ネットで少し調べてみた限りでは、羽仁 進 監督 が1964年にリメイクした『手をつなぐ子ら』の可能性が高い気もします。しかし、記憶しているシーンは本筋と全く関係無かったようで、データベースの情報だけでは確認できませんでした。
非常に鮮明に覚えている、その場面を文章で書き起こすと、以下のようなシークエンスになります。
放課後の校庭。一日中降り続いた雨で水たまりが出来ている。
小学校低学年の少女が一人、長靴を履き、雨傘を差して登場。
校庭の片隅にしつらえた花壇へ、ジョウロで水を遣り始める。
傘を差しながら、水の入った重いジョウロを、片手で動かす
少女の、真剣な眼差しと緊張した口元を、クローズ・アップ。
一転、降りしきる雨脚越しに、校舎の一角を遠望するカメラ。
更に寄ると、職員室の窓から支援級の担任が校庭を見ている。
教師の視線の先は、色とりどりのチューリップが咲く花壇と
長靴を履き、傘を差して、雨中の水遣りに懸命な、少女の姿。
再び職員室へ転じたカメラは、男性教師の優しげな眼差しと、何度も思い返すうち、私が加えてしまった“演出”があるかも知れません。けれど、降りしきる雨音だけで台詞は一言も無い、濡れた地面と木造校舎の陰鬱な背景に、咲き揃ったチューリップの明るい色彩が映える、とても美しいシーンでした。
少し困惑の色を滲ませ微笑む口元を、クローズ・アップする。
***
鑑賞会の後は、学級ごとに教室へ戻って「帰りの会」を済ませ、行事が催された日の常で、上級生達と集団下校したような気がします。ともかく帰宅すると、保護者席で映画を観ていた母が待ち構えていて、どんな感想を持ったか訊かれました。
私が、なんと答えたのか。
ハッキリとは思い出せませんが、たぶん「たくさん雨がふってて、花だんにお水をあげなくてもいいのに、どうしてあの子は・あの先生は」と、疑問を呈したのでしょう。
「ホントにアンタはへそ曲がりで愛想が無い」と、非難された心象が残っています。
もっとも、そういう叱責にすっかり慣れきっていた「へそ曲がり」な私は、母親の説教がそこでお終いだったら、あの映画の件は、そっくり失念してしまったと思います。
「ああいう子たちは、心がきれいなのよ」
そう言い捨てた後で、母は家事へ戻り、私も淡々と、自分の机で宿題を始めました。
「愛想が無い」私は、自分の母親が「ああいう子たち」を賛美したようでいて、実は暗に我が子の性格を「きたない心」と当てこすっていた旨を、重々承知していました。
しかし同時に、「理屈っぽくてへそ曲がりで愛想が無い」自分の個性は、日頃から母が自慢の種にしている、私の学業成績や表彰歴と表裏一体であることも看破していましたから、母親が暗示した難詰にも、自尊心を毀損されることは全くありませんでした。
それよりも、鑑賞会で上映された印象的な場面の、静謐な美しさ……自分の母親を含め「みんな」が「普通」に持っているらしい、「ああいう子たちは、心がきれい」という軽佻浮薄な同情とは全く異質な……支援級の担任教師を演じていた俳優の、慈愛と困惑を交えた表情で象徴される人間の心の深遠にこそ、強く惹かれていたのだと思います。
***
それから二十数年後、娘が発達障碍の告知を受けました。「ああいう子」が自分の初孫に生まれた次第を知った母は、無論「この子は、心がきれい」と賛美する筈もなく。
他人様へ向かって軽佻浮薄な同情を示す言葉に、我が子の個性を「きたない心」と咎める難詰を潜ませた「普通」の人間が、どういう反応をするか……ここまでお読み下さった皆様には、容易にご想像戴けると存じますので、事の仔細を綴る無粋は致しません。
ただ、ADHDクラスタな私が、子どもの人格を真摯に受け止めてくれる『健全な家族』に育てられたから、自閉圏の娘も含め『うまくいっちゃった』と誤解なさっておられるらしい心理の専門家には、僭越ながらお考え直しを謹んでお願い申し上げたい存念。
「みんな」の心理が「普通」にたどる『健全な』定型の発達過程に沿って、障害の有無を判定なさる専門家には思いも寄らぬことでしょうが、生命を司る万世普遍の原理である「多様性」は、「普通」のままでは到底生み出せない「進化」の源なのです。
「みんな」の「普通」に倣って、「いい学校・いい会社」を目指せたから、ではなく
「みんな」の「普通」を逸脱した発達をたどったから『うまくいっちゃった』んです。
「きれいな心」「きたない心」があるわけでも、心の理に「遅延」「欠陥」があるわけでもなく……障碍の機序を解題し得ないまま、当事者の「人格」「特性」を発達障碍と定義する社会だから、「多様性」が「障害」になってしまうのかも知れませんよ?
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