2016年4月27日水曜日

うまくいっちゃう文化

先日、「履修登録失敗 親が出来ること」との検索で、おそらくは大学生のお子さんをお持ちの親御さんが、拙ブログの過去記事をご閲覧下さった模様です。

当該拙文には幸い、サポートセンター名古屋青木 先生が昨春公開して下さった『すぐできる大学に通い続けるための一つの方法』へ、リンクを張らせて戴いていました。
30年の支援で培われた貴いご助言を、即時実行して下されば……と願っております。

ところで、同じような五感や認知の凸凹があっても、不登校・ひきこもりに陥ってしまうお子さんと、学校・職場に通い続けられるお子さんがおられます。

世間では、お子さんが不適応を起こしたと解釈し、発達障害と呼称するようですが。
私自身は、五感や認知の凸凹で止むなく生じてしまった、膨大な「勘違い」の集積でしょ? なら「勘違い」に気づいて適切に修整してあげられなかった大人たちの方が、お子さんの「多様性」に対し不適応を起こしてたんじゃ?と自省も込めて考えています。

「うまくいっちゃった」ケースは例外無く、「育ち」に関わった大人たちが「勘違い」は修整しつつも、お子さんの嗜好や価値観を尊重し、大切に育んだ結果だからです。

就学前に障碍告知を受けた拙宅のへっぽこ娘にしても、主体的に大学へ通い続けられているのは、「みんな」の「普通」に倣って「いい学校・いい会社」を目指す定型の発達を、大きく遅延せずに真似できたからではなく。乳児の頃のモノ並べやクレーン現象で示唆されていた興味関心を、専攻する学問や志望する職業へ、結びつけられた結果。

定型多数派のお子さん・ご家庭・社会に合わせて設備されている、既存のインフラを大いに利用しつつも。専ら自閉圏当事者さんのご経験を参考にさせて戴きながら、ADHDクラスタな私が一人で群れずに試行錯誤した「自家製療育」で、「みんな」の「普通」を逸脱した発達をたどったからこその、一応「うまくいっちゃって」る現況なんです。

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ちなみに……「自家製療育」にも活用可能な、本来は定型多数派向けな既存のインフラって、“リアルな”施設だけじゃありません。

いわゆる情報弱者世代の大人たちから、不登校・ひきこもりの原因として真っ先に槍玉へ挙げられがちな、モバイルツールもゲームアプリもネットコミュニティも。適正な知識に基づき建設的に利用すれば、療育や合理的配慮は勿論、回復を導いて下さるメンター探しにも大活躍する、非常に有用な社会的資源なのです。

2016年4月12日火曜日

きれいな心 きたない心

四十年以上も昔のことなので、タイトルを失念してしまいましたが、私が小学1年か2年だった或る日、学校の体育館で映画の鑑賞会が催されました。今で言う特別支援学級へ通っている子ども達の日常を、主題に取り上げた邦画作品でした。

ネットで少し調べてみた限りでは、羽仁 進 監督 が1964年にリメイクした『手をつなぐ子ら』の可能性が高い気もします。しかし、記憶しているシーンは本筋と全く関係無かったようで、データベースの情報だけでは確認できませんでした。

非常に鮮明に覚えている、その場面を文章で書き起こすと、以下のようなシークエンスになります。
放課後の校庭。一日中降り続いた雨で水たまりが出来ている。 
小学校低学年の少女が一人、長靴を履き、雨傘を差して登場。
校庭の片隅にしつらえた花壇へ、ジョウロで水を遣り始める。 
傘を差しながら、水の入った重いジョウロを、片手で動かす
少女の、真剣な眼差しと緊張した口元を、クローズ・アップ。 
一転、降りしきる雨脚越しに、校舎の一角を遠望するカメラ。
更に寄ると、職員室の窓から支援級の担任が校庭を見ている。 
教師の視線の先は、色とりどりのチューリップが咲く花壇と
長靴を履き、傘を差して、雨中の水遣りに懸命な、少女の姿。 
再び職員室へ転じたカメラは、男性教師の優しげな眼差しと、
少し困惑の色を滲ませ微笑む口元を、クローズ・アップする。
何度も思い返すうち、私が加えてしまった“演出”があるかも知れません。けれど、降りしきる雨音だけで台詞は一言も無い、濡れた地面と木造校舎の陰鬱な背景に、咲き揃ったチューリップの明るい色彩が映える、とても美しいシーンでした。

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鑑賞会の後は、学級ごとに教室へ戻って「帰りの会」を済ませ、行事が催された日の常で、上級生達と集団下校したような気がします。ともかく帰宅すると、保護者席で映画を観ていた母が待ち構えていて、どんな感想を持ったか訊かれました。

2016年4月10日日曜日

あなたが あなたで あるために

娘が高校を卒業し、レイティングが全面解禁されたのを機に、劇場版アニメでもハリウッド映画でもない「大人の映画」を、母子で観に出かけることが幾度かありました。

補欠合格の結果を待つ間に、御縁を繋ぐ験担ぎも兼ねて『KANO 1931海の向こうの甲子園』を有楽町で。入学行事や受講登録が完了し、通学にも慣れてきた黄金週間には、文化人類学を専攻する試金石として『セデック・バレ』を六本木で……

以後は、所属学部でもサークルでも趣味の合う知己を得られた様子で、娘が私と一緒に出かける機会も無かったのですが。

語学留学やら帰省やらで、友人たちが不在がちだった再びの春休みに、ちょうどジェンダー論を履修した娘と、期間限定公開の『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』や、封切られたばかりだった『リリーのすべて』を池袋で鑑賞しました。

これら4本の映画は一見、趣向にも主題にも共通点はありません。主人公も、海を越えて活躍した甲子園球児植民地支配に抗うべく蜂起した先住民現代へスピンオフした史上空前の名探偵世界で初めて女性に変身した男性、と多種多様です。

けれど、どの作品も等しく、社会的少数者である自己同一性の尊厳を、守り抜こうとした人々の葛藤と克己が、確かな実存性を以て虚心坦懐に平易端然と描かれています。

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英語原題『The Danish Girl』『リリーのすべて』とした邦題は、映画の全貌を的確に表象する、極めて秀逸な訳出でした。

男児として生を受けEinarという男性名を授けられ、美術学校で知り合った妻と仲睦まじく暮らしていた主人公の、Liliという女性名を名乗る「内なる自己」が、精神と肉体の同一性を「回復」しようとした葛藤と克己こそ、この作品の主題だったからです。

しかし、『英国王のスピーチ』数々の栄冠を受けたTom Hooper監督が、静謐な叙情に徹した映像の洗練と、Einarの妻・Gerda 役を射止めたAlicia Vikanderの、質朴な情感に溢れた名演の迫真に、他者を愛し続ける真実の深淵と孤高を幾度も反芻するにつけ……

版権やら興行やら「大人の事情」を一切無視して、真摯誠実に率直普遍なタイトルを付けるなら……原語では『The Danish Girls』そして邦訳は『リリーとゲルダ』と題すべき映画だったのでは?と私は思うのです。

主役を演じたEddie RedmayneのEinarからLiliへの変貌が、余りに見事かつチャーミングだったため、ほとんどの映画評では言及されていないようですが。
《以下、『リリーのすべて』のネタバレ御注意!》