば泣いて訴えるだけだった新生児が、視力・聴力が発現し始めるにつれ、他者の視線を目で追い声に耳を傾けて、自らも応えるようになっていく。

そんな我が子の成長を身近に観察し、体感出来た知見を手懸かりに、ASD当事者の『過ぎるほどに敏感な』感覚こそが、幼い『脳を“占拠”』して他者への“共感”の萌芽を阻害する、発達障害の“起源”なのだと気付けた。

元実験研究者の面目躍如、と言いたいところだが。実は、さほどの難事ではない。【心理感覚の共有】あるいは【場の共有】、すなわち想像力で他者と【親しさ・共同性】を構築することは、定型発達者なら誰でも容易く成し遂げられる筈。

『過ぎるほどに敏感な』感覚が受容する【細かく大量】な【身体内外からの情報】で『脳を“占拠”されて』しまう【感覚飽和】が、如何に難儀な【場】か……

「見えない障害」と称されるASDであっても、その“感覚の囚人”たる【心理感覚】を、想像することによって共有し、当事者に寄り添う“まなざし”を備えた【親しさ・共同性】を以て彼らを理解し支えることは、“共感の達人”たる定型発達者こそが、発揮すべき“異能”なのだから。


2014年8月14日木曜日

A Lovely Happy Ending

先日レビュウさせて戴いた、『死刑執行人サンソン ― 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』を通読中。フランス革命史にドップリ嵌まってた折りも折、娘の同級生が、東京宝塚劇場で上演中だった宙組の『ベルサイユのばら』を観て来たそうで。

多感な(?)小学生だった頃、いわゆる“昭和ベルばら”の洗礼を受けた世代。
俄然当然、相方共々、その当時の話題で盛り上がります!

『空前のタカラヅカブーム』と称された時代で、テレビの劇場中継番組が何度も放映されてましたし。原作も、単行本各巻のタイトルや(『燃えあがる革命の火の巻』とか『いたましき王妃の最後の巻』とか)名台詞を(『文句があるならベルサイユへ…』とか『そのショコラが熱くなかったのを…』とか)覚えちゃう位、読み耽ってました。

なのに京都住まいの数年間、一度も「宝塚大劇場へ行ってみよう!」という話にならなかったのは、全くの“一見さん”、しかも未だ学生・院生の身分では、高嶺の花に思えたんですよねぇ、たとえ関西在住でも。

東京宝塚劇場なら、もう少し敷居が低い&今なら、オンラインでチケットを買える、とは言え。やっぱり、先達が欲しい……と二の足を踏むのは、歌舞伎やオペラに通ずる所があります。

あ、娘の級友は母上が“ヅカファン”で。イイですよね〜v 親子でタカラヅカ!
「観に行くなら、阪急乗って大劇場よねぇ(ウットリ)」てな憧れもあったり。

“人生の折り返し点”を過ぎちゃった小母ちゃんの,複雑なアンビバレンスw を埋めるべく、まずは週刊朝日の書評で見掛けた『ヅカメン! お父ちゃんたちの宝塚』を読んでみました!

月・花・雪・星・宙、そして専科の、各組に因んだ6話オムニバス構成。
語り手はいずれも、人事異動でやむなく、あるいは娘 or 妹の志望で思いがけなく、それまでは全く興味が無かった“タカラヅカ”に、気の進まぬまま深く関わらざるを得なくなった男性達です。

《以下『ヅカメン! お父ちゃんたちの宝塚』のネタバレ御注意!》

2014年8月9日土曜日

汝、殺すなかれ

質問:あなたが手にしたことのあるもっとも貴重なものは?
回答:字義通りに考えれば……
   己の生命を超えて『貴重なもの』は、他に無いでしょう。

質問:どうして人は殺しあうのでしょうか?
回答:Homo sapiensが進化する過程で“同種同士、殺し合える方が生存に有利”
   な選択圧が掛かったからですよ?更に“同種同士、殺し合うことを禁忌
   とする方が生存に有利”な選択圧が掛かったから、上記の疑問も持てる
   ようになった次第。あれ、これって常識じゃ無かったっけ?

ask.fmのアカウントで、こんなメタ認知トレーニングに興じていた先月。予て気になっていた『イノサン』の作者・坂本 眞一 氏が、“歴史出典”となさっておられる『死刑執行人サンソン ― 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』を読んだ。

応報論であれ、予防論であれ。死刑が刑罰としての有効性を発揮し得るのは、人間が己の生命を『貴重なもの』と認識しているから。そして、その極刑を執行可能なのは、人間が『殺し合える』と同時に『殺し合うことを禁忌とする』からこそ。

殺し合うことが禁忌でなければ、法の下に死刑を執り行う権威を、国家は担保出来なくなる。従って刑の実行者たる処刑人は、国家、あるいはその所有者たる絶対君主と並び立つ権威を帯びぬよう、蔑まれ嫌悪され忌避されることが必然だった。

著者の安達 正勝 先生曰く、「ひと昔前までは『しょせん、死刑執行人が書いたものなのだから』あまり信頼に値しないという雰囲気があった」らしい、『サンソン家回想録、七世代の死刑執行人』の記述へ依拠した本書。

扉から参考文献リストまで含めても、僅か253ページの新書でありながら、アンリ−クレマン・サンソン(『イノサン』の主人公“シャルロ”の孫)が執筆・刊行した、全6巻に渉る上記回想録を縦横無尽に読み解き、四代目当主・シャルル−アンリ・サンソンの数奇な生涯を、鮮烈かつ濃密に描出している。

また、一個人の評伝ではあるが、フランス革命という世界史的大事件と、死刑制度ならびに死刑執行人の変転をも、明解に叙説する進取果敢な良書でもある。従って、並みの伝記とは異なり、時系列を自由自在に渉猟する。

池田 理代子 先生『ベルサイユのばら』で“歴史出典”となさった、シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』は、後に歴史上の重要人物となる、しかし当時は平凡だった者同士が、偶然としか言い様のない、されど回顧すれば運命的な、邂逅を遂げる一瞬こそツヴァイクの醍醐味、と旧い訳者が賞賛していたが。

安藤先生も素晴らしく美味なる邂逅を、二度三度と叙述する。如何にもフランス人らしくハンサムでダンディー、けれど敬虔なカソリックでもある青年が、死刑執行人の家に生まれ付いたが為、苛烈な宿命へ絡め取られていく様を、膨大な回想録から選り抜いたエピソードで、活写して余す所がない。

《以下『死刑執行人サンソン ― 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』のネタバレ
  『イノサン』の妄想深読み(当たってたら、ネタバレかもよ〜)御注意!》

2014年8月6日水曜日

自死を選んだ先達へ【追補】

高潔な人格と高邁な知性を備えた『かけがえのない科学者』が、不正論文を巡る渦中で自死を選択した事件は、残念ながら初めてではない。

彼らはいずれも、科学者の矜恃を失った上司の不足を補い、未熟な後進を庇い続けた果てに力尽き、遂には希死を念慮する。報道の多少は些末な問題で、事の経緯を理解もせず騒ぎ立てるだけの衆愚に、翻弄された訳ではない。

真理を探求するに相応しい、高度に研ぎ澄まされた自身のメタ認知能こそが、己の過誤を責め立て如何なる瑕疵をも赦さないゆえの自死だ。


***


笹井 芳樹先生は、疑惑の調査が進みつつあった3月の時点で、早々に上長へ副センター長辞任を申し出た。更に、論文撤回が事実上確定した6月以降は、自らの辞職と研究室の閉鎖を覚悟し、メンバーの再就職先等を探していたとのこと。

指導していた研究員や大学院生の、就職先を探し、これまでの研究を論文にまとめさせ、学会発表の準備をさせている最中。

怜悧且つ厳正な彼は、気付いてしまったのだ、と私は思う。

再就職の推薦者や、論文の責任著者や、学会の共同発表者として、
自分の名を記すことが、むしろ後進の将来を曇らせてしまう事実に……


***


3月下旬以来、『そんなオカルト』『O嬢の物語』『皇帝の新しい服』『理系女子ですが、なにか?』と4回に渉って、STAP細胞論文を巡る“騒動”に対し、持論を公開してきたが。各種報道で“黒幕”とも“首謀者”とも非難されてきた笹井先生に、敢えて触れなかったのは故意である。

もう20年近く昔、ほんの数ヶ月のことではあるけれど。
笹井先生と御家族から、個人的な御厚意を賜ったから……

僅かであっても、私情を交える懼れがある事象には、公の言及を避ける。

学生の頃から習い性となった、科学者としての怜悧且つ厳正な矜恃ゆえに、(元より何の力にもなれない、私自身はさておき)実験研究に携わる朋友達は彼から遠ざかり、孤立を一層深めてしまったのでは、とも拝察している。


***


自身の存在意義に疑念を抱いてしまった彼が、高潔高邁なお人柄だったからこそ、
感じて、考えて、選んで、決意したことを、私は決して、否定しない。拒まない。

笹井先生が御自身に下した処断は、真理の探求に相応しい怜悧厳正なメタ認知を、
事件の渦中に在って尚、保持していらした旨、一点の曇り無く証する結論だから。

ただ、御家族の無念と朋友達の慚愧を思い遣り、
ひたすらに、その死を深く静かに哀悼するのみ……


2014年8月1日金曜日

毎月一日は…

各巻いずれも、美味しいもの満載な『百姓貴族』。殊に第3巻の“28頭目”は、小豆あん大好きな私めにとって、至福の一話でございました!って、“甘いものは別腹”と申しますし(違)、本日もレビュウは微妙に継続中ですw

小豆レシピとして真っ先に、「荒川さん」が挙げていらした『カボチャぜんざい』は、クックパッドでもお見かけしますけど(カボチャを『イモだんご』と同じ要領で団子にすれば、煮崩れの心配無し&モチモチ食感も楽しめますv)。

庶民はおせち料理にしか使えない、あの“高級食材”を惜しげもなく、
普段のおやつに戴くぜんざいへ、しこたま投入してしまうとは!!!

『百姓貴族』様ならではの、全く予想外な衝撃&超絶うらやまレシピ……その美味なる様を妄想しただけで、ウットリしちゃいました〜vvv って、“高級食材”が一体何なのか?お知りになりたい向きには『百姓貴族』第3巻、安定のお奨めです!

然りながら、「荒川さん」が描いておられるように、小豆の旬は秋。
そして、如何な小豆あん好きでも、真夏にぜんざい炊くのは暑苦しい。

なので専らこの時期は、本日のお題『毎月一日は…』の続きを、『あずきの日』と定めてらっしゃる井村屋さんの、『あずきバー』を賞味させて戴いております。

一見割安な、他社類似品もありますが。さすがは小豆を知り尽くした元祖、“純正品”は緻密な味わいが素晴らしく深い。そして、“赤いダイヤ”と称された昔ほどではありませんけど、天候による価格変動が大きい小豆を、妥協無くタップリ投入して下さってる訳で(実際、昨年の一時期は品切れしたことも)。

小豆あん好きにとっては、むしろコスパが良い!
それに、ぜんざいはウチでも炊けますが、更に家庭用冷凍庫で『あずきバー』自作するのは、結構しんどそうですしw(ヒント:凝固点降下)。

今年の夏は、安定供給を切望。そして末永く、愛好させて戴きたい一品です。