2015年11月6日金曜日

住まうもの・訪うもの

進駸堂書店員にして本と映画の小粋なコラムニスト・すずきたけし氏が、『WEB本の雑誌』〈横丁カフェ〉で連載してらっしゃるレビュウに心惹かれ、フリーランスのカメラマンにしてマタギ自然塾主催・田中康弘氏の、話題作『山怪』を読んだ。

著者・田中氏は、長崎県の佐世保すなわち港町のお生まれでありながら、主にマタギの取材を目的に、評者・すずき氏は、栃木県の小山すなわち関東平野の宿場町にお住まいながら、ご趣味の釣りで、奥山へ分け入ることを頻繁になさっておられる。

つまりご両人とも、山人が暮らす深山渓谷を「訪う者」でいらっしゃるわけだ。

対して読者である私は、小学3年の冬にすずき氏がお住まいの街へ“下りる”まで、深い谷川の傍に刻まれた杣道を通学路にするような、山懐の町に生い育った。

要は、著者・評者が訪れる深山渓谷の端に「住まう者」だったわけで。お二人が語る処の正体不明な『何か』、すなわち『山怪』と共に嘗ては在ったことになる。

そんな「住まう者」の視点から本書を拝読すれば、著者・田中氏が丹念に綴った『山怪』は、評者・すずき氏が僥倖に感謝した『失われゆく民俗系怪異譚』というより、自身の遠い記憶を呼び覚まし思い起こす『井戸掘りの呼び水』となってくれた。

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昨夏の暑気払いに寄せた拙文で触れたとおり、名付け親が旧い火山を御神体とする正二位の大御神、しかも数え九つまで神奈備で育ったため護りが強く、怪談の持ち合わせは無いと自分では考えている。

つまり『打当集落前山の鈴木進さん』や『比立内の佐藤正一さん』あるいは『四万十川で川漁師をしている麻田満良さん』と同じく、自らは『不思議な体験はまったく無い』と主張する「住まう者」だ。

『山怪』でも綴られている、いわゆる“神隠し”にしても。小猿のように面倒見が良くて敏捷な、けれど遊びに夢中になると年少者をウッカリ置き去りにしてしまう、年嵩の子たちの過失を天狗や狐の所為にして赦したのだと、自身の体験から察しが付くし(私の場合、自力では到底戻れぬとんでもない所で途方に暮れていたのを、母が探しに来て危うく事無きを得たが)。

幼馴染みの姉さんが、ある晩突然、通学路途中の谷川の淵へ身を投げた時や、掛かり付けの歯医者さんが、忘年会の夜、自宅近くに停めた車のすぐ側で凍死した時も。大人たちが頻りに「『何か』に惹かれちゃったんだなぁ……」と噂するのは、娘の秘めた悩みや夫の酒癖の悪さを、充分思い遣れなかった家族肉親の痛ましい悔恨へ同情を寄せ、些かでも慰めようとする方便なのだと判る。

私の父は、山の高低差を電気に変える仕事、すなわち水力発電所の職員だったから、森林伐採や狩猟を生業とする本物の山人に比べれば、フトした弾みで命を落とす危惧は遙かに小さかったが。発電施設の保守中、1メートル近いマムシが出たとか。雷様が天を衝く真っ只中へ、停電復旧を最優先に非番であっても現場へ向かうとか。山懐に暮らすがゆえの緊迫は、日常の通奏低音だった。

だから「住まう者」からすれば、「訪う者」が『不思議な出来事』と珍重して下さる怪異譚は、ほんの僅かな見当識の緩みが命を危うくした生々しい経験を、口碑に仕立てることで鮮烈すぎる恐怖感を和らげつつ、しかし確かな記憶として、己が住まう山への畏敬を子や孫に伝承すべく、山人たちが無意識に生み出した巧妙な知恵なのだと思う。

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さればこそ、『山怪』に綴られた挿話の中でも、私が殊に肝を冷やしたのは、山への畏敬を欠いたがために迂闊に命を落とした『訪う者』が、永い彷徨の果てに禍々しい『何か』へ変容した挙げ句、往来する者へ誰彼かまわず追い縋る、峠道の怪異だ。

ミゾレに降り込められた避難小屋の三人を強襲する、修験者らしき『何か』も。30センチ先さえ見えぬ濃霧の中、列の最後尾を歩く人のリュックを掴む『何か』も。己の不心得で住まう場所へ戻れぬまま、峠の半ばに開いた『異界への扉』をくぐる羽目に陥った『訪う者』が、『人のようで人ではない』「訪うモノ」に変じてしまったからこそ。

「住まう者」「訪う者」双方に、底知れぬ恐怖を与えるのではないか、と私は思う。

四万十川の麻田さんが、自力では戻れぬとんでもない所で途方に暮れていた大学生を、「まったく分からんけんど、そこにおると思た」のは、若者らしい無鉄砲ゆえに横死した彼を哀れみ、『異界への扉』をくぐり『人のようで人ではない』「訪うモノ」に変ずる直前、山に「住まうモノ」が己に同調しうる度量を備えた山人へ、賦与した方便だったのではなかろうか。

著者・田中氏も評者・すずき氏も、深山渓谷を「訪う者」の視点から、
日本の山にいる不可思議な『何か』を『山怪』と総称しておられるが。

やはり、元来山に「住まうモノ」が起こす『不思議な出来事』と、『訪う者』が『人のようで人ではない』「訪うモノ」に変じて起こす『恐ろしい出来事』は、「住まう者」の視点からすれば、歴然と異なるように感じる。

なぜなら、怪談の持ち合わせは無いと考えている私も、打当集落前山の鈴木さんや比立内の佐藤さん、あるいは四万十川の麻田さんと同じく、山に「住まうモノ」の『不可思議なエネルギー』と同調できた“心象”は、確かに体験したことがあるから。

けれど私自身の話は、綴らずにおきたい。強い護りのおかげで『恐ろしい出来事』にこれまで遭わずに済んでいるのは、『不可思議なエネルギー』と同調できたあの日以来、幼心に抱いた畏敬を今でも堅く秘めているから……と私は信じているのである。


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