2016年3月12日土曜日

Nurture is above Nature

『ご本人が「障碍に納得していない」という点に、驚きました』

1月末に公開した拙文『Success but Not Enough』を、ご多忙の合間にご笑覧下さった「とある成人当事者ブロガー様」から、ご自身は『診断されて、安堵感のほうが強い』と補足の上、直截にして丁寧なご感想を頂戴しました。

世間では「発達障害(障碍/障がい)」の一語で、括られてしまいますが。

当事者さんの持って生まれた特性やら、「育ち」を支えたご家庭の環境やら、障害告知後に選んだ「生き方」の経緯やら。置かれている現況や抱えている難儀は、文字どおり百人百様 ・千差万別ゆえに、一言では括れる筈も無く。

じゃあ症候によって細分化すれば……という話でもないのは、「生まれ」「育ち」「生き方」のいずれも切り離せない、当事者さんの「多様性」をご自身がどう受容するか?という難問へ、確実な成功を保障してくれる“正解”が無いからだと、私は思うのです。

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発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
けれど、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
それがために、「みんな」なら「普通」の努力を積めば、いろいろ問題にぶつかったとしても・そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路が、発達障害当事者にとっては各人各様の『難関』になってしまいます。

「育ち」を支える親からすれば、子どもに対して「配慮と我慢」を心掛けるにしても、「育ち」に関わって下さる皆様へ配慮を依頼し続ける、我慢に申し訳を立てる意味でも。持って生まれた「障害」と諦観してしまった方が、気持ちに納まりが付いたり……

成人後に診断された当事者さんも『なぜ周りが出来ることが、自分は出来ないのか?』という疎外感を抱えつつ、されど「みんな」の「普通」に追いつく「育ち」が叶ったケースなら、全て「障害」の所為だったという“解答”に安堵を感じられるのでしょう。

しかし、物心が付く以前であれ・思春期のとば口であれ。未だ確たる「経験」の自覚が無いまま、障害を告知され診断名のラベルを貼られ、だから「みんな」の「普通」を倍する努力が必要と、教諭される一方だった当事者の心は納まり所が無いと思うのです。

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諦観にせよ、安堵にせよ、納得にせよ。自分の意思や努力が及ばぬ「生まれ」が、「生き方」に差し障り害を為しかねない理不尽を、当事者自身が受容するためには、「みんな」の「普通」までそこそこ追いつける「育ち」こそが、不可欠な「経験」であり……

『周りが出来る』やり方では『自分は出来ない』だけなのだと客観的な認識で承認し、自分の「生まれ」へ配慮した上でまずまずの成功へ至れる独自のやり方を工夫すべく、ひとりで群れずに努力を重ねられる我慢こそが、不可欠な「育ち」だと思うのです。

「みんな」の「普通」に倣うだけで「いい学校・いい会社」を目指すのは、「多様性」から目を背けた「育ち」を強要することに他ならぬものの、生まれついての「障害」と諦観した結果、庇護ばかり求めて「配慮と我慢」を学び損ねる「育ち」も妥当に非ず。

二次障害を出来する自尊心の毀損に配慮しつつ、「みんな」の「普通」に追いつける就学歴も必要。生まれついての「多様性」を客観的に認識し、群れずに努力を重ねる我慢を耐えうる療育支援も必須。双方の絶妙な均衡が叶ってこその「生まれ」より「育ち」

「みんな」が「普通」に共有する確実な“正解”ではなく、当事者一人ひとりに“最善”の『Nurture is above Nature』があれば、『…but Not Enough』と納得しない気持ちをも進歩を目指す原動力に変換できると、私は思うのですが……いかがでしょうか?

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