関東では一昨日、ほぼ平年並みに梅雨が明け、昨日は大暑。
そして本日も、高曇りで蓋をされた所へ真夏の陽射しが照りつけ、雷雨が過ぎた後も依然、地表には蒸し暑さが籠もっております。
今回のお題と致しました“送り犬”。本来は“山犬”とも別称され、日本各地に伝説が残る妖怪です。夜中に山道を歩くと、いつの間にか背後へピタリと付いて来て、何かの拍子で転ぶと忽ち食い殺されてしまう、という聞くだに恐ろしい怪異。
暑中見舞いに、そんな肝の冷えるお話でも一席、と思ったのですが。名付け親が、旧い火山を御神体とする正二位の大御神、しかも数え九つまで神奈備で生い育ったためか、護りが強いようで。生憎、怪談の持ち合わせがございません。
代わりに、48年振りに復活した祇園会の“後祭”を、NHKスペシャルで拝見した折、ふと甦った夏の夜の思い出話にて、暑気払いとさせて戴きたく……
***
大学院生だった時分、所属する研究室は聖護院川原に在った。下宿は浄土寺だったから、黒谷の金戒光明寺、あるいは地続きの真如堂を横切れば、近道になる。
京の街路が、遍く正しく経緯に沿うのは、鴨川まで。左京に入れば、都の日出を画す東山の峰々が迫り、複雑に傾斜する土地に従って、小路は止む無く曲折する。殊に吉田山を擁する京大周辺は、乱麻の如き錯綜ぶりだから、深夜の散歩よろしく、日毎に気儘な帰途を辿るのは、実験に疲れた後の楽しみでもあった。
その当時、黒谷界隈にお住まいの何軒かは、夜廻り代わりに飼い犬を放つ習があり。真夜中の静まり返った辻々を、闊歩する彼ら(主に柴犬系の雑種)に初めて出遭った時は、政令指定都市とは思えぬ鄙びた長閑さに、些かならず驚いた。
しかし、何れも良く躾けられた様子で、道で行き合うだけなら、人にも犬にも吠え付くことなど滅多に無い。各々、衛門府の衛士張りに、自分の持ち場をグルリと検分した後、粛々と家路につく忠犬ばかり。
私自身の嗜好は、断然“猫派”なのだけれど、懐いてくれるのは、むしろ犬の方が顕著で。何度か邂逅する内、とある一匹と懇意になった。彼の方は、私を匂いで覚えてくれたのだろうが、当方は勿論、名を教えて貰う訳にいかず。
ワンと吠える代わりに吐いていた、勇ましげな鼻息に因み「フンちゃん」なる愛称を奉った(夜行中、粗相をする不躾者だったからではない旨、申し添えておく)。
端から見れば、愛犬と深夜の散歩を楽しむ、飼い主と思われただろう。
毎晩ではないものの、数年来。
黒谷に入った辺りから、白川通りを望む辻まで。
フンちゃんは夜廻りの、私は帰宅の途上に同道する機会を重ね、彼は急所である首元さえ、私にモフらせてくれるようになった。さすがに菱沼さんを気取って、無理やり歯列を調べる剛胆さは無かったから、彼の正確な歳は判らない。だが、ゴワゴワした毛並みと、落ち着き払った所作から、老犬と言ってよい齢が伺えた。
老練の衛士が一度だけ、同行の眼前で、激しく吠えたことがある。
ちょうど大暑の候。夜半を過ぎて猶、粘り着くような蒸し暑さに、涼を求めて“くろ谷さん”の境内へ入った。いつもの通り参道を進み、月極駐車場になっている辺りに差し掛かると、傍らを歩いていたフンちゃんが、俄に小走りで先行する。
同朋でも見つけたかと思いきや、嘗て無い恐ろしげな唸り声を上げ、遂には喧しく吠え始めた。少し腰が引けているが、初めて耳にした彼の咆哮は、なかなかに目覚ましい勇猛さ。何事かと街灯の照らす先を遠望するが、何故か相手が見えない。
墓地が近い場所なので、さては怪異や在らんと、ワクテカするも。
近付いてみれば、何のことは無い。アオダイショウが全身をくねらせ、最速モードで道を横断中……と言っても1 mは優に超えており、大抵の皆様は肝を冷やして飛び上がるであろう、大変に立派な個体でしたけど。生物学科出身の理系女子は、感心しつつも、慌てず騒がずお見送り。
異形の大将殿が、石垣の狭間へスルリと消えた後も、フンちゃんは興奮冷めやらぬ様子。頻りに荒い鼻息を吐き、武者震いをしながら私の周りを歩き回っている。然れど彼が守っているつもりの当人が、全く怖がって居ないので、気の毒になった。
「おおきにありがとう。せやけど今夜は、もうお帰り」
礼を言って、暫し宥めるように背中を撫でてやる。私が再び歩き出すと、彼は同道しようとはしなかった。それでも街灯の下、今ひとつ覚束無げに立ち竦んでいるので、さよなら、と手を振って見せる。
何やら納得した如く、神妙な面持ちで元来た道を戻る姿が、最後の邂逅だった。
***
こうして仔細を思い出すと、やっぱり彼は黒谷の“送り犬”だったのかも……なんて気がして参りました。と言うのも、冒頭で触れました正二位の大御神様、実は大蛇が顕現のひとつ。なので、唐突に現れた異形の大将殿は、私に憑いている怪異を祓いに遣わされた、名付け親殿の眷属?てな妄想も膨らんじゃうのですw
礼を述べて別れを告げると、後を追って来なくなる、
という所も、“送り犬”の伝説に合致してますし……
然りながら、その実、深夜の散歩を当分慎みたくなるほど、怖い思いをしていたのに。滅多に吠えなかった老犬が、愛称を奉った恩返しか、健気にもアオダイショウへ立ち向かってくれた夜は、誠に愛おしい左京の夏の思い出となっております。
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