2017年8月5日土曜日

多様性発達者の修学支援

通うべき所へ通い続けられる「配慮と我慢」の自発を最優先に据え、娘が大学生活に馴れてきた頃合いを見計らいつつ2回生で早々に始動した就労支援の「予習」は、3回生の春学期を終えた現時点で『何をしたいのか そのために何をすべきか』という認知を彼女自身が把握できる俯瞰を確立し、後は大学のキャリアセンターやサークルの大先輩がたのご指導ご鞭撻を宜しく頂戴するばかり……という所へギリギリで漕ぎ着けました。

これでようやく、修学支援へ主力をシフトできます。

あれっ?! 修学支援で卒業単位を満了できる見込みが立ってから、就労支援へ移行するんじゃないの?と思った親御さんには僭越な物言い誠に恐縮ながら、それこそ「就活がうまく進まない」盲点。「みんな」なら卒業の目処が立った頃合いで始める就労支援を、むしろ先行させ「予習」しておかねば充分に特化した修学支援とはなり得ないのが「普通」の枠を大きく逸脱したPolymorphous Developments=多様性発達者なのです。

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その理由は、大学すなわち高等教育に於ける修学とは何を以て完了と判断するのか、改めて「疑問を持って 詳しく調べる」ことで自明となります。たとえば、毎度リンクでお世話になっているウィキペディアの『概要』から引用させて戴くと、
『高等教育は、中等教育を修了した者またはそれと同等以上とみなされた者が知識・倫理・技術などを深く学び、さらにそれらの理論や実践を身に付ける。そのことを通じて、課程を修了した後に、職業人(研究者を含む)となるなどして広く社会に、教育の成果を還元する。』
とあります。つまり厳密には、授かった教育の成果を社会へ還元すべく「職業人として何を為すか そのために何を学ぶべきか」という認知を学生自身が把握できる俯瞰に専門課程の段階で到達していなければ、高等教育を万全に修めたとは言い難い。これは、前々回の拙記事で言及した某有名私立大の学生相談室でのご対応を、僭越の誹りを敢えて懼れずお節介にも『大いに憂慮すべき現状』と論評させて戴いた根拠でもあります。

すなわち合理的配慮を提供すべき立場に在りながら「みんな」が辿る「普通」の枠に合わせて卒業単位さえ揃えられたら修学支援は完了と判断し、キャリアセンターの就職支援で成果が出せないならとっとと卒業して学外の就労移行支援事業所へどうぞと勧告する対応は、最高学府が担保すべき高等教育の本懐を踏みにじる行為にほかなりません。

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さりながら法制化以後も私立学校では合理的配慮が努力義務と規定された以上、大学側から十全のサポートを引き出すには、相談室へ縋る一方ではなくwin-winの関係へ持ち込める交渉材料が必須。そのためにも単に「みんな」の「普通」に追い着かせようという観点ではなく、多様性発達者ならではの「特別」を磨いておく備えが大切でしょう。

すなわち「みんな」なら卒業の目処が立ち始める3回生の秋学期頃おもむろに、就職したら『何をしたいのか』という認知を意識するのが「普通」でしょうが、1年以上前倒しで2回生への進級早々に就労支援の「予習」を始動しておけば、五感や認知の凸凹を抱える多様性発達者にとって習得が苦手な社会と呼応する知恵の育ちを構造的・弁証的に促しつつ、元来得意な知識・知能の切磋をより重層的・多元的に発展できるのです。

とは言えこの戦略は、ムダに鋭敏な五感で身体の内外から感受し続けるムダに精細な情報ゆえに、脳が飽和しがちな当事者の許容量に対し相当な「配慮と我慢」を要します。例えば「みんな」なら大学生活に余裕が出て来る2回生から3回生は、講義の合間に定期のアルバイトを入れて就労への「予習」とするのが「普通」なのでしょうが、日常の体験から他者と繋がる知恵を自得するのが苦手な多様性発達者からすれば却って鬼門。

一見すると大過なくバイトをこなしている様子でも、与えられた課題なら知識(=既得の事実情報)知能(=鍛錬した思考過程)を駆使して定められた正解へ到達できる生来の得意で、指示されるがままに限定的な他者へ資する知恵=代行性能を発揮しているだけ。就労に要する『様々な業界や職種に転用可能なスキル』、すなわち『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』といった発展的な他者と繋がる知恵=対人性能の誘導にまで到るのは、バイトを介した不安定な人脈では難しいでしょう。

という次第で学期中の定期バイトも休暇中の短期バイトも −−− 通学の交通費・食費やサークルの会費・諸経費など授業料以外に要する日常の支出が結構な額に上る旨、スマホの表計算アプリで記録させ勤労の行動化への自覚を促しつつ −−− 親の督促は「配慮と我慢」。一度だけですが、サークルで使う私物に高価な品を奮発したいとの動機で自発的に学内公募の短期バイトへ参加しましたから、ゆっくり奏功していると考えています。

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「みんな」が当たり前に経ている「普通」の一部を棚上げして確保した時間と脳の容量は、娘ならではの「特別」すなわち元来得意とする知識と知能=専門性能の切磋を、他者と繋がり社会と呼応する知恵=対人性能の伸長へ連動させることに、絶賛注力中。具体的に言えば、第一志望の教授からご指導戴ける運びとなった専門ゼミと、幼い頃から慣れ親しんだ場の「中の人」になれる国家資格を取得するため必須な実習講座ですね。

これもまた大学生なら当たり前に経ている「普通」の体験ですが、多様性発達者ならではの「特別」を磨く好機として最大限に活かそうと目論むのが、拙宅特製の修学支援。

まずはオカンの入院を機にガッツリ根付い「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣応用し、毎回の履修内容を娘が自発的に言語化→親子で論考を交えて重層化→多元化させる自学自習の課題を協議することで、単位取得に留まらない「特別」を目指してます。4回生への進級時には専門ゼミ/実習講座の各指導教授へ卒業研究/就職活動のメンターをお願いすべく、win-winの関係へ繋がる交渉材料に昇華させていく戦術です。

と言うのも、3回生ともなれば講義内容の専門性が高くなり、殊に娘が得意の語学や社会学の領域では、私が教えてもらう一方。一般教養課程での「予習」ではGPAの高得点を交渉材料に基礎ゼミ担任教授へ暫定メンターをお願いしたのと同じ要領で、本格的に家庭の埒外でメンターとの長きに渉る人脈を築く段階が、いよいよ迫っているのです。

たいへん有り難いことに、娘は生来得意な知識と知能=専門性能の切磋を積むため、本邦有数の規模を誇る大学図書館書籍文献を我が庭の如く渉猟する日々を、心の趣くまま絶賛堪能中。曰く「こんなに勉強が楽しいのは生まれて初めて」と晩熟を謳歌している彼女へは、小学5年で担任して下さったS先生が「大学へ入ってからの方が、上手くいくタイプ」と断言しメンターを務めて戴けた僥倖の予言通りなのだと話しています。

つまり娘の多様性発達者ならではの「特別」は、「みんな」が辿る「普通」を外れているからこそ育った『自己の向上 −−− より自分らしく より愛情深く より公平に よりおおらかに より世の中に役にたつように より人間らしく −−− を意志する』人格なのです。

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他所様のお子さんをあげつらうのは本意ではありませんが、娘曰く「普通」の育ちを辿った「みんな」は概ね −−− 学友の多くは首都圏にある中高一貫校の出身ですが −−− 大学での勉強を楽しいと感じていない、とのこと。大抵は叶う限りの楽をして単位を揃える方策に腐心し、就職までの数年間を効率良く遊ぶことへ注力している。察するに小学生から受験勉強へ邁進させられ疲弊してしまったのだろう、というのが彼女の見立て。

娘は学友たちを批判しているわけではありません。できるだけ楽単(楽に取れる単位、という意味ですね)を集めて確保した時間に、できるだけバイトを入れて遊ぶための小遣いを稼ぐのが、「みんな」にとって「普通」の大学生活と平らかに承知し大らかに受容した上、10年間も懸命に勉強し続けた成果がそれじゃ気の毒、と共感を抱きつつ俯瞰している。

無論、相対的には少数ながら個性的な「特別」を早熟させた上に大学での勉強も大いに満喫し、かつ更なる向上を志して意識の高い有意義な数年間を積んでいく学友 −−− 有り難いことに娘が所属しているゼミやサークルには、このタイプの地方トップ高出身のお子さんが幾人もおられます −−− の優秀さも、率直な敬愛を抱きながら俯瞰しています。

それと同時に、自分は発達障碍の告知を下され自家製療育を受けたからこそ「普通」の枠に嵌め込まれたままの「みんな」が立つ地平を離陸し、自己の向上を意識的に志せる自分ならではの「特別」な俯瞰への飛躍が叶ったのだと −−− 多様性発達者として生を受けたのは、むしろ幸運だったのだと −−− 一点の曇りも無く納得できる認知を得た模様。

S先生から頂戴した10年を見通す予言には比ぶべくもありませんけれど、1回生の秋学期を終えようという頃、大学合格が『大きく娘の将来を左右する成功体験』なのは『娘自身が、自分の障碍に納得していないから』と、一見逆説的な論旨を張った「変なお母さん」の屁理屈上等な傍目八目が、布石の回収を果たせたと言うところでしょうかw

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そして私自身の「変なお母さん」ならではの「特別」は、子育てという行為を単に「みんな」が辿る「普通」の家族の営みとして限定することなく、好奇心主導理系女子として授かった専門教育を実践し社会へ還元するためのケーススタディ −−− 五感や認知の凸凹を生来抱える子どもの成育過程を社会的・文化的背景と関連させながら詳細に論考し,そこから一般法則を見いだしていく俯瞰 −−− へ昇華させようと試みる意志です。

一人娘の発達に顕著な遅れがあると指摘されても平らかに承知し大らかに受容した上、本格的に自家製療育を始動した小学4年生 −−− 中高一貫校を目指すお子さん達なら受験勉強を始める時機ですね −−− から数えれば12年間に渉って勉強し続けた成果をつらつら鑑みるに、最終学歴が中等教育であれ高等教育であれ多様性発達者としての成長を叶えるため修めるべき学びの本質は「大人のリテラシー」だと考えるようになりました。

「リテラシー」という言葉は旧来「読み書き能力」という意味でしたが、近頃は「情報を的確に読み解き、それを活用するために要する力」を意味する用語。そして「大人のリテラシー」とは、自我他我の両方から感受・認知した情報を的確に読み解いた上、自身にとっても他者にとっても最善を導く選択は何か模索できる力 −−− 知識と知能=専門性能知恵=対人性能の両方が概ねバランス良く成熟した状態 −−− を意味しています。

勿論、定型発達のお子さんであっても「大人のリテラシー」は修めるべき学びの本質である筈ですが、「普通」の育ちを辿ったケースは概ね「みんな」に倣うだけで楽をして単位を揃えられる。つまり感受・認知した情報を意識的に読解・模索せずとも天然自然に妥当・相応な行動化が叶ってしまうため、「普通」の枠に嵌め込まれたままの地平をわざわざ離陸せずとも「みんな」大過なく平穏に齢を重ね所属を得て来たのでしょう。

しかし人間の社会を牽引して来たのは常に、自我他我の両方から感受・認知した情報を的確に読み解いた上、自身にとっても他者にとっても最善を導く選択は何か模索できる力、すなわち「大人のリテラシー」を備えた人格だったことを歴史が証明しています。

早熟の才能が顕れなかったとしても「普通」の枠に嵌まらない多様性を備えたお子さんは、「みんな」が立つ地平を離陸し自己の向上を志す「特別」な俯瞰へ飛躍しうる晩熟の可能性を大いに潜在させている旨、十全に汲んだ修学支援をこそ願って止みません。


【補記】Polymorphous Developments=多様性発達者とは……
定型発達からの逸脱を呈しつつも、発達障害的な行動を表出させない「合理的配慮」を自ら体得できた症例です。信州大学医学部付属病院 子どものこころ診療部本田 秀夫 先生が仰る、「非障害自閉症スペクトラム」に想を得ていますが、拙文における「多様性発達者」の定義は、専門医の診断も専門家の療育指導も、その有無を問いません。

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