大概の解説は、『傍観者の利己主義』が作品の主題、だとしているけれど……
更に踏み込んで、支援者の「ネガティヴなイネーブリング」まで看破しえた点にこそ、芥川龍之介の天才が現れていると私は思う。
すなわち、不遇に在って自尊心を傷つけられていた主人公・禅智内供が、中盤で一旦は『のびのびした気分になった』ものの、自分を取り巻く『傍観者の利己主義』を感じ取って、より深刻な鬱屈に陥ってしまった際。最も辛辣な陰口を叩くに至ったのは意外にも、内供への同情を動かされ支援を申し出た『弟子の僧』だった……という迫真。
傍観者の『消極的な敵意』は確かに不快だが、ご当人が本来お持ちの能動的な意欲に集中なされば、大きく影響を及ぼすことは無い。実際、禅智内供も『法華経書写の功を積んだ時』にも、同じく『のびのびした気分になった』ご経験をお持ちなのだ。
しかし支援者である筈の最も近しい者が、当事者の眼前に文字通り『ぶら下っている』問題の解決を、助けるように見えつつ却って“難儀”を増悪させる事態、すなわちネガティヴなイネーブリングは積極的な善意が動機だから、実は一層、厄介である。
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内供の“難儀”は、食事の際に少々不便なほど長すぎる鼻、それ自体ではない。
著者が解説しているように、自分だけが特異な“多様性”を抱える疎外感と、奇異の目に晒され続けたゆえの『自尊心の毀損』つまりは“二次障害”が、『鼻を苦に病んだ重な理由』。だから、弟子の僧が同情から施した『長い鼻を短くする法』は、積極的な善意に拠るものだったとしても、問題を解決するどころか一層こじらせちゃったわけで。
互いに最も近しく在るがゆえ、却って当事者と支援者の間に横たわる、深くて大きな心理的乖離を克明に活写しているのが、『長い鼻を短くする法』を詳述した場面。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子(けぬき)で脂(あぶら)をとるのを眺めていた。親切を施されても尚、『不愉快に思われた』のは、理の当然。支援者たる弟子の僧は、当事者たる内供の“難儀”を、人間の尊厳に抵触する『自尊心の毀損』ではなく、より浅薄な、相貌に対する単純な劣等感、と誤解していたのだから。
加えてこの場面は、同情を動かされた支援者が避けがたい陥穽、すなわち親切を施す者の優越感を、巧みに描いて誠に秀逸だ。床板に横たわり己の『皹(あかぎれ)のきれている』足で鼻を踏まれている師匠を、『時々気の毒そうな顔をして』『禿頭を見下しながら』弟子の心を満たしていた感情は、その実、奈辺に在ったのか……想像に難くない。
《以下、芥川龍之介 作『鼻』のネタバレ御注意!》