将棋には、縁遠い家庭で育った。
父は、仕事でも趣味でも、電気の回路図に向かっているのが、好きな性分。そのせいか、若い頃から、将棋より囲碁の方が、好みに叶っていたらしい。偶々、棟続きの隣が町会の集会所兼碁会所、という家に引っ越して、一層熱心に、石を並べるようになった。
折りたたみ式の碁盤と、質素な碁笥。定石集や、詰め碁の問題集が、身近に在りながら、私は囲碁を覚えなかった。就学前、試みに五目並べを教えた処で、父は、私の壊滅的なセンスの無さを、既にして見抜いたのだろう。
それ程までに、私は手の先というものが、読めない。ただ、父の側で囲碁の本をめくっている間に、『盤上の景色』という言葉だけは、何時とは無しに、心の隅に刻まれていた。が、私にとってのそれは、自分の手で形作るものではなく、対局者の傍に在って、有為転変の様を心愉しく眺める、不可思議で美しい憧れとなった。
次の引越で、碁会所とは縁遠くなった。父の仕事も忙しくなり、我が家の美風は廃れてしまった。私が再び盤上の、しかし、“見えない”景色に会したのは、大学に入った年。
目隠し将棋を指せる同級生二人と、同じクラスになった。
確か、学園祭の準備中。アニメやSFを逍遙していた話頭が、何故か将棋に落ち着いた。理学部男子は一様に、何某かの心得があるようだった。中でも数学志望のS君と、化学志望のK君は、目隠し将棋まで出来る。そりゃスゴイ!対局を見せてくれ、という次第になった。
物理志望のT君が、書き留めてくれる棋譜を覗き込みつつ、男子達は観戦に興ずる。地球科学志望のN君は、大変親切なことに、都度の局面まで描いてくれた。しかし、駒の動かし方さえ心許ない私は、専ら、対局中の二人を眺めていた。
白皙のS君は、眼鏡を掛けた怜悧な面差しを、然程変えることなく、耳に心地好いテノールで棋譜を伝える。その間、ゆったり腕を組み、端然と座したまま。対照的にK君は、やおら椅子を蹴って立ち上がると、辺りを歩き回ったり、頭を掻きむしって唸ったり。絞り出すような調子で、返す手を口にする事もあった。
各々の性格が如実に顕れて、誠に面白く、その後も幾度か、私は二人に対局をねだった。指し手が己の心の裡に妄想し、尚且つ相手と共有できる架空の『盤上の景色』で、互いに棋力を尽くして一戦交える模様に、魅了されたからだ。
勝敗は、両者気付かぬうちに、疾うに自陣が詰んでいた旨、S君が自ら申告したり。前半の攻めが見事に奏功したものの、途中、持ち駒が判らなくなってしまったK君が、潔く投了したり。“見えない”盤上ゆえの、意外な終局も、また、興趣が尽きなかった。
そして、今年の第3回将棋電王戦。
小説家たる“心の師匠”と密かに仰ぐN先生が、ブログで言葉を尽くし、敬愛の意を表しておられた、森下卓九段に俄然興味を惹かれ、先週末の『情熱大陸』を拝見した(ニコニコ静画で棋譜もアップされてます。お判りになる方は、ご参照を)。
相変わらず、棋譜はおろか局面を図示されても,皆目、判らない。けれど、と言うより故にと言うべきか、番組中、対局に臨むプロ棋士の皆様方の、所作に目を奪われた。殊に、駒を扱う手の流麗な動きには、“愕然”という表現が、全く大袈裟でないほど、心底、魅了されてしまった。
確かに、目隠し将棋の観戦では、一度も目にする事が、出来なかった光景ではある。しかし、あたかも手先それ自体が、高度な知性を有する優美な生命体であるかのように。無言の儘、盤上に配した自陣の駒へ、気魄を吹き込む高雅な挙措は。
やはり、自ら形作った『盤上の景色』に於いて、己の総力を注いで戦う事を、生涯の生業と心に定めた、プロ棋士の矜恃があってこそ。コンピュータ側の指し手は、融通の利かない動作が、健気だが無闇に大仰で、畳の上に在るのは如何にも場違いな、ロボットアームだっただけに。
人間としての立ち居の美しさが、一層、際立ったように思う。
惜しむらくは、森下九段の対局の模様が、僅か30秒しか、放映されなかった事。プロ棋士側が二連敗を喫した後、ようやく一勝をもぎ取った所で、負け越しを決してしまった惜敗だったため、あまり時間は、割き難かったのかもしれない。
それにしても、対局開始時には、機構上、ゆるゆるとしか動けない「電王手くん」に合わせ、上げかけた頭を、再度、深く下ろす御様子。135手、9時間を超える激戦の末でも猶、端座なさった背を真っ直ぐに、礼をしながら負けを認める仕草。
真摯で律儀、誠実で純真なお人柄が、一瞬にして伝わって来た。
プロの矜恃を心得ぬ者が、たった一人、相応しくない職位に在っただけで、“業界”全体がどれほどの厄介を被るか。物思いをせずに居られぬ日々が、続く折しも。
斯く在るべし、斯く在れかし、と深く心に響いた番組だった。
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