2018年3月28日水曜日

待てない母 と 伸びない子

「普通」ならこの月齢/年齢では自然とこんなことが出来るようになる、という目安に対し、遅発していることと早発していることの凸凹が極端に大きい……語弊を懼れず端的に言えば、それが「発達障害の徴候」です。

そして、「普通」なら大人になるまでに自然と出来るようになることがいつまで経っても出来ないまま、殊に義務教育以後の学校生活への不適応や、成人していても社会参加できない状況へ陥ってしまった。端的に言えば、それが「発達障害の二次障害」です。

つまり「発達障害の徴候」であるうちに、「普通」のことが自然と出来るようにはなれない「障害」なのだから我が子の成長を引き出すには適切な導きが不可欠だ、と親御さんが考え方を改めて接すれば、「発達障害の二次障害」へは陥らせずに済むわけです。

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しかし現実は、そう単純ではないようです。

第一に「発達障害の徴候」である間は、お子さん自身は無論のこと、親御さんにも病識は無いのが「普通」。仮に第三者(3歳児検診に立ち会った保健師さんや、保育園・幼稚園の先生など)から遅発していること(運動や言葉の遅れなど)を指摘されても、早発していること(計算が出来る・文字が読めるなど)を根拠に「この子は障がい児じゃない」と親御さん方が支援へ繋がる機会を拒んでしまった経緯が、遺憾ながらネットを渉猟する度に散見されるのです。

第二に、とりわけ高機能の自閉圏ですと親御さんの視点からは小学校低学年〜中学年で適応が改善した(言葉の遅れが解消し、学校生活へも概ね順応している)ように見え、「やっぱり、この子は大丈夫だった」と安心してしまうため、結局は思春期以降の「発達障害の二次障害」へ陥って初めて適切な導きが不足していた旨を深く後悔なさる例が絶えません。

その反面お子さん自身は、後にひきこもってしまった当事者さんたちの回顧に拠れば、小学校低学年〜中学年で「自分は みんなと なにかが違う」との病識を感じ始めている模様。生来の五感や認知に凸凹があるため感じていること・考えていることを自分で総括する力が弱く、周りの大人へ自発的に訴えることが難しい結果、親御さんが独り合点なさった安堵とは逆にお子さんは疎外感を募らせていくことになってしまいます。

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とは言えお子さんが小学校低学年〜中学年で病識を得始めるのは、保育園・幼稚園以来の集団活動へようやく慣れ、五感や認知の凸凹でいっぱいいっぱいだった中枢機能に「みんなと なにかが違う」旨を客観できる余裕が生じた証左。自分の「なにか」が自然には「伸びない」との認知が自発しつつある状態ですから、自然には出来るようになれなかった「普通」のこと(日常生活の習慣・作法・家事など)を適切な導きの下で療育する好機でしょう。サポートセンター名古屋の俊介さんが綴って下さった「親の学び」に『最適な期間は小学校4年程度ぐらいまで』というお考えは、斯様な主旨だと拝読しました。

にもかかわらず親御さんの方は、お子さんの認知が自発するのを「待てない」例が多い。実のところ「良いお母さん」に度々お見受けする最大の誤謬は、お子さんの繊細な変化、すなわち「みんな」に比べればゆっくりですが確実な成長の萌芽を「待てない」ことです。お母様が有能であればあるほど「みんなと違うのは かわいそう!」と情緒的庇護に走り、拙速に「正解はこれ。だから、こうしなさい」と親の即断で子どもへ指示するのを我慢叶わない傾向は、辛辣な物言い誠に恐縮ながら指摘せざるを得ません。

と申しますのも、生まれながらに五感や認知の凸凹を抱えるお子さんは、都度の指示に従うだけで精一杯。頭ごなしに「正解はこれ」と単純な学習を繰り返すのみでは、自発的な認知・行動化が妨げられる一方だからです。どんなに時間が掛かっても・手間が掛かっても、お子さん自身が認知して・選んで・行動化するフリーハンドを尊重することが、『自分の頭で考えて、自分の目で見定めて、自分の足を使って 生きる』力を「伸ばす」唯一の方策なのですが、親御さんにも「待てない」事情がある/あったらしい。

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親御さん方が「待てない」ご事情は、ご家庭ごとに千差万別。
あまり具体的に書くと「あぁ、アソコのお宅か」と察しが付いてしまうほど特異ゆえ、詳しい解題は自重させて戴きますが、語弊を懼れず端的に言えば「親の都合」です。

さりながら拙ブログの本旨は、「待てない」事情がある/あった親御さん方を責めることではありません。古今東西あらゆる家庭では「親の都合」が優先されてきた例の方がきっと圧倒的に多数でしょうし、お子さんが思春期以降「発達障害の二次障害」へ陥ってしまったご家庭は少なからぬケースで、「子の都合」すなわち発達障害について正しく知っていたら当然そちらを優先したのに、と親御さん方は後悔なさっておられる。

どのタイミングであっても、「子の都合=発達障害」に対する「親の学び」が全くの無駄という次第にはならないでしょう。『親御さんが考え方を変え』『子どもへの接し方も変わ』れば、たとえ二次障害へ陥った後でもその増悪を防ぎ、障害者雇用という情緒的庇護による当座の救済で、ご家族がひとまず安堵の息をつくことも叶うからです。

けれど障害への迎合でもなく支援への依存でもなく、受容と信頼に基づいた当事者本位の「合理的配慮」で社会の一員として真の適応を遂げるには、メンターによる導きが必須と私は考えています。生来の五感や認知に凸凹を抱えるお子さんへのメンタリングの要諦は、拙速を尊ばず 巧遅を懼れず……繊細な変化、すなわちゆっくりですが確実な成長の萌芽を「待てない」親御さんでは、残念ながらお子さんは「伸びない」のです。
【関連記事】「支援は 続くよ どこまでも」


【補記】「お母さん」と「子」連作として、不定期連載しております。

>>第1回『「良いお母さん」と「悪い子」』を読む
>>第2回『「変な子」と「変なお母さん」』を読む
>>第3回『暴れる子 と『頑張るお母さん』』を読む

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