就学前の告知以来、「苦手を避けて 得意を伸ばす」「自己肯定感を持たせるために 成功体験を」という療育の専門家が仰る定法を遵守し、背伸びを戒め失敗をさせないことこそ、娘の「生まれ」に対する適切な合理的配慮だと、中学まで心得て来たのですが。
高校受験を控えてお世話になった進学教室で、『励ます力』の極意に気付かせて戴いたのを契機に、むしろ失敗の経験を懼れずそれを乗り越えた「成長体験」が、「生まれ」に支障された彼女の「育ち」を促せる最善かも知れない、と考えるようになりました。
改めて娘へ訊ねてみた所、疎外感の原因だった「多様性」を、「みんな」の「普通」な努力だけでは克己しがたい「障碍」と客観的に認識し、ひとりで群れずに精進する我慢の必然を、渋々ながらも承服するに至ったのは、高校2年へ進級した頃だったそうで。
具体的には何がキッカケ?と質問を重ねれば。成績不振で学年主任から呼び出され、面談では「頑張ります」と答えたものの。きっと特進クラスから外されてしまう、と内心諦めていた時に、新学期の学級編成で再挑戦の機会を与えて戴けた件、だったらしく。
国立大へ合格なさった皆さんが辞退した席を補うべく、辛くも入学をお許し戴いた受験結果にも関わらず。学業成績でも人間関係でも大過なく成長への努力が叶ったこの1年の所以は、要するに高校2年で予習済みの「難関」だったからという次第のようです。
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今にして思えば、定法として確立された療育に、接する機会が皆無だったからこそ。娘の特性を真摯に観察・考察し、彼女の教育を担って下さる先生がたと信頼を結び知恵を拝借して、問題行動に即した適応を模索することのみへ、私は専心できたのでしょう。
と申しますのも、理(ことわり)を窮める学問で体得した客観に於いて、専ら当事者の皆様が綴って下さった文章を、十数年間の自家製療育で指針とさせて戴いてきた限り、障碍の機序を解題し得ない学問では、時流に左右される対症療法しか所詮は提唱出来ないという、ある意味では当然の諦念を、誠に遺憾かつ僭越ながら禁じ得なかったためで……
大学の講義で臨床心理学の概要を生真面目に勉強し、おかげさまで好評価を戴けた娘も同じく。「みんな」の心理が「普通」にたどる定型の発達過程を理解しても、自分の意思や努力が及ばぬ「生まれ」が、「育ち」と「生き方」を支障する不条理を、当事者が納得出来る解答は教示される訳じゃないと、当たり前の覚悟を据えるに至った模様。
無論、定法として確立された療育は、二次障害の予防策として期待されます。ですが『定型なら……となる筈』が万理でないからこそ、生命を司る万世普遍の原理であるべき「多様性」が、社会で「障害(障碍/障がい)」になってしまうのではないでしょうか?
専門家の療育指導を受けてきたからきっと大丈夫、と断言できる保障は無いのと同時に、療育へ接する機会が皆無だったから二次障害を起こしてしまった、という悔悟も障碍の機序を理解しないまま定型の主観に立ち続けているという点で、当事者が抱え続けている疎外感の原因すなわち「多様性」には向き合えていない、と私は思うのです。
前回の記事で、「みんな」の「普通」に追いつける学歴と、我慢の必然を承服しうる療育の、双方絶妙な均衡が叶って最善の『Nurture is above Nature』と考察しました。だからこそ療育に何某かの不足があった当事者は、「障害」を補完し自分の人生への信頼を回復する『再挑戦の機会』として最高学府での修学が望ましい、と私は考えるのです。
「みんな」の「普通」に倣って、「いい学校・いい会社」を目指すため、ではなく
「苦手を補完し 得意を伸ばす」「自己肯定感を持てる “成長”体験を」するために。
惑うことのないメタ認知と、憂うことのない感覚情報の共有力と、懼れることのない行動化の瞬発力を得るため、発達障碍を抱えた娘は大学で学び、大学院を志しています。
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