2016年2月19日金曜日

「育ち」と「生き方」

世の中では、いろいろな「事象」が起こります。

この言葉を辞書で調べてみると、『(認識の対象としての)出来事や事柄』と説明されています。三省堂の大辞林では例文に「自然界の-」と挙げていますが、特に自然界に限らずとも、世界中のあらゆる所で起こる『出来事や事柄』です。

しかし「事象」は、辞書の説明に括弧書きで但してある通り、『認識の対象』となって初めて、何らかの意味を持つようになります。つまり「誰か」が認識しない限りは、世界中あらゆる所で起こっている事だとしても、無いも同然なのです。

***

そうなると「誰」が認識するか?で、全く同一の「事象」である筈なのに、意味合いが変わってしまう、という状況が生じます。

「私」の身の上に、何らかの「事象」が起これば、まず「私」が認識する。
また、「私」が人間であれば、必ず認識した「事象」によって感覚を刺激され、五感を通じていろいろな情報を感受することになります。

つまり、単なる『出来事や事柄』すなわち、事実情報に過ぎなかった「事象」は、「私」の五感を通じて認識されたことで、いろいろな感覚情報へ変わってしまいます。

さらに、複数の「私」すなわち、別々の人間が認識すれば、同一の『事実情報』だった筈なのに、各々全く異なる『いろいろな感覚情報』へ、変換されてしまうのです。

***

以上の、人間が「事象」を認識する「心の働き」は
心理を考察する上での、基本概念だと思っています。

この文章を書いている「私」は、心理を専門的に勉強した経験が無いのですが。自然界の「事象」の(ことわり)を窮める学問で、学位を頂戴した大学・大学院の課程を通じ、教えを請うた師父・師兄の「生き方」に倣って、天然自然に体得へ至った概念です。

そして、「事象」の理を窮めるには、特に自然界に限らずとも、人間の心の中で起こる『出来事や事柄』だったとしても、各々の「私」によって異なる『いろいろな感覚情報』で左右されぬよう、客観的な『事実情報』として認識することが必要なはずです。

逆に言えば、どんなに一生懸命、心理を専門的に勉強したご経験をお持ちでも、五感を通じて『いろいろな感覚情報』へ変換してしまう「私」の「心の働き」に左右される「生き方」を選ぶままでは、客観的な『事実情報』として認識することは不可能です。

「生き方」が変われば、過去の「育ち」に対する認識さえ、変えられます。

けれど、「私」の「心の働き」に左右される「生き方」を変えられなければ……
「こども」から「おとな」へ年齢を重ねても あるいは「親」になったとしても

その「私」は、「育ち」に囚われたままなのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿