2014年11月24日月曜日

心を読み解く身体

実は私にも、心が、生命の本体たる身体を、手放しかけた経験がある。

前回、話題にした事故が、それ。自転車ごと空堀へ落ちたとは言え、咄嗟に左脚を衝いて身体を支えれば、石垣の角へ頭を強打するまでには、至らなかった筈で。

現場へ駆け付けた皇宮護衛官から、“加害者”として職務質問された予備校生も、「アタマ怪我したんわメッチャトロい本人のせいやんなんで俺がこんな目ェに遅刻してまうし堪忍して」的態度を、「相手は血ィ流してはるんやで逆走して来たんは君やろ逃がさへんぞ早よぅ答え」と(無論、もっと上品な言葉で)窘められていた。

しかし私は、その件を結局、事故扱いにしなかった。無線で要請した救急車を待つ間、“被害者”の意識状態を確認すべく、「前、見てへんかった?」と優しく問い掛けて下さった皇宮護衛官氏へ、「ぃや、見てた筈なんですけどぉ」と口籠もるしか術が無かった自分の、脳裏にあった映像は実の所、衝突直前の現場ではなく。

研究室の実験台と、器具を操作する自分の手、だったから。

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たぶん私が『死んで生き返りましたれぽ』を、pixiv連載の段階で既に、他の読者より僅かばかり深く踏み込んで、読み解くことが可能だった由縁は。

実験操作や料理の手順、もしくは小説創作時の場面描出に、限定ではあるけれど。作者と同じく“視覚思考者”である件が、大きいのだろうと拝察している。

書籍版『死んで生き返りましたれぽ』には、作者が脳浮腫を患っていた最中の体感を、丹念に綴った文章が追加されていて。視覚野がある後頭葉に、浮腫が発現した理由を鑑みれば、そもそも作者の脳の機能様式が視覚思考優位、つまり普段から酷使しがちだった領域ゆえ、必然的に負荷も大きかったから、ではなかろうか?

私自身は、知能発達に不可欠なエピソード記憶・言語習得に必須な意味記憶の発現に伴い、言語的論理思考優位へ移行したようで、描く力が急激に低下してしまったが。小学校低学年まで、本を読んでいなければ、描くことに耽溺していた。一時は周りの大人達も「ひょっとしたら、将来は絵描きに」などと、考えていたらしい。

その“描く力”の名残、すなわち視覚思考優位モードへ、心の本体たる脳が、事もあろうに自転車での通学中、うっかりシフトしてしまったため、生命の本体たる身体を手放しそうになった、というのが冒頭の顚末。

サヴァン症候群自閉症スペクトラムを主題にした、『視覚の囚人』『感覚の囚人・共感の達人』での考察を経て、心が身体を介して社会と繋がるため、一番重要な感覚は視覚だと、確信するようになったのだが。

要するに、本来は心が外界と繋がることを、専らの目的に機能させるべき視覚が、思考の主要ツールとして先鋭化かつ酷使された結果。外界の状況に応じて、身体に妥当な行動化を指示する能力の、発現・発達を逸してしまう。あるいは概ね定型の発達を遂げた者でも、“行動化の瞬発力”を著しく損なう、という次第なのだろう。

***

『付録』には、本編でチラ見せして下さった『診断書』の全体画像と、ご家族への病状説明時に提示された『記録メモ抜粋』も掲載され、入院経過中、殊に当初数週間の激闘が、生々しく伝わって来る。

ザックリ言えば、有り得ないほど劇症の2型糖尿病患者が、
なぜか突然、救急外来で受診、という前代未聞の緊急事態。

だから『壮絶闘病レポ!!』の惹句は、医療関係者の観点からすれば、これ以上ない表現だし。単なる実務上の都合から変更された発売日が、『世界糖尿病デー』だったという偶然は、この御本に授けられた天命を、暗示しているのだと思う。

けれど、控えめながら丁寧な、改稿の手が加わっている本編や、書籍化の機会に追加された、写真や文章を拝読すると。

危うい生命の遣り取りを経て、辛くも取り戻した身体を介し、
心がもう一度、外界と繋がる、その過程を丹念に辿りながら。

それとは気付かぬまま『ゆるやかな自殺』を誘った、『死に至る病』を患う仕儀に己の心が陥った由縁を、ひとつずつ少しずつ読み解いて来た、とても静謐な(ゆえに上記の惹句とは、些かならず乖離してしまった)恢復の記録なのだ、とも思う。

心の本体たる脳と、生命の本体たる身体の有り様に、一切の疑問を抱かず。
易々と外界へ繋がれる、定型発達ないし健康な、世界の大多数を占めている人々には、おそらく真価を読み解くことが、難しいであろう一冊。

然れど、他者との違和感に苛まれ、心や身体を患って、“行動化の瞬発力”つまりは『生きる勇気』を見失いかけている人々、そして、彼らを癒やす術を志す人にこそ、全力でお奨めしようと目論んでいる。

Amazonさんのカスタマーレビューにも、
本記事の一部を抜粋・改稿して掲載させて戴きました!
医療を学ぶ皆さんへ、医学哲学の入門書として、お奨めしたい一冊

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