2014年5月4日日曜日

書く事の、意義

予定していたより若干長く、都合半月の休載となってしまいましたが。
更新が滞っていた間にも、折々、ご来臨を賜っていたようで……
誠に、恐縮です。

あちらの作品を原稿中でも、一篇くらいなら書けるんじゃなかろかと、用意してたネタもあったのですけど。

いやー、あきまへんでしたわー。小説書くのが、ホンマ、楽しうてw

長期記憶に蓄えた“在庫”を、閾下に感じつつ。ワーキングメモリを駆使しての妄想三昧は、一度、その醍醐味を知ると、ついつい、惑溺してしまう。

で、朝から晩まで、暇さえあればキーボード&モニタに向かってた結果……

「これ絶対、誰か乗ってるよね?!」とガクブルしちゃう程、未だ嘗て経験した事が無い激しい凝りに、左肩が襲われた件も(右利きなのに〜)、ブログへの復帰が遅れてしまった理由だったりw

そんなこんなで作品を綴り終え、粗々の推敲も済ませた後。半日乃至一日は寝かせた上で(この間、敢えて全く関係の無い、磯田先生の著作なぞ紐解き……)、編集者モードへ頭を切り替えた所で読み返すと、あ〜ら不思議。

ワーキングメモリがフル回転している字書き作業の最中は、全く意識にも上っていなかった『物語』が、作品を介して、閾下の長期記憶が語りたがった“ドラマ”として、忽然と浮かび上がる。

自分自身の“在庫”に潜む、天然自然なドラマツルギーを、メタ認知によって気付かされる、この瞬間……すなわち、潜在する“もう一人の自分”との対話こそが、書く事の原動力なのだ、とつくづく思う。

まぁ、これって、散文書きに限った事じゃあないんですけどね〜。

研究者として現役だった当時、論文書きの過程で、何度も経験済みだったり。
ただし『対話』の相手は、実験研究によって、解明しようと試みている自然現象、なのですが。

その理を弁えずに、己が行った実験操作というartifactに騙され、結果を己にとって都合の良い『自然現象』だと、自己突っ込みも他者との議論も皆無の儘、考察してしまうのは、自然科学の研究者たる資格が無いと、白状してるようなもの。

黄金週間の直前、嘗て所属してた学会の理事長が、発表なさったメッセージに、激しく同意です。

散文にせよ、論文にせよ。

書くこと自体を目的とし、それが為に考えているようでは、まだまだ……

考えるために書く術を習い、それが性となった段階で、ようやく出発点に立てたのだ、と自戒も込めて思う。

という次第でこれからもデレデレと、『考えるために』書き連ねさせて戴く所存。わざわざのお運びを下さる、ありがたくも奇特な皆様方の、お退屈凌ぎとなれば、幸甚です。


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