2016年2月9日火曜日

大切な事は、みんな

4年前の8月、とある事情で京都大学を訪れていた私は、とある経緯で総合人間学部の一校舎にいた。私自身は「当事者」ではなかったので、目的とする部屋への入室を遠慮し、所用が済むのを廊下で待つ事にした。

旧い校舎だから、全館空調の設備は無い。そして夏期休業中だから、人通りが疎らな所では照明の電源さえ入っていない。つまり、ひどく蒸し暑い上に薄暗い場所で、いつまでとも知れぬ暇を持て余す事となった。

当初は「当事者」たる娘が入って行った扉の前で、室内の気配を伺っていたが。教授と思しき紳士の声が、何やら語り続けているのみ。その部屋の出入りが知れれば差し支えなかろうと判断し、廊下を歩いてみる。

無聊を慰めるべく、周囲を丹念に観察しながら……とは言え大学の廊下なぞ、何処も埃っぽく雑然としているばかりで、変わり映えはしない。特段興味を惹かれる事物も無く、一方の端まで突き当たりかけた時。思いも寄らぬ“再会”に、はっと息を呑んだ。

絹糸のように繊細な金髪と、深い湖を想わせる翠色の瞳。一目で「彼」と知れる、少女のような美貌と娼婦のような妖艶を描き手から賦与された少年は、驕奢なフォントルロイ・スーツを纏い、無造作に貼られたポスターの中から物憂げな眼差しを投げかける。

最期の瞬間に切望した『未だ誰をも知ることのない』瑞々しい春の光の中……架空の存在でありながら、真向かう者を圧倒する佇まい。蒸し暑くて埃っぽい薄暗がりに、突如顕現した儚くも甘やかな肖像へ、五感の不快も心底の屈託も忘れて魅入られつつ……

私の脳裏に閃いたのは、『人間についての根源的、総合的理解』をraison d'êtreと定めた学府で、その少年に再び邂逅できた奇遇が導く天啓だった。

***

その年の暮れ、とある創作漫画へ耽溺した私は、翌年の2月、慮外な拍子に構想を得て猛然と二次小説を書き始めた。合算9万2千余字に至った連作の発端は、「彼」を創出なさった竹宮惠子先生が、教授職を勤めておられる大学で主催されたシンポジウムのポスターを、あの日、娘が第一志望と定めた学部でも掲示していた一事に行き着く。

描かれていた少年の名はジルベール
寺山修司が「これからのコミックは、『風と木の詩』以前・以後という呼び方で、変わってゆくことだろう」と激賞し、河合隼雄が「女性が越えるべき内的な問題を描いている」と論賛し、上野千鶴子が「少年愛漫画の金字塔」と称揚した作品の主人公。

……なんて他人様の賛辞は、私にとって本質ではない。それまでの十数年間、娘の自家製療育へ注いできたものを、かつて愛して止まなかった行為に転向させることで、当事者と支援者の「距離」へ移行しようと、元実験研究者の直感が働いただけのこと。

果たして娘は、受験生の母でありながら突如「真性腐女子」を宣言し、ささやかながらも同人活動に勤しむ私を見て「こりゃ、自分がシッカリせなアカンな!」と、覚悟してくれた……か、どうかはともかく。親であっても他我があるのだという「距離」を娘に実感させる効果は期待のとおりだった、と我田引水ながら自負している。

そして、もっと大切なのは、私自身が高校生だった頃、心の裡に激しく渦巻いていたSturm und Drangを思い起こさせてくれた事。天真爛漫に相手の言葉へ耳を傾けることが出来た日なんて、数えるほどしか無かったのに。自分の存在自体を消し去ってしまえたら楽なのに、なんて沈鬱に耽った日は数え切れないほどだったじゃないか。

  大切な事は、みんな           必要な事は、きっと 
  自分の心に、もう準備されている     忘れてしまったふりをしない覚悟

『風と木の詩』を描くために必要だった   「ライフワーク」実現に必要だった 
『ポーの一族』描いた友人との「距離」  「悲観」と「満足感」と「心の闇」

「あるがままにしか振る舞えなかった」過去を、忘れてしまったふりをせず真っ直ぐに
綴って下さった竹宮惠子先生の覚悟をこそ、私は貴く有り難く愛おしく拝読しました。

0 件のコメント:

コメントを投稿