2016年10月20日木曜日

「変な子」と「変なお母さん」

大学の長い夏休みが終わり、秋学期初日を迎えた先月下旬。

起床した娘が、洗面所へ移動した気配を壁越しに感じつつ
おもむろに台所へ向かえば、身支度を終えた所で鉢合わせ。

「トイレの水、流せなかった。起こそうかなと思ったけど」

口火の切り方が主観的すぎて、唐突なのは否めないものの
外れていたフロートゴム玉の接続を、自力で直せたらしい。

「まずネットで調べてみたら、修理法、出てたから流せた」

その瞬間、十数年に及んだ「自家製療育」を遂に満了したのだと確信する。「みんな」に倣うだけの子育てでは、決して味わえない歓びが胸の裡で静かに沸騰しはじめた。

お子さんが「普通」の枠を外れること無く成長なさったご家庭では、この会話のどこが嬉しいのか皆目お判りにならないだろう。「卒業」の実感も、主観的で唐突だった。

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保育園で自閉症の指摘を受け、小学校から高校まで不登校のリスクを抱えていたにもかかわらず。勝率5割の大学受験を経てようやく補欠で合格を頂戴叶った最高学府へ、疎外感に苛まれることも無く娘が愉しく通い続けていられるのは、如何なる因果なのか?

まず挙げるべきは、不登校・ひきこもりに悩む当事者さんやご家族・支援者の皆様へ、お節介にも寄せさせて戴いた傍目八目なコメントで『励ます力』を繋ぐ御縁に恵まれつつ、「うまくいっちゃう」というか「ひきこもらせない文化」を模索叶ったおかげ様。

なにせ娘の『危うさ』は、『具体例や試行錯誤から習得するのが苦手』な性向。つまり「良いこと=成功」も「悪いこと=失敗」も繰り返し体験させて戴ける場へ通えなければ、「得意を伸ばす」ことで知識・知能を切磋すると同時に、社会と呼応する知恵の習得という「苦手を避け多様性発達者として社会へ適応することも叶わないワケで。

ゆえに社会人デビュウを控えて成功・失敗双方の体験を頂戴できる最後の場、すなわち大学へ通い続ける「配慮と我慢」の自発的な行動化の瞬発力=「ひきこもらない力」を娘自身から引き出さねばならず。

所属学部やサークルの人脈を介した、他者と関わる知恵の構造的・弁証的な理解・体得こそ、「自家製療育」の最終課程と位置づけた顛末で、とうとう冒頭で綴った「卒業」の瞬間を実感するに至れた次第。

……なんてことを、たかがトイレの不具合を直せた件にも逐一考え、我が子の「毎日・毎年」を支えているのは、『すごい』と唸って戴くには及ばない「変なお母さん」で。

娘が「みんな」と違った「変な子」でありながら、「ひきこもらない力」を体得出来た因果として次に挙げるべきは、「普通」じゃない事象にこそキラ〜ン!と目が輝いちゃう、理系家族ならではの好奇心主導・屁理屈上等「文化」を醸成叶ったからなのだろう。

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兎にも角にも十数年に及んだ試行錯誤だったから、あれやこれやと「自家製療育」を施した側、すなわち「変なお母さん」にとっては具体的に一体何が「ひきこもらない力」を引き出したのか、今ひとつ判然としていない。で、「変な子」本人にも訊いてみた。

まず娘が挙げたのは「自分にピッタリの仮面、でも息苦しくないのが手に入ったから」
例のごとく主観的すぎて判りにくいが、つまりは心理学で謂うところのペルソナ=自己の外的側面が適切に確立できたゆえ。要するに、大学の学部とかサークルとか、自分にとってしっくり来る所属意識・居場所が確保叶ったおかげ様、ってことですかな……

でも、それって「ひきこもらない力」を、別の表現に言い換えてるだけじゃね? 
「自家製療育」の何が、あなた自身の「五感の凸凹には配慮・認知の凸凹には我慢」する行動化の瞬発力を引き出せたのか、って訊いてるんだけど。

……と重ねて問うたところで、娘が挙げたのは以下の三点。

【その1 興味関心に合わせた経験】
→オトンは日本全国の乗り鉄へ、オカンは図書館・美術館・博物館へ……確かに徹底的な「モノより思い出」だった。元ネタのクルマには、全く縁が無かったけどw

【その2 行動の根拠を明確に解題】
→理系な家族だから、好奇心主導で直感を得たにしてもメタな屁理屈上等で補填するのがクセになってる。発語発話が不充分だった頃から、informed consentしてたしw

【その3 義務の履行は権利の行使と表裏一体であることを徹底】
→「苦手を避け」に「得意を伸ばす」ため、最も苦慮した点。半端にメタ認知が発現して疎外感に苛まれ始めた10代前半、「ひきこもる権利」っていう認知の凸凹がバッチリ表出しましたから。「権利の行使には義務の履行が付帯する」との原理原則をガッツリ体得させた件こそ、なるほど多様性発達者としての社会適応には最も重要だったのかも。

三つをまとめれば、興味関心に合わせた経験が知識を・行動の根拠の明確な解題が知能を・社会と呼応するための義務と権利が知恵を育んだ、という結論になるんでしょう。

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てな具合の、拙宅にとってお馴染みな「自家製療育」談義に娘と興じつつ。ふと気づいちゃったのは、「良いお母さん」と「悪い子」では「うまくいかない文化」の必然。

共依存の陥穽に嵌まることの無い「うまくいっちゃってる文化」には、「変な子」と「変なお母さん」の平らかで「ずれ」が無い関係性こそ最も重い要なのだと私は思う。

【補記】「お母さん」と「子」連作として不定期連載しております。お時間許す範囲で併せてご笑覧賜れますと幸甚。
>>前篇『「良いお母さん」と「悪い子」』を読む
>>続篇『暴れる子と『頑張るお母さん』』を読む
>>続篇『緘黙する子と優しいお母さん』を読む

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