2015年10月24日土曜日

冠省、“発達障害な僕たち”さま

サポートセンター名古屋ヒロさんが、ブログ卒業非障害自閉症スペクトラムへの旅立ちのスケジュールを、宣言なさったお祝いにかこつけて。“種明かし”ついでに、旧来の診断名なら高機能自閉症児の親だった、なんて次第まで白状しちゃいましたが。

私自身はやっぱり、当事者でも支援者でも専門家でもなく……

ヒトの脳の働きに興味があり、趣味の範囲で勉強している「野次馬の傍目八目」という間合いを、この機に詰めようなどという目論見は、毛頭ございません。

当事者の親御さんの中には、一念発起して専門家の資格をお取りになったり、自ら支援の場を発足・運営なさったり。尊いお志に基づいた「行動化の瞬発力」を、遺憾なく発揮してらっしゃる皆様が、幾人もおられますけど。

野次馬は、客観的かつ冷静な俯瞰に在るというだけで、八目も先まで手が読めちゃうワケですし。博士号を允許戴けるまで、理学すなわち世の理 (ことわり)を究める学問にて、鍛えて参りましたメタ認知をこそ、今後も活用いたしたい所存。

***

てなコトで、実は大学受験より手に汗握ってた、娘の学期末試験真っ最中な今夏7月。ブログ『発達障害な僕たちから』好奇心と敬意と仁愛を以て、寄せさせて戴いておりましたツイートを……

衒いの無い穏やかな筆致で、たくさんの有意義な示唆を与えて下さった俊介さん
10年越しの粘り強い支援に応えて、熱い魂を見事に花開かせて下さったヒロさん

若干の改稿を加え、深謝を込めて再掲いたします。

2015-07-06 『みんなの状況 俊介』へ寄せて


『2年前には今の状況なんかまったく想像できなかった』
『そのギャップに戸惑う』
『自分じゃない気がして少しきみが悪い』

その感覚が、メタ認知が成熟し自我が確立していく徴候なのでは……と思います。

『残念なんですけれど、僕は泣くまでにはいきません』

ぃやぃや、恬淡として穏やかな人柄こそ、俊介さんの素敵な所ですから。『なるほどそうなのかと気付き』を得て下さったなら、それに勝る幸せはございません。
明日から勉強する料理には、熱くなって戴きたいですが。

そして大野さんは、方向性さえ定まれば進捗が素晴らしく早い所が、さすがです。

ブログの続きを書こうと深く悩んでらっしゃるご様子、俊介さんは若干心配なさってますけど。ひょっとしたら沈思黙考するのが、大野さんにとっての“安心毛布”(俊介さんにとっての格闘ゲーム)なのかも。

端から見ると、スゴク大変そうに感じられるかもしれませんけれど……

本人はあれこれ思索を巡らせること自体、案外楽しんでらっしゃる所があるのかも知れませんよ。サポートセンター名古屋的には稀なケースと拝察しますが、ワタクシ的にはむしろ、大野さんのようなタイプは馴染みがございますので。

2015-07-07 『こうして僕は回復した 俊介』へ寄せて


『人の視線が怖いのです。でも幼稚園児やかなりの高齢者の視線は怖くありません』

これこそが、当事者さんの実感ならではのリアリティ。
定型多数派視点の現象論では、決して到達し得ない臨場感です。

視線は本来、他者と感覚情報を交感・共有するため、最も基本的かつ重要な非言語コミュニケーション(いわゆる共同注視)なのですが。俊介さんは鋭敏すぎる五感をお持ちなため、他者の感覚情報を精細緻密かつ大量に感受しすぎて、いわば共同注視への過剰適応状態に陥ったものと拝察します。

『自分の妄想なんです』とメタ認知が冷静に判断していても、一度ワーキングメモリが感覚飽和=パニックに至ってしまうと、手が震えたり叫びだしたくなる衝動に駆られたり。身体の制御まで出来なくなって、その場にしゃがみ込むか、全速力で逃げ出す他に、為す術が無くなってしまうのでしょう。

就学前のお子さんや、かなりご高齢の方々は、相手の共同注視が未発達あるいは衰えてらっしゃるので、たぶん俊介さんの視覚過敏を以てしても、過剰適応を起こす危惧が無い。ゆえに、そういった皆さんの視線は、きっと怖くないのですね。

#共同注視(joint attentionの訳語です)については、脳科学辞典サイトで「共同注意」の項をご参照下さい。

勿論『環境を変える』という具体策こそ『とても大切』ですし、支援を受けている今の俊介さんは、どうすればいいか重々分かっておられますが。

『視線が怖い』という“現象”の理 (ことわり)を解きほぐすことで、自己評価を不当に貶めていた誤学習を修整する一助となれば、身に余る幸甚です。

2015-07-08 『発達障害が問題なわけではない 俊介』へ寄せて


『僕も診断を受けていた方がいいのではないですか』

適切な支援・合理的配慮を求めるため、有効利用出来るならアリですし、
当事者さんの自己評価を不当に下げる危惧があるなら、ナシです。

でも、診断名より遙かに重要なのは……

当事者さんの特性を、的確に把握する“プロファイリング”と拝察。って、サポートセンター名古屋の皆様には「釈迦に説法」誠に恐縮ですが。

そこを押して、野次馬の傍目八目を申し上げさせて戴けば、取り分け感覚過敏の傾向(五感のどれが“難儀”の主因か)を見極めることが最重要かと。

加えて、思考様式の性向(視覚思考か・パターン思考か・論理思考か・複合型か)を注意深く分析した上で、当事者さんの感じ方・考え方に即した支援をプログラムすることが、最も効果的かつ二次障害を最小限に抑え、有益な経験を積み誤学習を修整する方策なのだろうな、と拝察しております。

2015-07-10 『僕らにはメンターが必要 ヒロ』へ寄せて


定型多数派とは異なる感じ方・考え方・理解の仕方……

“多様性”を抱える“少数派”として社会で生き抜くためには、
特別な“技術”が必要ですよね。

いわゆる“ソーシャルスキル”ということになるのでしょうが、臨機応変かつ妥当的確に社会へ適応するためには、小手先の所作に留まらず、心の持ち様をも体験を通じて会得して行かねばなりません。

ソーシャルスキル訓練を、受ける側の当事者さんからすれば、それまで全く馴染みの無かった技芸や武道を習うのに、相通ずる御苦労があるものと拝察します。

抱える“難儀”が大きい当事者さんなればこそ、“弟子”の苦手を鋭く見抜き、得手を大事に伸ばせる“師匠”=メンターが、特性を的確に“プロファイリングした上で、個別に支援することが必要なのでしょう。

本を読んで独学したり、集団訓練を受けるだけでは、なかなか効果が上がらない所以でもあります。あ、親御さんが“師匠”を代行するのは、なかなか上手く行かないって所も、技芸や武道に相通ずるものが。

ザックリ言うと「遺伝子が邪魔をする」ので……
赤の他人のお師匠様に入門する方が、やはり宜しいようですね。

2015-07-11 『IQ 75内申書オール1でも変わられる ヒロ』へ寄せて


知能検査は、定型多数派向けに設定されてますから……

感覚過敏ゆえに発達の凸凹が生じている当事者さんの“知能”を、一律に査定し優劣を付けられると考えるのは、多数派であることを頼みにした無知蒙昧と自己過信と、生命の“多様性”が本来備えている「予見し難さ」を識っている、生物学者は考えるわけで。

とは言え、当事者さん自身が“数字”の強烈な印象に縛られ、
自己評価を不当に下げてしまうのも、止むを得ないことで……

ゆえにIQも診断名と同しく、適切な支援と合理的配慮を目的に、当事者さんの特性を的確に把握する“プロファイリング”の一環として、有効利用出来るならアリですけど。

当事者さんの自己評価を、不当に下げる危惧があるなら、
本人へ開示すべきじゃない、と思うのですがどうでしょう?

そしてヒロさんが不登校・引きこもりに陥った“原因”は、学校制度の問題ではないけれど。公教育が「2.5パーセンタイル(IQ 70)を上回っているから普通級で」と判定したからには、義務教育課程修了に相応しい学力を保障すべきだったと、私は思うのです。

『とにかく必死に先生の言葉に耳を傾けました』

以下はまだ、単なる“私説”に過ぎないのですが……

視覚的な刺激・記憶に翻弄され、ワーキングメモリが感覚飽和=パニックに陥りがちな当事者さんは、聴覚から得られる情報量を意識的に増やすことで、外部からの感覚情報をバランス良く感受できるようになるのでは?と考えています。

逆に聴覚が優位に過ぎると、視覚を部分的に鈍麻ないし遮断し(e.g. 視野が狭くなる)、共同注視の獲得を逸して他者との“感覚情報の共有力”を著しく損なったり、注意欠陥が嵩じたりする結果も、招きかねないのですが。

ひょっとしたら、知能レベルが非常に高い当事者さんは、幼少時に聴覚優位となるような、“訓練”を受けているケースが多いのでは?なんて妄想深読みもしていたり(大野さんのご意見を、是非伺ってみたい所です)。

『シェフとしての経験がある人たちばかり』のクラスで、座学も実習も立派にやり遂げ、みんなで食べた料理を『そこそこ美味しかった』と言えるほど、“感覚情報の共有”も出来たのは、俊介さんが聴覚情報の感受に集中した結果、視覚情報に翻弄されなかったから、かも知れませんね。

『僕たちのような人たちは五感に凸凹があります』

感覚過敏こそ障害特性の本体と識っている私は、
「なるほど!言い得て妙だなぁ」と深く頷いた、素晴らしい表現です。

けれど『頭が硬い、こだわりが強い、融通が利かない。だから社会とうまくやっていけない』という、定型多数派視点の現象論で障害特性を捉えている限り……

当事者さんの『五感に凸凹が…』という訴えに「なるほど!それは、難儀でしょうねぇ」と提携多数派から共感・理解を得ることは、非常に難しいのが現状。

極端に鋭敏な感覚ゆえ、感覚飽和=パニックに陥ったり。それが嵩じて脳の許容量を超えたために、感覚鈍磨・感覚遮断が起きてしまったり。五感に凸凹があることは、感覚の不全・欠損と同様、当事者さんが生きていく上でとても大きな難儀なのですが。

ともかく、見えるし・聞こえるし・感じられる……
なら、大丈夫でしょ?と、定型多数派視点で片付けられてしまいがち。

当事者さん自身が、どんなふうに感じ・考え・理解するのか?

現象論では捉えきれない、“多様性”の豊饒と混沌と驚異を、
今後も当事者さん自身の言葉で、語り続けて戴きたいです。

『頭の中は「無理」「ムリ」「むり」「無理」という言葉しかありません』
『マイナスの考えが僕を支配します』

支援を受けて回復の途上にあっても、“負の記憶”が脳を支配するのは……

俊介さん曰く『五感に凸凹がある』特性が、
記憶の“組成”にも影響を与えているためではないかと、私は考えています。

記憶というものは、身体の内外から感受した“感覚情報”に、その時の自分が認知した“事実情報”が補填され、綯い交ぜになって刻み込まれるのだと思うんですけど。

五感に凸凹がある当事者さんは、鋭敏すぎる五感を介し(俊介さんの場合は、恐らく視覚)、身体の内外から精緻細密かつ大量に受け取り続ける“感覚情報”を絞り込み、意味や行動にまとめあげる=認知するのがゆっくりなので。

殊に、失敗してしまった時の記憶の“組成”が……

敏感な視覚で相手の表情から非言語的な“事実情報”として読み取った、他者のマイナスの“感覚情報”(非難や軽蔑)と、ご自身が感じたマイナスの“感覚情報”(自責や羞恥)だけで占められてしまい、メタ認知が客観的に捉えたプラスの“事実情報”(経緯や弁護)を補填して、バランスをとる余地が無くなってしまうのでしょう。

「失敗は成功のもと」という諺は、他者から向けられた&自分が感じたマイナスの“感覚情報”に、メタ認知が客観した失敗の原因や対策というプラスの“事実情報”が、綯い交ぜになって記憶されるからこそ、成り立つので。

『五感に凸凹がある』ため、認知をまとめあげるのがゆっくりな当事者さんには、客観的なプラスの“事実情報”を補塡して、失敗の記憶を次回の成功へ結びつけられる支援が、特に肝要な所以。

「努力は自分を裏切らない」という、大野さんのプラスの“経験”に裏打ちされた励ましは、俊介さんにとって何より心強い一言だったと思います。

『有名な発達障害の専門医をしても』ヒロさんの予後(診断後の療育経過)が思わしくなかったのは、第一に『五感に凸凹がある』特性が非常に強かったため。

そして、ヒロさんが病院で検査漬けにされた挙げ句、アスペルガー症候群・ADHDと診断された10年以上前は、『有名な発達障害の専門医をしても』障害特性の本体が『五感に凸凹がある』ことだと、未だ理解されていなかったからなのです。

ヒロさんに関わっていた大人達が、誰一人として、問題行動で不適応すなわち障碍を訴えているキミへ、妥当かつ充分な対応が取れなかった原因は、

『いつも自分のことしか考えていない』『落ち着きがなくいつも動き回っている』

その原理を追及すること無く、『とても程度が悪い』当事者を支援できる「つもり」になっていただけだから。

『頭が硬い、こだわりが強い、融通が利かない。だから社会とうまくやっていけない』と、定型多数派視点の現象論で捉えているだけでは、特性が強い当事者さんの“多様性”へ対応しきれず、二次障害を深刻化するだけだと、判っていなかったから。

専門家・支援者でも理解しきれないこと・判らないことがあるのは、止むを得ません。

けれど、自分の無知蒙昧に気づかないまま、当事者さんが抱えている“難儀”の原理を追求せず、支援できる「つもり」になってしまう自己過信にだけは、陥らないで戴きたいと切に願います。

『社会とつながれるようになるまでには時間がとてもかかります』
『時間が長引けばお金がかかる』

それは、当事者さん達が、公的支援から取りこぼされる所以でもあり……

親御さんは勿論、教師でさえ、当事者さんが抱える“難儀”の本体や将来の伸びしろを、関わる大人が見誤ってしまう所以でもあるのでしょう。

でも、当事者さんの“多様性”こそが、不適応の根本原因なので……

問題行動を解消し、社会適応へと導くための対応手段もまた、必然的に“多様性”へ呼応しうる『個別でオーダーメイドの支援』になるのでしょう。

その点への理解が不足していたため、ヒロさんへ下された診断に、『清々しいほど』納得なさっていたお父さんの優れたメタ認知を以てしても、『24時間365日の支援』までは必要ない、と結果的に誤った判断をさせてしまったのだと拝察。

たとえ診断名は同一でも、当事者さんの抱える“難儀”は千差万別である旨を、まず識って戴く必要があります。

そういう観点からも、一律の診断名やIQスコアで片付けるのではなく、特性をプロファイリングした上で、表面的な印象や先入観に囚われることなく、関わる大人達全てが正しく共有する、保護者・支援者間の緊密な関係性が肝要です。

ヒロさんの言う『全部お任せするくらいの覚悟』は、そのスタートライン。
『ご両親さん』は、必要経費さえ払えば放任OK、ってことじゃないっすよ。

2015-07-26 『辞職のご報告 俊介』へ寄せて


『辞めることにしました』『短い期間でしたがありがとうございました』

世間的に言えば、辞職は“失敗”なのですが……
今回の俊介さんは、なんと『マイナスの考え』に支配されていません!

青木先生から「満点を取る必要はない・半分の成績を取ればいい」と諭されて、
『性格的にそれは無理』と応じておられますけれど。

“マイナスの記憶”で頭がいっぱいになってしまった時と、大きく違うのは……

ご自分の性格を『ちゃんとしないと気が済まない』と、冷静に客観できているメタ認知が、『だから学校に行かせてもらっている以上、全勢力で立ち向かわなければ』と、まとめ上げた“事実情報”で、シッカリ補塡された結論だから。

それに加えて、青木先生や大野さんは勿論、ブログを通じて『励まし続けていただいた皆様』ともガッツリ気持ちをシェア、すなわち感覚情報の共有も出来てます。

だからこそ、せっかく任された『日本食堂の責任者をやめる』という“失敗”でも、『学校の勉強だけに僕の時間を集中させたい』という能動的な決断、すなわち行動化の瞬発力へバッチリ結びつけることが出来たワケで……

これこそ正に、『五感に凸凹がある』特性から、記憶の“組成”がマイナスの“感覚情報”だけで占められてしまいがちな当事者さんでも、失敗の記憶を成功へ結びつけられる『経験を積ませる』支援なんですね。

2015-07-27 『新幹線が怖い 俊介』へ寄せて


『自分で切符を購入して新幹線に乗ったことがないんです』

駅の中でも新幹線の乗車口は、特に視覚的な刺激が溢れてるし、常時混雑してますからねぇ。『五感に凸凹がある』当事者さん、取り分け、過ぎるほどに鋭敏な視覚をお持ちな俊介さんには、『怖い』と感ずるくらい不安が嵩じてしまうのも無理からぬこと。

『情けなくて涙が出そうです』

自嘲しておられますが、『五感に凸凹がある』特性なら至極当然なことなのです。

そして、状況ごとに選択肢が多い件も、身体の内外から受け取り続ける精緻膨大な“感覚情報”で、ワーキングメモリが飽和しがちな当事者さんには、不安を助長する要因。

定型多数派の視点だけで利便性を追求しても、当事者さんの“多様性”に適応できるワケじゃない、という典型例ですね。

とは言え、一度だけでも不安の壁を乗り越え、「圧倒的な経験不足」を補塡する“事実情報”を得られれば、不適応は必ず解消出来るので。俊介さんのメタ認知感覚情報の共有力を以てすれば、きっと行動化の瞬発力へ結びつけられると思いますよ。

『「忘れ物をした」ので慌てて窓口の場所から外に出たんだという振りをした』

緊張のあまり、脳内妄想設定に逃げ込んだ覚えがある人は、
定型多数派だって、実は結構いるんじゃないかと思います。

この記事で、俊介さんが果敢に立ち向かおうとしてらっしゃる不安は……
多くの定型多数派が10代から20代に経験し乗り越えてきた不安と、内容的には、かなり似通っているように思われます。

唯一の違いは、俊介さんが『五感の凸凹』という“難儀”を抱えてらっしゃる点。

たとえ視覚だけでも、突出して鋭敏すぎる感覚を備えていれば、外界から受け取る“感覚情報”の量は膨大になります。同じく「不安」という言葉で表現する感情であっても、その組成は、定型多数派と大きく異なっていると拝察。

俊介さんのメタ認知は『こんな性格は嫌なんで変えていこうとしている』のに……

『疲れます』『まだまだ変わらない』

ついつい愚痴りたくなるくらい『大変』なのは、重み付けして絞り込み、意味や行動にまとめ上げねばならない“感覚情報”の量が多すぎるから。

「大変大変と自分の口で言うと良くない」というヒロさんの意見には反しますが。
どれほど大変か切々と綴って下さるのも、俊介さんの重要な役割だと思いますよ。

『たくさんの人がいて並ぶのが怖い。みんな平気で並んで購入しているのに…』

文章で綴って下さっているから、こんな野次馬の“傍目八目”も呟けますが……

俊介さんが日頃体験なさってる“感覚飽和”を、身体の内外から感受し続ける知覚そのままに追体験することが出来たなら。『平気で並んで購入している』定型多数派も、きっと『その場でうずくまり』『何度もため息をつ』く他なくなってしまうと思います。

『厄介なこと』の正体は、当事者さんが抱える『五感の凸凹』という“難儀”であり。

定型多数派の五感が、『信じられないほどの人がいる』状況でも『平気で並んで』いられるくらい、イイ具合に“鈍感”である件に、『なんでだろう』と自己ツッコミを入れられない『みんな』の無知蒙昧と自己過信。

名古屋駅に雑踏していた『みんな』の10人に一人、ぃや100人に一人でも
世の中には『五感の凸凹』という“多様性”を持つ人がいると識っていたら……

チケットが買えなくて座り込んでしまった俊介さんへ、
声を掛けてくれたのは、警邏中の制服警察官さんじゃなかった、かも知れません。

「苦手を避けて、得意を伸ばす」

発達障碍について識ろうとすると、必ず目にすることになる一節。
ですが成長の過程で、五感の凸凹から次々と生じる「苦手を避けて」ばかりだと……

たとえ学校や会社へ通えていたとしても『自信を獲得できず』、その場に形成されている『社会からひきこもらざるを得な』くなってしまいます。

もともと得意だったことで他人より優れても、自己満足に慢心するだけで、他者からの励ましを素直に受け取れる“感覚情報の共有力”と、得意なことで社会に貢献し、本当の『自信を獲得』するために必要な“行動化の瞬発力”は、育成できないから……

回避すべきは「苦手」ではなく。
メタ認知の補塡が無いまま失敗の経験ばかりを積んで、
「誤学習・二次障害を生じてしまうこと」なんです。

だからこそ当事者さんには、五感の凸凹で阻害されてきたメタ認知を補い、社会適応に必要な『失敗しない経験』を先導してくれる、師匠=メンターとの出会いが必須。

無事にマニラへ到着できた俊介さんも、薄々気づいておられるかもしれませんが。
あの青木先生が、『セントレアからのチケットを購入していなかった』のって……

ひょっとしたら、後で“種明かし”があったのかもしれませんね。


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