ご自身がとても難しい状況に置かれているのに、
貧しい子どもたちを思いやり、気力を振り絞った
ブログ記事、ありがたく嬉しく拝読しました。
いつも『人の4倍勉強』しているヒロさんを
「良い子」だと好評価して下さる先生がたと、
たまに問題行動を起こしてしまうヒロさんを
「悪い子」だから排斥しようとなさる先生がたの、
狭間で生じたpoliticalな軋轢に巻き込まれ、
『一生懸命 勉強してきたことが 一切無駄に』
なりかけてはいるけれど……
やっぱり、ブログの引退勧告を受けた時と同じく、
ヒロさんはボチボチ“免許皆伝”を言い渡されても、
大丈夫じゃないかなと、ヒルマ小母ちゃんは思うんです。
***
だってヒロさんは今度こそ、
「毎日・毎年」をシッカリ積み上げていく努力は、
「10年後・20年後・30年後」の夢を、
一つ一つ 順番に考えて、一つ一つ 準備して、
一つ一つ かなえていけるようにするための、
絶対に必要な前提だ!という因果、
身をもって経験できたのですから。
2015年12月24日木曜日
2015年12月19日土曜日
大統領さんへの御礼状
どうもどうも、お久しぶりのブログ連載
おおきに、ありがとう存じます。
前回、返信差し上げてから、ちょうど一年経ちますが
大統領さんも、いろんな事に巡りあわはったようで。
ずいぶんと「大人」にならはったなぁ
て、感心したり 嬉しくなったり……
モニタの前で、百面相しながら拝読しております。
やっぱしあん時、“予言”させて戴いたとおり
『外見そのまま、中身ごっそりと
だれかの人格と入れ替わったかのような』変化を
いつの間にやらキッチリと、遂げてきはりましたなぁ
***
私事で申しわけございませんが、一年前のウチとこ
ホンマは、エライ煮詰まっておりましてん。
面倒くさいトコは、端折らして戴きますけど。
要するにウチの娘が、障害告知を受けた時は、
ヒロさんより難儀な特性、抱えとったんどすな。
おおきに、ありがとう存じます。
前回、返信差し上げてから、ちょうど一年経ちますが
大統領さんも、いろんな事に巡りあわはったようで。
ずいぶんと「大人」にならはったなぁ
て、感心したり 嬉しくなったり……
モニタの前で、百面相しながら拝読しております。
やっぱしあん時、“予言”させて戴いたとおり
『外見そのまま、中身ごっそりと
だれかの人格と入れ替わったかのような』変化を
いつの間にやらキッチリと、遂げてきはりましたなぁ
***
私事で申しわけございませんが、一年前のウチとこ
ホンマは、エライ煮詰まっておりましてん。
面倒くさいトコは、端折らして戴きますけど。
要するにウチの娘が、障害告知を受けた時は、
ヒロさんより難儀な特性、抱えとったんどすな。
2015年12月17日木曜日
客観的な認識・消極的な善意
何十年ぶりかで芥川龍之介の『鼻』を精読したのは、無論、理由がある。
禅智内供の長い鼻のように否応なく衆目を集めてしまう、あからさまな異様ではないけれど。五感や認知の凸凹という自他共に諒解し難い“多様性”ゆえ、一層つかみ所の無い疎外感を抱える娘へ、これまで試行錯誤を重ねつつ“自家製療育”を施してきた。
しかし幸甚にも、入学を許可戴けた大学で春学期の順調を見届け、いよいよ「療育」ではなく「支援」に移行すべき時機と判断できた所で、親として厳に自戒すべき陥穽、すなわち共依存の心裡を改めて、出来うる限り深く広く考察しておきたかったからだ。
***
五感や認知の凸凹を抱える子ども達を、傲慢にも支援できるつもりでいた無知蒙昧と自己過信ゆえ、苦い後悔を味わった経験……娘が最初に就学した小学校で遭遇した“事件”は、忽然と消えてしまった“大切な物”と引き換えに、二つの教訓を与えてくれた。
第一に、発達障碍当事者は、politicalな軋轢に巻き込まれやすいこと。
第二には、だからこそ我が子の抱える“難儀”とのみ、向き合うべきこと。
すなわち娘の療育と、彼女に関わって下さる方々との交渉へこそ専心し、
他人様の五感や認知の凸凹へ対しては、努めて“消極的な善意”に終始する。
具体的には、診断・告知の有無を問わず、五感や認知に凸凹を抱えておられると想定すれば、言動に納得し上手く配慮できる子ども達や大人達に出遭ったとしても、当方が進んで「支援」にまで踏み込む積極性は厳に慎む、という教訓だ。
ある意味、利己的で冷淡な対応ではある。
然れど「悪い子」であれ「良い子」であれ、「幸せ」であれ「不幸せ」であれ、当事者の置かれた状況へこちらの尺度で手前勝手な優劣を付け、「支援すべき」と主観的な判断を下す積極性は、それが善意に根ざしていたとしても、五感や認知の凸凹から価値観に於いても“多様性”を呈する彼らの、尊厳に抵触するのではなかろうか?
芥川龍之介の『鼻』で喩えれば、弟子の僧は師匠に「食事の間、鼻を持上げていて欲しい」と依頼された際、快く応ずるだけで充分だった。中童子が粗相をした時は彼の無礼を窘め、自分の不在にも内供が難儀なさらぬよう、「出入りの指物師に、良い按配で鼻を支える台でも誂えさせましょうか?」とお伺いすれば最善だったのだ。
如何に強く同情を動かされようとも、本人から頼まれもせぬのに『知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって』来た軽佻と、内供の他愛もない策略に乗った振りで『口を極めて、この法を試みる事を勧め出した』浮薄は、意想外に繊細な恩師の尊厳に対する敬意と仁愛が、弟子として些か不足していたせいなのかもしれない……
禅智内供の長い鼻のように否応なく衆目を集めてしまう、あからさまな異様ではないけれど。五感や認知の凸凹という自他共に諒解し難い“多様性”ゆえ、一層つかみ所の無い疎外感を抱える娘へ、これまで試行錯誤を重ねつつ“自家製療育”を施してきた。
しかし幸甚にも、入学を許可戴けた大学で春学期の順調を見届け、いよいよ「療育」ではなく「支援」に移行すべき時機と判断できた所で、親として厳に自戒すべき陥穽、すなわち共依存の心裡を改めて、出来うる限り深く広く考察しておきたかったからだ。
***
五感や認知の凸凹を抱える子ども達を、傲慢にも支援できるつもりでいた無知蒙昧と自己過信ゆえ、苦い後悔を味わった経験……娘が最初に就学した小学校で遭遇した“事件”は、忽然と消えてしまった“大切な物”と引き換えに、二つの教訓を与えてくれた。
第一に、発達障碍当事者は、politicalな軋轢に巻き込まれやすいこと。
第二には、だからこそ我が子の抱える“難儀”とのみ、向き合うべきこと。
すなわち娘の療育と、彼女に関わって下さる方々との交渉へこそ専心し、
他人様の五感や認知の凸凹へ対しては、努めて“消極的な善意”に終始する。
具体的には、診断・告知の有無を問わず、五感や認知に凸凹を抱えておられると想定すれば、言動に納得し上手く配慮できる子ども達や大人達に出遭ったとしても、当方が進んで「支援」にまで踏み込む積極性は厳に慎む、という教訓だ。
ある意味、利己的で冷淡な対応ではある。
然れど「悪い子」であれ「良い子」であれ、「幸せ」であれ「不幸せ」であれ、当事者の置かれた状況へこちらの尺度で手前勝手な優劣を付け、「支援すべき」と主観的な判断を下す積極性は、それが善意に根ざしていたとしても、五感や認知の凸凹から価値観に於いても“多様性”を呈する彼らの、尊厳に抵触するのではなかろうか?
芥川龍之介の『鼻』で喩えれば、弟子の僧は師匠に「食事の間、鼻を持上げていて欲しい」と依頼された際、快く応ずるだけで充分だった。中童子が粗相をした時は彼の無礼を窘め、自分の不在にも内供が難儀なさらぬよう、「出入りの指物師に、良い按配で鼻を支える台でも誂えさせましょうか?」とお伺いすれば最善だったのだ。
如何に強く同情を動かされようとも、本人から頼まれもせぬのに『知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって』来た軽佻と、内供の他愛もない策略に乗った振りで『口を極めて、この法を試みる事を勧め出した』浮薄は、意想外に繊細な恩師の尊厳に対する敬意と仁愛が、弟子として些か不足していたせいなのかもしれない……
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