諸般の事情で、ブログ更新がすっかり滞りがちになっている。
にも拘わらず、毎日一定のお運びを賜っている仕儀が、誠に貴く有り難い。
ご閲覧が多いのは無論、人気ブログに『繋がる力』をお分け戴いた記事だけれど。愛好する作品への想いを綴った「『それ町』第13巻感想!」を始めとするレビュウも、健闘してくれている次第が『字書きの右往左往』たる面目躍如。
そして勿論、キーワード検索で御来臨下さる偶然が多いのだろうが。再読に訪れて下さっている気配も、そこはかとなく感じて……
思う相手へ思う処が通じた歓びを、妄想深読みの裡に面映ゆく玩味している。
拙ブログで啓上するレビュウは、消費者としての感想ではなく。
“描く力”と“綴る力”を発揮して下さる、創造者への献辞だから。
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コミックスの単行本を収めた、我が家の書棚へ改めて目を遣れば。
画風には一切こだわらない、むしろ物語る力をこそ最重要視する“マイナー贔屓”の難儀な嗜好を、つくづく自覚する。
たとえば「Welcome back to your "HOME" !」で心酔を語らせて戴いた、萩尾望都先生の作品でさえ。所蔵しているのは、ハヤカワ新書版・第1刷が秘かに自慢な『銀の三角』と、SF作品最新刊の『AWAY -アウェイ-』第1巻のみ。
全く以て、不肖の読者の最たるもの。然れど『11人いる!』も『トーマの心臓』も拝読し得た限りの作品は、バッチリ画像を添付したエピソード記憶すなわち“在庫”として、ガッツリ脳内に蓄積させて戴いておりますので。
物語る力を最重要視して、読む作品を選ぶ習いが性となった所以であり。
書籍として愛蔵させて戴くのも、創造者への敬意を表す方途なのである。
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清原なつの先生の『千利休』を購入した経緯は、その典型かも知れない。
《以下『千利休』『3丁目のサテンドール』『銀色のクリメーヌ』他、清原なつの諸作品のネタバレ御注意!》
昔々、『りぼん』1980年10月号に掲載された『3丁目のサテンドール』で、初めて拝読した頃から。語弊を懼れず申し上げると、清原先生の画力は進化していない。
2001年に発行されたハヤカワ文庫版『千の王国 百の城』を参照すれば。
1981年の『りぼんオリジナル』連載『真珠とり』に、依然見受けられた少女漫画的表現が、1987年の『ぶ〜け』掲載作『アンドロイドは電気毛布の夢を見るか?』では完全に削ぎ落とされ、模式図的ないし記号的な、ぶっちゃけ「私はコレしか描けません!」と開き直っちゃった感全開な、“画風”が確立されている。
大変に礼を失した行いと重々承知の上、敢えてその巧拙に言及すれば。
ぶっちゃけ「コレでプロの漫画家って、ありえなくね?」とか間違いなく言われそうです、今時のお若い方達に見せたら。
なにしろpixivを覗きに行けば、人間が夢想妄想し得る限りの主題素材を、実現可能なあらゆる技術技法を駆使して、描出表現しまくってる絵師様たちが、プロ・アマ入り乱れて割拠なさっておいでだし。
コミティアやらコミケやら自主制作漫画誌ないし同人誌即売会へお邪魔すれば、問わず語りに商業出版と自主制作出版の境界は奈辺に有りや……と書籍のraison d'etreへ思索を巡らせたくなる有様だから。
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『千利休』の「あとがき」には、『しかるべき監修者をお願いしてマトモな作品にするはずだった』『最初の企画』が、『私の力不足』で『出版準備はいったん中止』となった事情が、端的に綴られている。
これまた無礼を弁えず率直な感想を申し上げると、「そーでしょーねぇ……」と遠い目になっちゃう感満載。千利休の評伝監修を依頼されるに『しかるべき』御仁なら、きっと清原先生の絵は初見だったでしょうし。
良くても顔色を失って絶句、悪くすれば青筋立てて席を蹴ったであろう様が、在り在りと脳裏に浮かんでしまう。
然りながら漫画作品に於いて読み手の魂を揺さぶるのは、画力のみに非ず。翻って、豊富な“在庫”と綿密な“構成”に裏打ちされた、筆力に優ればよいという訳でもなく。
精神主義は趣味じゃないが。清原先生に限っては、描き手の天然自然な魂の在り方が、直に読み手の心を動かす、としか表現の仕様がない。
某地方国立大学で動物遺伝学者として勤務することを、生業になさってこられた理系女子のメタ認知は、4年半かけて完成させた自作さえ『好き勝手に作ったまんが』『いいかげんなモノ』と、アッサリ言い捨ててしまうけれど。
その一方、『本業のつもり』で『ばかばかしくもなぜか感動的』な作品を生み出すべく、『強いこだわりを持つ』のを諦めなかった創造者の魂は、不遇な自作を『それなりにカワイイ出来』『お蔵入りは淋しい事』と愛おしむ。
結句『千利休』は、「能動的な読解者」の牙城とも称すべき出版社から上梓される。全ての成り行きを以て必然、と言う他ない顚末である。
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ワタクシ的一押しな『銀色のクリメーヌ』も、清原先生だからこその天然自然な成り行きが、少女漫画史上、最も静謐にして惨烈な終幕へ帰結した“奇跡の秀作”だ。
確かに創作の基盤は、言語実験の衰退で離散したチンパンジーたちの『悲劇』に想を得たものと拝察するが。
異種間恋愛を主題に据え、人間である限り決して逃れ得ない“宿罪”の現実を、読み手の心に深く刻印する物語が生まれた契機は、『アルジャーノンに花束を』が「てっきりネズミと人間のラブストーリィだと記憶して」いた勘違いである旨、姉妹篇『金色のシルバーバック』の「タテ1/3」で告白なさっている。
『引用する時は必ず原典にもどらなきゃダメ』なのは、研究者も漫画家も遵守すべき鉄則だけれど。清原先生の天然自然な『てっきり』が、偉大な原典をも超越し、人類のraison d'etreへ思索を巡らせたくなる漫画を生み出した次第こそ、愛おしい。
そして、初めて拝読した『3丁目のサテンドール』から『千利休』に至るまで、一貫して描かれる“通奏低音”は。『ここは 私の場所じゃない』と疎外感を募らせながら『のびのびと、思うように生きたい』と切望する者たちへの、共感と慈しみ。
画力の洗練に於いては、正に群雄割拠な今日。この30年来、画力が進化していない清原先生の『千利休』は、何故『好評重版中』のロングセラー、更に姉妹作とも謂うべき新刊まで発売されたのか?
漫画のraison d'etreへ思索を巡らせたくなったアナタに、超絶オススメです!
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