2014年9月30日火曜日

武侠小説入門!

「てことは、室町から安土桃山江戸初期、江戸初期から明治でOK?」
「まーね、大雑把には」
「をを〜、なるほど!」

共通一次を世界史で受けて以後(センター試験には非ずw)、すっかりご無沙汰だった中国史を娘相手に復習しつつ、満を持して金庸御大『碧血剣』を読み始めた。

つまり日本では足利義政公が、むしろ仁徳ゆえに思うに任せなかった国政を厭い、自身の嗜好に耽溺して応仁の乱を引き起こし、それを端緒に下克上の世へ突入しちゃった一方、美意識だけはヤタラメッタラ先鋭化して、宋から伝わった茶湯が唐物数寄の書院の茶、更に佗茶へ発展していった頃。

大陸では、洪武帝の文人大弾圧で宋代以来の美意識が廃れた上、歴代の暗君が行った独裁的な恐怖政治で世が乱れ、勘合貿易のお得意様が寄越した南宋青磁の逸品に、不粋な楔を打って突き返すようになっちゃった一方、武芸武術だけはムチャクチャ先鋭化して、各地方の郷紳が権力を振るうようになった、という“設定”ですね!

確かに日本の歴史小説も、人気があるのはいわゆる乱世な戦国時代から江戸初期、もしくは幕末から明治維新だしなぁ……

という理解で宜しいのか、日本語訳の監修をなさった岡崎由美先生の総説『漂泊のヒーロー —中国武侠小説への道』を、都度参照してみたり。

そんな右往左往も楽しく、第1巻「復讐の金蛇剣」をゆるゆると読了。

物語は、主人公たる袁承志青年が、修行を終え華山を降りて早々に、とある奇縁奇遇を得た顛末すなわち、彼の兄弟子に当たる黄真先生曰く『石樑で店開きしたとたんに大儲け、まことにめでたい』一件落着を見た所までしか進んでいないが。

岡崎先生が解題して下さった金庸作品の魅力すなわち、『凡庸な作家なら、数作の長編に分けてしまいそうな趣向を』『惜しみなく一作に盛り込んで』、読み手の“在庫”に応じた『好み次第の読み方ができる』所以が、既にして垣間見える。

冒頭、大陸から遠く離れたブルネイ王国に、とある華僑の一族が高官の職を得るに至った由縁を簡潔に説くくだりや、当時の世情に昏いモブキャラ視点で稿を起こす気配りは、俄然、司馬遼太郎御大の語り口を想起させるし。

名将の遺児が、亡父を慕う旧臣・盟友の助けで辛くも危難を脱し、深山高峰に匿われて秘かに武芸の修行を積む、というドラマツルギーは古今東西お馴染みだが。

思いも寄らぬ経緯から、稀代の剣客とうたわれた武林の奇俠・金蛇郎君との因縁を結ぶ次第は、伝奇小説も斯くやという凝った趣向。それでいて、男女の機微はあくまでも、純情可憐な少女マンガをも思わせる筆致だったりw

烏滸がましくも拝察すれば、金庸先生は“在庫”が素晴らしく豊富なだけでなく、あらゆる人事の本質を鋭敏に見抜く慧眼を備えて居られるのだろう。更に妄想深読みをお許し戴けるなら、袁承志青年のキャラクターをつらつら鑑みるに。

生真面目で誠実・礼儀正しく謙虚・年長者からの受けが極めて良い一方、女心や世間には極端に疎い“設定”は、本作執筆の数年前に大陸で誕生したばかりだった(そして自分を外交官として採用するよう申し出た、査良鏞青年をけんもほろろに断った)中華人民共和国を、ひょっとしたら隠喩してるのかも?という気がしてくる。

さて明日は、彼の国が建国65周年を寿ぐ国慶節

第二の故郷たる香港で、民主派の大規模デモに対し、政府が強制排除すべく催涙弾を使用し、祝賀の花火大会も中止せざるを得なくなった様相を、卒寿をお迎えになった金庸先生は、如何なるお気持ちで御覧なのだろうか?


2014年9月24日水曜日

夏の思い出

8月に生まれた娘の誕生日は、例年、夏休みの真っ最中。鉄分多めの相方からは夏の旅行を、私からは道中に読む本を贈るのが、いつしか誕生祝いの習いとなった。

時々、車窓に目を遣りながら小さな手で紐解く本が、児童書から小説へ変わって、はや幾年。今年は遂に、彼女の方から「忙しいから遠出は無理」と旅行を断られ、代わりにトーハク「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」へ行こう!と纏まる。

美術は大の苦手だが、史記・三国志クラスタなので同行するか…と思われた相方は別件が入って、娘と二人、鶯谷駅の南口から炎天下の新坂を上る。敢えて上野で降りないのは、混雑を避け目的地へ速達する、お馴染み“急がば回れ”のアプローチ。

坂上に設けられた墓参者目当てのタクシープールを横断し、職員通用門を横目に正門へ向かって辿るのは、彼女が小学校へ上がる前から通い慣れた、人通りの疎らな舗道。訪れた日は、楠並木の梢から降ってくる蝉時雨が、殊の外、賑やかだった。

***

「あの人は相変わらず、やりたい放題だねぇ」
「でも当時の所有者は、皇帝だったからねぇ」

特別展を堪能した後、敷地内のレストランで遅い昼食。他愛ない会話の主人公は、昨年観た「上海博物館 中国絵画の至宝」展以来、母娘揃って一方的に親近感を抱いている、乾隆帝こと愛新覚羅弘暦陛下である。

如何なる『神品至宝』であっても、余白があれば御名御璽だけでは飽き足らず、自作の漢詩を讃として書き込みまくり、時には、若い頃に献じた頌詞を、後年、削除・改訂までなさっていた、マニアックな御仁だ。

「“持ち物には名前を書きましょう”的なw」
「“見ましたハンコ+ひとこと”みたいなw」

叶う事ならトーハクの“中のヒト”になりたい、と志している娘。将来は台北や北京の博物院まで、満洲族でありながら、漢族伝統の文物を蒐集かつ溺愛しまくった『十全老人』が、故宮に遺したコレクションを観に行きたいらしい。

***

午後も、娘の希望で“総合文化展”を観る次第となった。まずは、お気に入りの東洋館から、特別展に合わせて企画された、特集展示「日本人が愛した官窯青磁」へ。

金繕いが施され口縁に覆輪が嵌められた、南宋官窯の逸品『青磁輪花鉢』。完形としては世界に4点しかない稀少な米色青磁や、川端康成が愛蔵した端正な青磁盤。生産窯不詳ながら、印象的な造形と深遠な釉調の美しさゆえ国宝となった『青磁下蕪瓶』と並んで、全く思いがけない事に、その茶碗があった。

『青磁茶碗  銘  馬蝗絆』

足利義政が蔵していた折の逸話は、どこかで読んだ覚えがある。けれど、まさか実物を目の当たりに出来るとは……半ば呆然としながらも、六弁の花びらを象った優美な口縁の造形と、釉薬の濃淡が織りなす円やかな景色に、心を奪われる。

ひび割れを繋ぎ留める鎹から滲み出た、錆色を認めた刹那、一つの天啓が閃いた。
娘が自分の将来を期しているのは、義政公も生涯追求し続けた、数寄の道なのだ。

すなわち、愛蔵の品に無様な鎹を打たれて突き返されても、猶。立腹するどころか、美を解する心を喪失した彼の国(当時の王朝は)の不幸を憐れみ、大きなイナゴ(馬蝗)が襲来した天災と見立て、以前にも増して慈しむ在り方。

両親が志した自然科学とは、合理の様式が異なるだけ。この世界の多様性を愛おしみ、そこに隠れされた理を探究する真髄に、相違は無いのだ。

そして、良く言えば磊落、有り体に言えば暢気に過ぎる彼女の性分は、案外、その道に向いているのかもしれない、とも思う。

親バカなのか、バカな親なのか……多分、両方だけどw
見守ってやるしかないなぁと、妙な所で腹を括ったのが
今夏最高の思い出と、なってくれますように。


2014年9月20日土曜日

日常の奇譚

先月は、昨年来、愛読させて戴いている『書生葛木信二郎の日常 —黒髭荘奇譚—』第7集が発売され、やっぱり欣喜雀躍中でしたw

こちらの奇譚、主人公は小説家になる志を抱いて帝都に上って来た、京都帝大卒の書生。時は上野公園で東京府主催の博覧会が度々催され、浅草には通称「十二階」こと凌雲閣が聳える、大正の御代です。

年端も行かぬ13歳ながら、良く出来た頼りになる少女メイドとも、
下町商店街のメイド喫茶でバイト中な、探偵志望の女子高生とも、
一見、全く共通点は無いような……

メイドポジション&『服だけメイド』なキャラは登場しますけど。
信二郎自身は残念ながら(?)、メイド服は着用してくれませんしw

あ、申し遅れましたが、奇譚の主人公たる最重要属性は、小説家志望でも帝大卒の書生でもなく。妖怪を見知し妖気を感知する力、すなわち“見鬼”だったりします。

小説家志望とか書生とか見鬼とか……東京都西部の古い木造家屋にお住まいな民俗学専攻の大学生および彼のお祖父様を、僭越ながらウッカリ想起してしまう設定w
ですが個人的には、葛木のお祖母さまから中途半端に受け継いだ“常ならぬ力”そのものが、“奇譚の日常”の由縁って訳じゃあない、と思うのです。

何故なら信二郎は、自分の力が及ばぬ事を再々慨嘆しながらも、否応なく見えたり感じたりしてしまう妖異を、決して奇怪なるものと恐怖したり忌避したりはしないから。あくまでもヒトでありながら、人事の外に棲むモノ達を、在るが儘に受け容れ、維新開化が成って久しい世でも、共に幸福である事を何より優先する。

あやうい奇譚をも、ホンワカした日常に変えてしまう。

そんな底の知れない包容力こそ、シャーリー・メディスンにも嵐山歩鳥にも相通ずる、“奇譚の日常”の主人公・葛木信二郎の魅力!だと思うのです。

更に加えるべきは、描き手に溺愛されまくった挙げ句の、“やられキャラ”っぷりw
シャーリーも歩鳥も信二郎も、のび太くんも斯くやの不運に見舞われ続けてます。

そして物語の共通項は、過去と未来の邂逅ゆえに生まれた、稀有なるあたたかい日常を、終幕の後、愛惜すべき奇譚へと転ずるであろう、“破局”の予兆。

19世紀には珍しくなかった13歳のメイドと、20世紀を象徴する自立した女性。
商店街の過ぎ去った日々を、気儘な時系列で愛おしく懐旧する未だ来ぬ日々。
江戸の昔なら誰もが信じていた妖異と、維新開化の果てに変貌を遂げた東京。

折々の不運で主人公を散々翻弄しつつも、優しく包み込んでくれる幸福な、過去と未来が交錯する物語の裡に、来たるべきcatastrophe…女主人の結婚や、商店街の凋落や、大正関東地震による帝都壊滅…が然りげ無く、しかし揺るぎ無く示唆され続けているからこそ、彼らの日常は奇譚として一層の輝きを放つのだ、と思うのです。

さて、11年越しで第2巻が発売された『シャーリー』は言うに及ばず、第12巻・第98話を数える『それ町』でも、未だcatastropheは描かれていないのですが。『書生葛木信二郎の日常』がデビュウ作となります作者様に於かれては、サンデーGX10月号掲載の第47幕・11月号掲載予定の最終幕にて、果敢にも“奇譚の破局”に挑戦中!

その妙味の解題は、次回を乞うご期待!!! という次第で……
最終幕を拝読するまで、如何なる主旨で展開するのか?! 筆者にも皆目予想がつかないレビュウ連載第3回は、10月20日ごろ掲載予定です。

>>第1回『奇譚の日常』を読む
>>第3回『日常の偶然・必然の奇譚』を読む

2014年9月15日月曜日

奇譚の日常【追補】

今月は、長年愛おしく拝読しているコミックスの、単行本が続々発売!
絶賛欣喜雀躍中ですw

以前、文化庁メディア芸術祭 優秀賞を祝して御紹介させて戴いた、『それでも町は廻っている』の第13巻は、約9ヶ月ぶりの新刊! 

とは言え9巻以降、単行本の発行ペースが、概ね年に一回となってましたから。
今年二度目の新刊は、誠に有り難い慶事。

そして先日、Google+共有させて戴いた『シャーリー』第2巻に至っては、なんと11年と6ヶ月ぶりの新刊です! 

作者の森薫氏は、第1巻の「あとがき(&いいわけ)ちゃんちゃらマンガ」で、
『(前略)シャーリーは もう少し 考えていた事が あるので』
『いつかかけたら いいものです』と、述懐して居られましたが。

『いつか』の実現に、11年半掛かろうと。次巻発売が、更に10年後となろうと。
愛読者たるもの、生命ある限りお慕いして参ります所存。単行本を拙宅へお迎えする作品につきましては、そんな覚悟で臨ませて戴いております。

で、Amazonさんへ発注しながら、気付いたんです。
“一緒に購入されている商品”として、『シャーリー』と『それ町』が並んでる事に!

かたや、しっかり者の(作者の『変なスイッチ』が入る)『13才少女メイド!!』
かたや、探偵志望&ツッコミどころ満載な『メイド喫茶でバイト中の女子高生』

共通点はなんだろう?と考え込む事、暫時。
(いや、考える必要無いし。“メイド”だから。というツッコミは、謹んで却下w)

で、“奇譚の日常”なのかなぁ……と気付いたんです。

実は、13歳の少女が新聞の求人広告だけを頼りに、保証人も紹介状も無くメイドとして雇って貰えた事、そして男爵の後妻に相応しいほど『いい家のおじょうさん』が、独身のままカフェの店主として自活している事が、そもそもの奇譚であり。

実は、舞台になってる下町商店街も、メイド喫茶も、学校も、主人公も、友達も、幼馴染みも、先輩も、弟妹も、近所の大人達も、『ドラえもん』の世界を想わせる理想の平凡が、時系列シャッフルに秘やかな懐旧を込めて描かれた奇譚であり。

で、“奇譚の日常”を描いたマンガを愛する諸姉諸兄であれば、必ずやお気に召すこと請け合いなのが、『書生葛木信二郎の日常』なのです!てのが、実は本日の結論。

そして、副題を『黒髭荘奇譚』と銘打った本作が、“日常の奇譚”を如何に活写しているのか?  ついでに、果たして“メイド”な萌えポイントは、何処にあるのか? 

その妙味の解題は、次回を乞うご期待!!! という次第で……
筆者も予想だにしなかった、レビュウ連載スタートですw

>>第2回『日常の奇譚』を読む


2014年9月13日土曜日

Facts and Fictions

映画の方は若干の屈託もあったが、原作の『利休にたずねよ』は、純粋に小説として面白かった。

取り急ぎ地元の公立図書館で借りた、'09年発行の単行本(第1版・第3刷)を読了した次第で、文庫化の折に掲載されたらしい、宮部みゆき先生の解説は未読だが。私にはミステリアスと言うより、極めてファンタスティックな物語だと思えた。

本作の4年後に刊行されたエッセイ集『利休の風景』も、併せて拝読。著者が利休居士の生涯を綴るに当たって目撃、あるいは幻視してきた“風景”を充分に諒解した後、小説の読解へ臨んだから、書き手の意図は重々汲み取れたと自負している。

その上で、作中に横溢する瑞々しいロマンティシズムは、歴史小説というより、むしろ時代小説のそれに近いと感じた。

確かに背景に配された歴史的事件は、史実のとおり粛々と“逆行”していく。そして登場するのは、読者が熟知した(と思っている)歴史上の人物が専らだから、つい惑わされてしまうけれど。

史書には記されていない、彼らの所作や表情、目の当たりにしたであろう光景や、感じ取ったであろう心情を、精緻鮮烈に描く文章の“肌触り”は、いわゆる市井小説を想起させる程に生々しい。

百姓に生まれ付いた『小癪な小男』が、瞬く間に関白殿下まで登り詰めてしまった下剋上の世を活写するに、なるほど相応しい筆致だろう。しかし、歴史小説をこそ愛読なさる諸姉諸兄にとっては、妄想の天空を自在に飛翔する様が異端異形と感じられたようで。Amazonさんのレビューに散見される厳しい批判は、この作品が成し遂げた革新に対する“勲章”なのかも知れない。

だが、あらゆる“事実”は本来、たとえ当事者の証言でも、個人の主観を介し、過去の事件として語られた瞬間、無意識の作為で脚色された“物語”へ変貌するもの。

時代小説のみならず、歴史小説もまた、歴史的事実の“二次創作”。

その大原則を巧みに隠蔽して、語られた事象は全て“史実”であるかのように、歴史小説の愛読者を幻惑し、逆に史実を題材にした小説に於いて、書き手の空想が自在に飛翔することへ、読み手が強い抵抗を感ずる風潮を生んだのは、司馬遼太郎御大の功罪(と、それを原作にした大河ドラマ)に負うところが大きいのだろう。

然れど個人的には、最終章「恋 千与四郎」につき、字書きとしての嗜好の別に過ぎないけれど、僭越ながら異論があったり……

ミステリーなら、謎解きに当たる章。ゆえに著者は客観に徹し、従前とは打って変わった、ひどく冷淡な筆致で“事件”を綴る。

ところがクライマックスに至った“物語”は、書き手の空想が与えた飛翔力を以て、疾うに“史実”の地表を飛び立ち、ミステリーと言うよりファンタジーと称すべき、遙かな天空の頂に達しようという勢い。

ゆえに利休居士が終生密かに想い続けた『女』は、血肉を持った女人としてではなく、五感の天才が畏れ敬い焦がれ続けた『美』の暗喩として、むしろ徹底的に与四郎の主観を介し、敢えて幻想的に叙述されるべきではなかったか?と私は思う。

しかし山本兼一先生が、そうなさらなかったのは、語る力の不足だとは考えない。初出が『歴史街道』の連載なればこそ、長年編集者を務めてきたからこその、バランス感覚であり矜恃だったのだ、と拝察する。

“物語”を志す者として、小説よりも奇なる“史実”に著者が果敢なる闘いを挑んだことは、紛う事なき“事実”として、作品に刻まれているのだから。


2014年9月9日火曜日

仲秋の夜咄

“自宅警備員”な日常ではあるが、帰宅した家族が、慮外な話をもたらす宵もある。

***

娘に持たせた弁当に、入れてやった半熟卵。

時間を計って頃合いに茹で、半分に割ってマジックソルトをはらりと振っただけ。実に他愛の無い惣菜だが、昼食を共にしたクラスメイトが、殊の外、羨ましがってくれたそうで。一切れ分けて上げたら『美味しい!』と感動された由。

哈爾浜生まれの彼女曰く、中国人は半熟卵を、まず、作らないらしい。

卵の大きさに応じて、黄身が色濃く滋味深く、白身が歯触り良くなる、最善の時分を見計らうだけ。それが妙味を最大限に抽き出す調理になるとは、なるほど、大陸には無い発想なのかも知れない。加熱が進まぬよう冷水に浸けてしまうのも、冷えた食事を絶対に受け容れない(娘の学友も、必ず保温ジャーで弁当を持参するとのこと)彼の国の人々には、有り得べからざる料理だろう。

半熟卵を賞味してくれた彼女と、温かい弁当を羨む娘が、いつまでも気の合う友人であってくれると、本当に嬉しい。

***

仲秋の十五夜に、丸い月を言祝ぐのは、我が国のみに非ず

生まれ育った国の違いはあっても、望月を尊きものと眺める心根を、共に分かち合える僥倖を噛み締めつつ、今宵スーパームーンの満月こそ、と心待ちにしている。

半熟卵を十五夜と満月に見立てた『ガッツリ!鶏そぼろ丼弁当』
副菜は、キャベツとニンジンのコマ和え+ジャガイモの煮っ転がし鷹の爪風味

2014年9月7日日曜日

頑張る方向

自分が修めた専門、あるいはraison d'êtreの一部に関わる事案が続いたため、この十日ばかりはGoogle+の方に、敢えて注力してました(あ、メイドテニス色鉛筆画『名探偵ポワロ』関連は、趣味の一環w)。

全般に言えるのは、皆さん一様に真摯である、ということ。

決して不真面目だったり、当初から不誠実を企んでいたりした訳ではなく。“当事者”とされる方達は勿論のこと、客観的には“衆愚”と称されても致し方のない、negativeなコメントを書き散らかしてらっしゃる方達に至るまで。

総じて、御自身が良かれと思う遣り方で、頑張っておられる。

それなのに、全体として好ましい結果が生じていない。
あるいは、明らかに誤謬としか言い様がない事態に、陥ってしまった。

理由は存外単純で、『頑張る』という行為は本来ベクトルであるべきなのに、スカラーだと誤解している方が一部いらっしゃって、しかも少なからぬ影響を状況に及ぼしてしまっているから…と私は解釈しています。

つまり、“当事者”を構成する個々人の『頑張る方向』が揃っていないので、総体として望ましい成果が上がらない、ってことですね。

私自身は常々、一人の人間が感じて・考えて・選んで・決意したことを、自分の評価基準に合わないという理由で、一概に否定したり拒んだりは決してしない旨、矜恃と心得ておりますが。『決意』に相応しい覚悟を伴なわぬ行為、もしくはメタ認知を欠いた主義主張は、個人的嗜好に過ぎないと一蹴させて戴く所存。

その上で、“当事者”の決定権を担うべき方から、糾弾コメントを書き込み続けて居られる方まで、皆々様へ是非お訊ねしたい。

『ウチは別格』という慢心を、矜恃と履き違えてはいませんか?
『頑張る方向』を揃えないのが、革新だと勘違いしてませんか?
明白な誤謬に陥った原因を、他人の所為だと転嫁してませんか?

今日有る状況を他山の石と成すべく、書き留めておきます。