この“事件”を、端的に一文で書き表すなら、以下のようになるでしょう。
他罰的な大人と独善的な大人の争いに巻き込まれ、あれ?『発達凸凹当事者さんと直に関わりを持った経験』の話だったのに……
利己的な大人の手段で逃避せざるを得なくなった。
1. クラスメイトの15%以上が、発達凸凹当事者(専門家から勧告を受けた)
2. 上記のうち、定常的な他害行動を発現しているクラスメイトが1名
3. 上記の他に、多動傾向があって立ち歩いてしまうクラスメイトが10%
という、クラスの4分の1が、発達凸凹あるいは問題行動が出てるお子さんで、
占められていたゆえの「学級崩壊」は、“事件”の原因じゃないの?
占められていたゆえの「学級崩壊」は、“事件”の原因じゃないの?
読んで下さった皆さんが、そう疑問に思って下さったなら、誠にありがたい。
実の所、発達に凸凹が・障碍が有るか否かは、“事件”の本質じゃないんです。
実の所、発達に凸凹が・障碍が有るか否かは、“事件”の本質じゃないんです。
***
今、振り返ってみれば。関わっていた大人達は誰一人として、問題行動で不適応すなわち障碍を訴えている子ども達(専門家から勧告を受けたか否かは、本質的な問題ではありません)へ、妥当かつ充分な対応が、全然出来ていませんでした。
4. 加配の教職員は、学級当たり1名
5. 都合がつく保護者が、随時教室で担任を支援する
なんて、ぶっちゃけ「おためごかし」に過ぎない、名ばかりの支援は、所詮、大人の欺瞞でしかなかったと猛省しています。
他罰的だったり、独善的だったり、利己的だったり。
あの“事件”で、「悪い子」であれ「良い子」であれ、“責任者”であれ“真犯人”であれ、“ラベル”を貼り優劣を付けたがる、negativeな感情ばかりが噴出してしまったのは。大人達の側も、事態への不適応を起こしていたからに他なりません。
“合理的配慮”を具現化するつもりだったのに。人間として天然自然な、だからこそ最大最強の心理的障壁を、むしろ助長増幅してしまった、その原因は……
『発達障害者です。みなさまのご理解を!!』と『首からプラカードでもぶら下げ』るような、不愉快極まりない思いを、子ども達に強いておきながら。
その実、彼らが抱えている難儀の本質も、訴えている障碍に合致する支援が何なのかも、全く心得ていなかったのに。支援できる「つもり」になっていた大人達の、無知蒙昧と自己過信にありました。
***
とは言え、私自身が蒙を啓いて戴いた、綾屋 紗月 氏の『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』は2008年の刊行。しかも医学書院から出版された、支援者・専門家向けの単行本です。
障害特性の本体は、過ぎるほどに鋭敏な五感が、身体の内外から【細かく大量に】受け取り続ける【感覚情報】で、脳を“占拠”されること。つまり、感覚過敏による【感覚飽和】なのだと、一般に認知されるようになって来たのは、ごく最近。
今から10年以上前、しかも支援者でも専門家でもなかった教職員と保護者の不見識は、止むを得ない仕儀でもありました。
更に言えば、合理的配慮の実例として良く挙げられる、聴覚や視覚の障碍は、感覚の不全ないし欠損で。障碍を体験したことのない多数派であっても、「聴こえへんかったら・見えへんかったら、難儀やなぁ」と共感・理解しやすいのに。
発達障碍は当事者自身が、【身体内外からの情報を絞り込み、意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】であるため、感覚過敏ないし【感覚飽和】によって障碍が引き起こされている因果を、自覚・認知できていないことさえあって……
掴み所の無い不快感や不安に苛まれるまま、発現してしまう問題行動に相応しい支援は何なのか、当事者本人は勿論、その家族でさえ、見抜くことがとても難しい。周りの定型多数派にとっては、尚更、共感・理解することが非常に困難です。
そして人間は、共感しがたい人・理解できない人へ、天然自然な感情のままにnegativeな“ラベル”を貼り付け、自分より劣った存在と見做しがちなのです。
#【】内は『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』より借用した表現です。
***
だとすれば、最大最強の心理的障壁を乗り越える方法は、一体なんでしょう?
当事者とその家族の側も 周りの定型多数派側も
診断名の“ラベル”を貼って、済ませるのではなく。
発達障碍を正しく識るより他に、術はありません。
授業中、自席を離れて歩き回るのも 友達と仲良くできないのも
学校の成績が芳しくなくても 知能検査の点数に偏りがあっても
心の発達や脳の機能様式が違うからで、「悪い子」だからではありません。
定型多数派向けに設定された教育課程や試験の結果で、当事者自身でさえ把握しがたい“多様性”に潜在している能力を、一律に査定し優劣を付けられると考えるのは、無知蒙昧と自己過信でしかありません。
『発達障害者です。みなさまのご理解を!!』と『首からプラカードでもぶら下げ』るような、不愉快極まりない思いを、子ども達に強いておきながら。
その実、彼らが抱えている難儀の本質も、訴えている障碍に合致する支援が何なのかも、全く心得ていなかったのに。支援できる「つもり」になっていた大人達の、無知蒙昧と自己過信にありました。
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とは言え、私自身が蒙を啓いて戴いた、綾屋 紗月 氏の『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』は2008年の刊行。しかも医学書院から出版された、支援者・専門家向けの単行本です。
障害特性の本体は、過ぎるほどに鋭敏な五感が、身体の内外から【細かく大量に】受け取り続ける【感覚情報】で、脳を“占拠”されること。つまり、感覚過敏による【感覚飽和】なのだと、一般に認知されるようになって来たのは、ごく最近。
今から10年以上前、しかも支援者でも専門家でもなかった教職員と保護者の不見識は、止むを得ない仕儀でもありました。
更に言えば、合理的配慮の実例として良く挙げられる、聴覚や視覚の障碍は、感覚の不全ないし欠損で。障碍を体験したことのない多数派であっても、「聴こえへんかったら・見えへんかったら、難儀やなぁ」と共感・理解しやすいのに。
発達障碍は当事者自身が、【身体内外からの情報を絞り込み、意味や行動にまとめあげるのがゆっくり】であるため、感覚過敏ないし【感覚飽和】によって障碍が引き起こされている因果を、自覚・認知できていないことさえあって……
掴み所の無い不快感や不安に苛まれるまま、発現してしまう問題行動に相応しい支援は何なのか、当事者本人は勿論、その家族でさえ、見抜くことがとても難しい。周りの定型多数派にとっては、尚更、共感・理解することが非常に困難です。
そして人間は、共感しがたい人・理解できない人へ、天然自然な感情のままにnegativeな“ラベル”を貼り付け、自分より劣った存在と見做しがちなのです。
#【】内は『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』より借用した表現です。
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だとすれば、最大最強の心理的障壁を乗り越える方法は、一体なんでしょう?
当事者とその家族の側も 周りの定型多数派側も
診断名の“ラベル”を貼って、済ませるのではなく。
発達障碍を正しく識るより他に、術はありません。
授業中、自席を離れて歩き回るのも 友達と仲良くできないのも
学校の成績が芳しくなくても 知能検査の点数に偏りがあっても
心の発達や脳の機能様式が違うからで、「悪い子」だからではありません。
定型多数派向けに設定された教育課程や試験の結果で、当事者自身でさえ把握しがたい“多様性”に潜在している能力を、一律に査定し優劣を付けられると考えるのは、無知蒙昧と自己過信でしかありません。
当事者本人であれ その家族であれ 周りの定型多数派であれ
発達障碍に、negativeな“ラベル”を貼り付けたくなったとしたら
“多様性”への不適応があるためで、当事者の特性が「悪い」のではありません。
定型多数派向けに設定された社会で、当事者自身でさえ予見しがたい“多様性”が、齟齬や軋轢を生じるのは、当然なのですから。“責任者”や“真犯人”を追求して、何も解決できない無意味な時間を徒に費やすより……
相応しい支援・適用すべき合理的配慮は何か
明確に助言・提案できる、支援者や専門家へ
迷わず・躊躇せず相談することが、最善かつ充分な対応であり
我が子でも よそ様の子でも 発達に凸凹が有るか否かは 一切関係なく
未来を生きる若者達の幸せを願うことこそ、大人が果たすべき責任なのです。