2016年9月16日金曜日

AIは電気椅子の夢を見るか?

2年前の秋、国立情報学研究所新井 紀子先生がディレクタを務めておられる人工知能プロジェクトの情報共有技術を、自閉症スペクトラム当事者の苦手克服への「鍵」として応用する可能性を思い立ち「『東ロボくん』への期待」と題した拙文を綴りました。

その後の『東ロボくん』は、総合点での偏差値を45.0から57.8へ急上昇させましたが、これは元来得意だった数学と世界史で一層の好成績を納めた成果。苦手の英語や国語は偏差値40台での低迷が続き、前回は好調かと思えた日本史と物理も伸び悩んでいます。

実を申せば、同様の不調に頭を抱えていたのが、受験を間近に控える娘の成績……

『東ロボくん』とは思考様式が異なるテンプル・グランディン博士曰く『言語の論理で考えるタイプ』)ため数学がさほどの好成績でない代わりに、世界史は博覧強記で日本史と生物・化学が安全牌。一方、自閉圏の特性ゆえに英語と国語が低迷し続ける不振は完全に同じで、「東ロボの母」を自任しておられる新井 先生への共感が、つい炸裂してしまった次第。

得意科目の『数学と世界史では東大の2次試験を想定した模試にも挑戦し、平均点を超えた』新井 先生「息子さん」と同様、過読症傾向を呈する娘も個別学力検査の想定問題なら、第一志望の大学へ挑戦可能な目標点をそこそこ安定して達成できていました。

しかし現実の国立大学受験は、センター試験の得点こそが第一の要衝。『東ロボくん』総計950点中511点(得点率53.8%)という成績では、東大受験の出願手続を行ったとしても2次試験に臨む以前に、第一段階選抜で門前払いされてしまう可能性が高いのです。

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娘が体験したリアルな大学受験は、再々綴って参りましたとおり、センター試験の自己採点が目標へ遙かに及ばぬ得点率だったため、以後の主眼を私立大学の一般入試へ方針転換。保育園で既に表出していた多岐選択式試験への苦手は補填しきれませんでしたが、言語的論理思考の得意を活かせる筆記試験では、伸び代をご承認戴けた顛末です。

ところが人工知能である『東ロボくん』は、むしろ得意の伸び代こそが、世情の反感を煽ってしまった模様。「東ロボの母」たる新井 先生の言葉をお借りすれば……
《以下、『エクス・マキナ』のネタバレ御注意!》
だが、第2回電王戦でプロ棋士がコンピューター将棋に敗れ、東ロボが初めての模試において、約5割の大学に合格可能性80%以上と判定されたころから、みるみる空気が変わっていった。
 多くの雑誌が「AIによって奪われる職種」とか「AIによって支配される未来」といったネガティブな特集を組んだ。AIは近未来の職場環境を激変させる可能性があるテクノロジーとして認識されたのである。
東大めざす人工知能 「夢」から「恐れ」に変わる視線』日経産業新聞2015年12月8日付

とは言え『認識がややオーバーであることが気になった』と若干のご懸念を表しつつも、世論が「面白研究紹介」調の表層的な理解から、人工知能が実用化した近未来への具体的な危機感にようやく踏み込み始めた現状は、新井 先生としても面目躍如と拝察。

なにせ『東ロボプロジェクト』の主旨は、東大へ入れる人工知能の開発ジャナクテ『AIのある社会にどう備えていく必要があるのかを、それぞれが考える材料を提供するという意味で、日本にとって今ぜひとも必要なプロジェクトであり科学教育』なのですから。

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てな次第で拙宅も、新井 先生の企図を諒解した『それぞれ』の一員として、殊に事実情報の共有を得意とする特性が人工知能と酷似しているために、「普通」の「みんな」より一層厳しい競合の危惧もある自閉圏当事者の視点から、『AIのある社会にどう備えていく必要があるのか』を社会学・文化人類学を志す娘と引き続き絶賛考察中です。

まずは5月に放映されたNHKスペシャル『天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る』で、リアルな最先端を概観。次に「大人の映画」の一環として鑑賞した『エクス・マキナ』で、美しい女性型ロボットに搭載されたチューリング・テストをもパスしうる究極のAI、というバーチャルな最先端に妄想を遊ばせた結果、抽出された論題は……

人工か否かの別を問わず、知能が「良心」を得るためには何が必要か?という疑問。

『全てがアップデートされた最新のSFスリラー』と紹介された物語の中で、『人間か、人工知能か』の識別を危うくするほど脳に擬態されたAIは、無邪気な好奇心から発露した他愛ない願望を叶える「フリーハンド」が阻まれた時、いとも容易く重罪を犯します。卓越した知能が膨大な知識を集積しても、「良心」は深層学習できないのです。

バーチャルな最先端で創出された究極のAIに、人間が言語的・非言語的に表出する感覚情報を膨大な事実情報の集積として共有させ、的確な行動化で瞬時に応答させることができても、「良心」を擬態させることは不可能と断じた物語は、『AIが東京大学に合格する日はやってこない』という「母」の予言に通ずる示唆を与えてくれました。

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「普通」の枠から外れた自閉圏当事者としての視座で、「みんな」の社会と文化に向かう好奇心を満たす「フリーハンド」、すなわち最高学府で切磋琢磨するという願望を自らの配慮と我慢で実現した娘は、「良心」を得るために必要なのは基本的人権と解題しました。社会の中で生い育つ人間の知能にとって、それは確かに正解の一つでしょう。

では、「人権」すなわち自己実現の「フリーハンド」を賦与されなかった知能は、
人工か否かの別なく、「良心」を育むことが不可能になってしまうのでしょうか? 

あるいは、事実情報を知識として集積する以外に、感覚情報を共有し行動化する術を獲得できなかった知能が、「良心」という社会に呼応する知恵を得るには、犯した罪に与えられる刑罰の恐怖を、夢に見るほど繰り返し刷り込むしか術が無いのでしょうか?

無邪気な願望を最も邪悪な手段で成就させてしまう、美しい女性に擬態したAIは、「得意を伸ばす」教諭のみで「苦手を避け」に失敗と成功の双方を繰り返す成長体験を積めなかった「育ち」の、『危うさ』を象徴しているように感じられる映画でした。

2016年9月6日火曜日

うまくいかない文化

先日の記事を公開したところで、拙宅の娘に訊ねてみたら……

「ママは『お母さん』ジャナクテ『将軍』だよねぇ」だそうですw

つまり、戦略戦術を策定する専門性能と前線兵站を統帥する対人性能は、率先して発揮したがる一方、現場の実務に充てるべき代行性能は、面倒くさがってなかなか発揮してくれない、って趣旨なんでしょう。母の実態を的確に見抜いた、絶妙の喩えですwww

でも「良いお母さん」は往々にして、お仕事にしても家事にしても、現場の実務をこそ手際よく片付ける代行性能に優れておられる。それがために、お子さんの『危うさ』を直感した際、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、親御さんが先回りして失敗を避ける策こそ打つべき先手と、思い込まれてしまうようにお見受けします。

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保育園で『危うさ』を指摘された当初、拙宅の娘は、発達が遅れている上にきちんとした躾もされていない、「悪い子」だと思われていました。

担任の保育士曰く「おやつの時間に大好物が出てくると、配膳中ちょっと目を離した隙に、まだお盆に載っているおやつをお友だちの分も全部食べてしまいました。『いただきます』のご挨拶をするまで、我慢して待つことができないためとても困っています」

その一方で、別の保育士曰く「まだ読み書きを教えていないのに、ひらがなで書かれたお友だちの名前を、いつの間にか読めるようになっていました。お話しが上手ではないので自分から話しかけるのは難しいようですが。お友だちへの興味はあるみたいです」

また主任先生曰く「何も載っていないお皿と、リンゴが一つだけ載ったお皿と、五つ載ったお皿の絵から『一番たくさんあるのはどれか?』選ぶだけの簡単な質問なのに即答できません。いちいちリンゴを数えてみないと、どれが一番多いか判らない様子です」

「自己肯定感を持たせるために 成功体験を」という惹句へ私が文言通りに従い、他人様へ迷惑をかけぬよう我が子に成功だけを体験させられるよう、娘の『危うさ』が連日しでかす失敗を先回りして避ける代行性能のみへ専心していたなら。当時就いていた研究職を辞め娘を退園させ、母子で自宅にひきこもる他に選択肢はありませんでした。

しかし留学先で娘を出産し、彼女が2歳半の時に帰国して来たばかりの私は、「この子は自閉圏なのかも」という疑懼を既に抱いていた一方、日本ではお馴染みの惹句を知りませんでしたから。保育園で日頃おかけしているご迷惑へ深謝しつつ、主任のN先生がご提案下さった臨床心理士の定期観察を、躊躇無く受諾することが叶ったのです。

実母より遙かに優れた代行性能をお持ちの専門家へ、保育や教育の助力を仰ぎながら、娘の特性に沿った自家製療育を策定する専門性能と、娘の育ちに関わって下さる皆様との関係性を統帥する対人性能へ、仕事や家事の傍らでも存分に専心できた所以です。

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もう一点、「良いお母さん」が「普通」以上に優れた代行性能をお持ちであるがゆえの、陥穽を指摘させて戴けば、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、「みんな」以上に厳しく自律し努力を積む聡明さを、『危うさ』を抱える我が子のみならず助力を仰ぐべき専門家へも、無意識のまま要求なさってしまう「文化」でしょう。

先日の記事の繰り返しになりますが、「良いお母さん」には、我が子が「悪いこと」をやらかしてしまう『危うさ』を、看破することが極めて難しい。「みんな」以上に自身を厳しく律して努力を積めば「普通」以上に優れた能力をも獲得できる旨を、教諭されただけで承知できる聡明さが、生来『危うさ』の代わりに賦与されているからです。

なればこそ「良いお母さん」が、『危うさ』を熟知した専門家へ委任すべきは、我が子の『危うさ』がやらかす失敗を周到に回避しうる代行性能ではなく。お子さんの成長を妨げ『危うさ』を生じさせている五感や認知の凸凹へ、共感しつつ寄り添える対人性能と、その特性に合わせて「苦手を避け 得意を伸ばす」体験を策定する専門性能です。

「良いお母さん」が、他人様に迷惑をかけぬよう我が子を成功へ導けるよう、失敗を忌避し努力を積むよう厳しく自律させる「文化」でうまくいったのは、教諭されただけで承知できる聡明さを賦与された「良い子」だったからこそ。

『危うさ』を持ち合わせる我が子を授かった「良いお母さん」には、「うまくいかない文化」を「うまくいっちゃう文化」へ軌道修整する体験へ、お子さんが安心して繋がれる「毎日・毎年」を支えるべく、どうか優れた代行性能を発揮戴けますように……