2015年1月24日土曜日

2015−1995=20 〜大寒〜

阪神・淡路大震災の発生から20年です。
皆さんは震災の前日を覚えていますか。
1995年1月16日、月曜日、3連休の最終日。
神戸の天気は晴れのち曇りでした。
1月16日に思いをはせ、そこから20年をふりかえってみませんか。
神戸新聞NEXT 【特集】阪神・淡路大震災『震災20年ブログ』より引用)

問いかけに応じられぬまま稿が滞り、10日以上経ってしまった。

理由は明白で、『1995年1月16日、月曜日、3連休の最終日』の具体的な思い出が、どう記憶を探っても、私には全く見付けられないからだ。

すると次は、なぜ思い出せないのか?という方が懸案になった。

***

最初は、震災当日の17日に予定されていた、博士号申請論文の公聴会(と呼び習わしているが、要は論文の概要を口演し、主査・副査の試問に答える審査会)に備え、曜日も何もお構いなく、スライドや原稿の作成に没頭していたから、とも考えたのだが……

『震災20年ブログ』に寄せられた『1月16日』の思い出は、今にして思えば大地震の予兆かと、推察される“異変”も散見されるが。大半は、普段と変わらぬ平凡な出来事。私が『震災の前日』を覚えていない所以はそれではない、と気付く。

震災当日の事、特に地震発生直後の次第は、克明に記憶している。

当時は京都の花折断層が成した崖の近傍で、昭和30〜40年代に建てられたと思しき、木造モルタルの二階家を借りていた。しかも相方が数ヶ月先んじて留学してしまった、後を預かる一人住まいだったから……

激しい揺れで叩き起こされ、即座に点けたテレビは、京都タワーのガラス破損を報じるのみだったけれど。ガス管破損を懼れて、唯一の暖房だったファンヒータは点けずに震えながら身仕舞いし、払暁の薄明かりで家屋の外回りを確認した。

仔細は端折るが、ともかく京都市内に大事は無く。鉄道各線は路盤の目視点検のため、不通ないしダイヤが乱れていたものの、京阪沿線にお住まいの主査はタクシーで来着。公聴会は予定より若干遅れつつ、全ての審査が粛々と履行された。

被災地の状況を私が知ったのは、博士号申請を認可された後。同じく公聴会を済ませた朋輩や、口演を聴きに来てくれた後輩と、研究室へ戻った時で……

***

学位申請を早々に断念していた同級生が、支援物資を徒歩で運ぼうとしている旨を知り、自宅にあった余分の食糧や生活用品を掻き集め、託した事はあったけれど。私自身が被災地を訪れ、支援に直接携わる機会は、遂に逸してしまった。

私が『1月16日』を、どうしても思い出せないのは。

博士号の認可後も、指導教授が退官してしまった研究室の始末を付け、相方の留守を預かる家を畳んで、自分も研究員として留学する算段、つまりは“日常”に忙殺されたまま、『阪神・淡路大震災』を目撃しなかったから、とも考えたのだが……

1995年1月16日、月曜日、3連休の最終日。
思い出を寄せた方々が、『震災の前日』を克明に記憶しておられるのは。

その翌日未明、前触れも無く遮断されてしまった、普段と変わらぬ平凡な、けれど尊くも愛おしい“日常”が、確かに存在した『最終日』だから。

昨日も今日も明くる日も。普段と変わらぬ平凡な、けれど和やかな“日常”が幾度も積み重なって、導かれる必然こそ幸福と知っておられるから。

20年の時が経っても未だに、『1月16日』には確かに存在した平凡にして尊い和やかな“日常”を、取り戻せない寂寥が胸の裡に蟠っているから。

あの日、兵庫県南部地震を起こした野島断層の、近傍に住まっていた数多の人々と、あの日活動しなかった花折断層の、近傍に住まっていた私を、別した相違は“偶然”の一事のみなのだ。

被災の事実を共有することは、二度と叶わないけれど……
感覚を共に分かち合える“日常”の記憶から『20年をふりかえって』みたいと思う。


0 件のコメント:

コメントを投稿