2017年7月23日日曜日

「藁」を糾える文化

史上最年少で将棋のプロ棋士にデビュウなさった藤井 聡太 四段が、早熟の天才として世間の耳目を大いに集めています。もう30年近く前の話なので時効と判断して書いてしまいますが、彼が在学中ということから些か話題にも上った中高一貫校は、私が大学4年生だったとき教育実習をさせて戴いた教育学部の附属校だったり……

中学2クラス・高校3クラスと規模が小さいので入学する上では難関校と言えますが、一般的な意味で難しい学校ではありません。入試で学力考査は行うものの、『教育学の実践と研究に取り組んでいる』ため学業優秀な生徒ばかり偏在するのは集団として望ましくないという事情から、合否を決めるのは『総合的な見地』なのです。

では何を以て『総合的』に判断されるのかといえば、検査内容は
I   小学校で学習した内容の総合力を問います。 
II  作文等で思考力、表現力を問います。 
III グループ面接等を通して個性を見ます。
とのこと。塾に通って懸命に過去問を攻略した上で挑戦するような偏差値的に難しい学校ではありませんが、お子さんを育んで来たご家庭の「文化」が露呈します。

そして「評価」ではなく『見地』なのですから、習熟していれば合格できるというわけでもない。未熟な部分があるからこそ、入学を許可される例さえあり得ます。

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実は藤井 聡太 四段も、破格の棋力や読書の嗜好から大人びた印象が先行していますが、お母様から御覧になれば『まだまだ子ども』で未熟な部分も大いにある模様。つまり抜群に早熟な所と存外に未熟な所、すなわち「普通」の枠に嵌まらない多様性を備えた生徒は『教育学の実践と研究』に於いて恰好の対象となりますので、先生がたは内心「受検してくれてありがとう!」と大歓迎なさったかも……などと妄想しています。

無論、学校側も実践と研究の対象として利用する一方ではなく、藤井 聡太さんの個性を尊重なさって手厚く指導しておられるご様子。例えば『そんな愚痴が、また可愛かったり』とお母様が言及なさった『宿題は おかしい』という認知の凸凹に対しては、担任教諭が学年主任も同席の平らかに話し合える場を設け、上から目線で常識だと押しつけることなく、宿題の意義を本人が充分納得して取り組むまで緻密に導いてらっしゃる。

そして棋戦を勝ち進むにつれ平日にも対局が組まれて中間考査に重なった折は、再試験を行うのではなく『日頃の勉学の取り組みを総合的に判断して成績をつける』と宿題の意義をキッチリ回収。まさしく1本では簡単に切れてしまう藁を何本も撚り合わせてもっと丈夫な縄に拵えるような懇切丁寧、「糾える文化」の好例を堪能させて戴きました。

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斯様に優れた『教育学の実践と研究』の場で薫陶を賜ったにもかかわらず、私自身の教員免許は以降ペーパードライバー状態。実のところ教職資格を取った動機は、就職せずに大学院へ進む交換条件として母親から指示された「宿題」でしかなかったのです。

とは言え、教育とは「藁」のように些末な事象も見過ごさず糾って丈夫な縄へ拵えるように「疑問を持って 詳しく調べる」工夫の積み重ね、という片鱗を実習叶った旨は決して無駄ではありませんでした。娘が生来持ち合わせた多様性を、上から目線で常識を押しつけ「普通」の枠へ嵌め込もうとせず、平らかに緻密に本人が納得できるまで言語化することで素人の私がどうにか導けたのは、名大附属での経験があってこそですから。

大人の療育支援の大先達であるサポートセンター名古屋の皆様から『このお母さんの お子さんは とても幸せ』と有り難いお褒めの言葉を賜れた所以も、遡れば同じ街で学んでいた御縁にありました。なるほど藤井 四段が担任の先生から受けた懇切丁寧な指導の通り、指示された時は理不尽だと思っても宿題はキッチリ済ませておくのが大切みたいです。

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特に重い要諦だったと思い返すのは、「ひふみんアイ」ならぬ「教師アイ」つまり教諭側・学校側の視点も併せ持つ俯瞰を会得できた件。就学前にして天賦の才を発露した藤井 聡太 四段とは真逆で、発達の遅延という「普通」の枠に嵌まらない多様性を指摘された娘が、二十歳を越えてようやく自発的に学ぶ歓びを心から実感できる晩熟へ到れたのは育ちに関わって下さった先生がたと「教師アイ」で協働叶った成果なのでしょう。

中でも最大の岐路は、父方の祖父や両親の感化で「自分も理学部志望だ」と偏狭に凝り固まっていた自己に対する認知の凸凹を、高校1年初頭に受けた職業適性テストを活用しつつ一挙に文理反転まで修整した経緯です。事実情報の集積に優れた自閉圏の特性ゆえ理系科目の成績が相対的に好調な旨に惑わされず、彼女自身の創造性を示す「藁」のように些末な事象も丹念に拾い集め糾って来た工夫が、現在の晩熟へと結実しました。

振り返れば娘の「藁」すなわち大学の専攻や資格講座など就労へ繋がり得る創造力の些細な徴候は、稀代の天才が顕した前兆ほど明瞭ではなかったものの藤井 四段がプロデビュウなさった道程の端緒と同様、幼い乳児の頃から呈示されていたと気づかされます。

彼が遊んだ知育玩具が持て囃される所以でしょうが、お子さんの『何をしたいのか』という自己理解は、親御さんの価値観を陰に陽に押しつければ簡単に千切れ擂り潰されてしまう「藁」のように些細な事象が端緒かも知れないと重々ご承知願いたい昨今です。

2017年7月18日火曜日

「藁」を糾えない文化

(わら;稲や麦などの茎を脱穀した後に乾燥させたもの)を撚り合わせ、
縄に拵える動作を表すのが「糾う(あざなう)」という言葉です。

今回は実際に藁から縄を作る話というわけではなく、比喩として「糾えない文化」と表題を付けました。1本では簡単に切れてしまう藁を何本も撚り合わせてもっと丈夫な縄を作るような、工夫ができない文化という意味ですね。

そして「糾」という漢字には、罪や真偽・事実などに対し疑問を持って
詳しく調べる行為を意味する「糾す(ただす)」という訓読みもあります。

藁を撚り合わせて縄を作る動詞には「綯う(なう)」という語句もありますが、「糾う」を選んだのは「疑問を持って 詳しく調べる」という意味合いも込めたかったからです。

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初期癌摘出のため5月に入院する少し前、発達障碍と診断された大学生のお子さんを支えてらっしゃる都内在住のお母様と、遣り取りさせて戴いていました。キッカケは、お子さんが通う私立大学で受けた支援について、お母様がブログに綴っておられた件。

発達障碍学生に対する修学支援は、障害者差別解消法の合理的配慮規定等として昨年4月より法制が施行されましたが、私立の大学等では障害者への差別的取扱いの禁止は法的義務とされた一方、遺憾ながら合理的配慮の不提供の禁止は努力義務となりました。

つまり私立大学で発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が担保されるか否かは、大学当局の任意の協力にのみ左右され、その達成度も大学当局の判断に委ねられるため、具体的な内容は申請手続から完了判断まで各大学の担当部署次第となっているのです。

そのお子さんのケースを拡散するのは本意でないため、どの私学か判らないよう問題点のみ記しておきますが、伝統ある名門校 −−− 国の中枢を動かす人材を何人も輩出してきたような −−− でさえ旧来対応していた身体障碍学生への修学支援を適応拡大するだけで、発達障碍に特化した支援を提供できていない現状は大いに憂慮すべきでしょう。

もう少し具体的に、そのお子さんへの支援が発達障碍に特化していなかった証左を挙げれば、サポートされていると意識させぬよう当事者の疎外感に対して極めて慎重だった反面、自我他我の認知に凸凹がある障害だからこそ必須な自己理解への支援が完全に欠落していた件です。 身体障碍支援では当事者にも明確に障害が「見えている」ので、学生本人が自身の特性を理解するサポートの重要性に考慮が及ばなかったのでしょう。

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「普通」の「みんな」より年数を要したものの、当事者の疎外感を刺激して不登校へ陥らせぬよう慎重に配慮した手厚い支援で、卒業単位を満了できた安堵も束の間。大学のキャリアセンターで教示された卒業延期措置の合理的配慮を適用しつつ始まった就職活動は、お子さんが『何をしたいのか わからない』という認知の凸凹で阻まれました。

「『藁にも縋る』の藁だったんです。」

就活がうまく進まないのはお子さんが自分の志望を把握できていない所為であり、キャリアセンターの就職支援に不備不足があるのではなく、学生相談室が施した修学支援に発達障碍で必須な自己理解へのサポートが欠落していた結果……そう解題を試みた拙コメントへ応じて下さるお母様のお返事には、深い悔悟と無力感が滲み出ていました。

「普通」の「良いお母さん」から御覧になれば、大学当局が修学を支援して下さるなら当然、簡単に切れてしまう藁ではなく丈夫な縄のように確実なサポートで就職へ結びつけて戴けると頼みにし、中学高校までと同様に「先生」が仰る旨を諾々と傾聴して励行さえすればお子さんを成功へ導けるはずと期待なさるのも、無理はないのでしょう。

ところが実際は、私立大学で発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が担保されるか否かは大学当局次第であり、現に信頼なさってきた相談室の「先生」は、お子さんの卒業単位は揃えさせてあげたのだから後は学外の就労移行支援事業所へどうぞ、と言わんばかりなのですから、手厚い修学支援を思わず「藁」と蔑称した本音も止む無しです。

このご家庭のケースで殊にお気の毒だったのは、親御さん側にも「藁」を糾って丈夫な縄へ拵える工夫を凝らせない、ご事情があったこと……「糾えない文化」が醸成されてしまったご家庭で育てられた当事者さんが、同じく「糾えない文化」が醸成されていた大学に入って深刻な不適応を発現し支援を要する状況へ到った次第です。

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昨年9月に『うまくいかない文化』で記述した解題の繰り返しになってしまいますが、「普通」の「良いお母さん」が「普通」の枠から大きく外れた五感や認知を抱えるお子さんへ、懸命に寄り添ってらっしゃるおつもりでいながら「うまくいかない」要因には大きく二つある、と私は考えています。

第一の陥穽は、「普通」の枠から大きく外れたお子さんの危うさを直感した際、我が子を成功へ導けるよう親御さんが先回りして失敗を避ける(失敗しても見て見ぬふりが出来る)段取りを整えておく策こそ「最善」とお考えになってしまう件でしょう。

と申しますのも、どんな失敗を/どんな原因でしてしまったか?/どんな対策で防げるか?という「疑問を持って 詳しく調べる」段取りを当事者自身と共に整えていく「失敗体験」こそ、最も重要かつ効果的な自己理解への支援になるからです。

しかし例えば理系科目で好成績が取れる旨を理由に専らその方面へ注力させ、感じたことや思ったことを言葉や文章に表すのが苦手で失敗した経験には理系だからと見て見ぬふりを続ければ、大学卒業まで歳を重ねても自我他我に対する認知の凸凹は未修整で放置され、いざ就活という時に自分の志望さえ言語化できない障害へ陥ってしまいます。

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そして第二の支障は、「良いお母さん」が「普通」以上に優れた段取り力をお持ちであるがゆえ、お子さんへの支援の助力を仰ぐべき大学の担当部署へも、常にお母様ご自身が思い描く「最善」を希求しがちになってしまう件だと私は思います。

と申しますのも、大学という場は学ぶ当事者である学生自身が「疑問を持って 詳しく調べる段取りを一定程度は習得している前提で運営されてきたため、中学高校までとは異なり大学当局からの自発性の誘導や自己理解を支援するアクションは無くて当然だったから……それでは認知に凸凹を抱えている発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が充分には担保されないだろう、とトップダウンの法制化へ到った経緯でもあります。

ゆえに「普通」の「良いお母さん」が「普通」の枠から大きく外れた五感や認知を抱える大学生のお子さんへ寄り添う必要が生じた場合は、「普通」の価値基準で「最善」を判断してお子さんが失敗する前に先回りし段取りを取捨選択してしまう「糾えない文化」からは一旦離れて、「藁」のように頼りなく見える伝手であっても丹念に撚り集め「糾う」努力でお子さんにピッタリの「縄」に拵えていく工夫が必要になるのです。

過去の次第を深く悔悟すればこそ、お子さんの未来を深く憂慮すればこそ、工夫が叶う現在は「良いお母さん」からすれば一見無価値な脆弱な藁でも何本も撚り合わせ丈夫な縄に「糾える文化」を、まずはご家庭内に醸成して戴きたいと願って止みません。