映画の方は若干の屈託もあったが、原作の『利休にたずねよ』は、純粋に小説として面白かった。
取り急ぎ地元の公立図書館で借りた、'09年発行の単行本(第1版・第3刷)を読了した次第で、文庫化の折に掲載されたらしい、宮部みゆき先生の解説は未読だが。私にはミステリアスと言うより、極めてファンタスティックな物語だと思えた。
本作の4年後に刊行されたエッセイ集『利休の風景』も、併せて拝読。著者が利休居士の生涯を綴るに当たって目撃、あるいは幻視してきた“風景”を充分に諒解した後、小説の読解へ臨んだから、書き手の意図は重々汲み取れたと自負している。
その上で、作中に横溢する瑞々しいロマンティシズムは、歴史小説というより、むしろ時代小説のそれに近いと感じた。
確かに背景に配された歴史的事件は、史実のとおり粛々と“逆行”していく。そして登場するのは、読者が熟知した(と思っている)歴史上の人物が専らだから、つい惑わされてしまうけれど。
史書には記されていない、彼らの所作や表情、目の当たりにしたであろう光景や、感じ取ったであろう心情を、精緻鮮烈に描く文章の“肌触り”は、いわゆる市井小説を想起させる程に生々しい。
百姓に生まれ付いた『小癪な小男』が、瞬く間に関白殿下まで登り詰めてしまった下剋上の世を活写するに、なるほど相応しい筆致だろう。しかし、歴史小説をこそ愛読なさる諸姉諸兄にとっては、妄想の天空を自在に飛翔する様が異端異形と感じられたようで。Amazonさんのレビューに散見される厳しい批判は、この作品が成し遂げた革新に対する“勲章”なのかも知れない。
だが、あらゆる“事実”は本来、たとえ当事者の証言でも、個人の主観を介し、過去の事件として語られた瞬間、無意識の作為で脚色された“物語”へ変貌するもの。
時代小説のみならず、歴史小説もまた、歴史的事実の“二次創作”。
その大原則を巧みに隠蔽して、語られた事象は全て“史実”であるかのように、歴史小説の愛読者を幻惑し、逆に史実を題材にした小説に於いて、書き手の空想が自在に飛翔することへ、読み手が強い抵抗を感ずる風潮を生んだのは、司馬遼太郎御大の功罪(と、それを原作にした大河ドラマ)に負うところが大きいのだろう。
然れど個人的には、最終章「恋 千与四郎」につき、字書きとしての嗜好の別に過ぎないけれど、僭越ながら異論があったり……
ミステリーなら、謎解きに当たる章。ゆえに著者は客観に徹し、従前とは打って変わった、ひどく冷淡な筆致で“事件”を綴る。
ところがクライマックスに至った“物語”は、書き手の空想が与えた飛翔力を以て、疾うに“史実”の地表を飛び立ち、ミステリーと言うよりファンタジーと称すべき、遙かな天空の頂に達しようという勢い。
ゆえに利休居士が終生密かに想い続けた『女』は、血肉を持った女人としてではなく、五感の天才が畏れ敬い焦がれ続けた『美』の暗喩として、むしろ徹底的に与四郎の主観を介し、敢えて幻想的に叙述されるべきではなかったか?と私は思う。
しかし山本兼一先生が、そうなさらなかったのは、語る力の不足だとは考えない。初出が『歴史街道』の連載なればこそ、長年編集者を務めてきたからこその、バランス感覚であり矜恃だったのだ、と拝察する。
“物語”を志す者として、小説よりも奇なる“史実”に著者が果敢なる闘いを挑んだことは、紛う事なき“事実”として、作品に刻まれているのだから。
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