昨年10月下旬以来、またまた更新が滞っておりました間にも、
過去記事のご閲覧、誠にありがとうございました。
この度の休止中は、娘の就労支援を見据えた「予習」−−− サポート業界では「就労移行支援」という事業もあるそうですが −−− すなわち『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』といった『Transferable Skill=様々な業界や職種に転用可能なスキル』を自得させるべく、所属学部やサークルなどの人脈を伝手に「苦手を避けず」社会と呼応する知恵の発露を促しておりました。
***
と言っても娘から「ママは『お母さん』ジャナクテ『将軍』」と評された「変なお母さん」ですので、戦略戦術を策定する専門性能と前線兵站を統帥する対人性能を発揮したがるのみ。実務に充てるべき代行性能は、滅多に発揮しませんw つまり具体的にしていた「予習」とは、専らに娘が経験した「毎日」を傾聴しつつ、不備不足が散見される彼女のメタ認知を補完し、対人関係の機微を解題・蓄積すること。
サポート業界で言えば、カウンセリングが近いのかも知れませんが −−− 理学部出身で、大学・大学院・創薬ベンチャーという職歴のオカンは『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』ならバッチ来〜い!な一方、大学の専門科目として臨床心理学や社会心理学を学んでいるのは、娘の方ですので −−− 双方の関係性がカウンセラー/クライエントのそれとは全く異なっています。
コーチングやメンタリングの方が、より近いかも?ですが、技術をきちんと学んだわけでもなく。理系女子の試行錯誤で叶えてきた「自家製療育」が期せずして、信州大学医学部附属病院・子どものこころ診療部の本田 秀夫 先生が提唱なさっている『新キャリア教育』 −−− あるいは単純に社会と呼応する知恵の一つである「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣 −−− へ結着できたのだと考えています。
そんなこんなで娘の懸案事項は、まず2回生の前半で一般教養の必修科目と国家資格取得の夏季集中講座を、まずまずの好成績で履修完了。かつ秋学期は順調にゼミ配属の段取りを消化し、第一志望の教授から次年度以降のご指導を戴ける運びとなりました。
ついでに選択科目2コマで、初めて単位を落とす「失敗体験」もやらかしましたが。在学中いつでも再履修で成績を上書きできるという、国立大学では考えも及ばなかった鷹揚な学風のおかげ様で、疎外感の生ずる隙も無く「成長体験」へ昇華叶いそうです。
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前置きが長くなってしまいました。つまり先日、娘へ家事の稽古を付けるため『起爆剤となる変事も勃発』と書いた件は、彼女の身に生じた懸案ではなく……
就労支援の「予習」が整ったところで、ようやく安堵の息をつき、5年前の高校受験を機に早期退職して以来ご無沙汰していた人間ドック健診を、3月初めに最寄りの病院で受けた際に、私が悪性腫瘍に罹患している旨が判明したのです。
健診で行われたスクリーニングの結果から精密検査のお勧めを郵送でお知らせ戴き、受けた初診の1週間後に癌診断のインフォームド・コンセント。
精査のデータを迅速に揃えて下さったタイミングで、その2週間後には、かつて勤務していた大学医学部の附属病院でセカンド・オピニオンを拝聴。
最初に受診した病院で提案された治療方針に従い施術して戴く旨を確定し、初診して下さった外来の医師から外科へ手術予約を申し送り願った上、更に2週間後は執刀主治医から改めて、より詳細な診断と治療方針のインフォームド・コンセント。
人間ドック健診から数えて2カ月と1週間目のゴールデンウィーク明けには、入院日程を見据えた周術期口腔機能管理のため歯科を受診できましたから、たいへん有り難いことに日本屈指と申し上げて良いほど最速かつ最善の医療を受けています。
***
「健診で引っ掛かっちゃいましたけど、癌じゃなくてホッとしました〜」ではなく、紛うこと無き悪性腫瘍の診断。しかも今月下旬に手術を受け、その後は放射線治療へ移行する方針ですから、「普通」のお母様がたなら「気を揉む→心配が嵩じる→不安が募る→元気が無くなる」状況なのに、やっぱり私はいつもどおり元気。
「こういうことになりましたので…」と心理カウンセリングをお奨め下さった外来の看護師長さんにも、がん医療連携手帳についてご説明下さった地域連携担当の看護師さんにも、せっかくいたわって戴いたのにアッサリお断りしちゃう「変な患者」で恐縮の極みですが。虚勢を張っているのではなく、ホントに元気なんです。
悪性腫瘍に罹患しながら元気でいられる理由は、自覚症状が全く無く適切な治療を施せば予後は良いと臨床研究で実証されている、初期段階で診断を受けられたことが第一。
そしてこれまでの履歴で積んできた知識と磨いてきた知能を以て、腫瘍が生じた理(ことわり)も治療方針の理も、心配や不安の生ずる隙無く解題・納得できていることが第二。
更に、自分自身と娘の「育ち」を通じて学ばせて戴いた、他者と関わり社会と呼応する知恵の一つとして、「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣が我が家の「文化」に根付いたことを第三に挙げるべきでしょう。
「保育園で指摘されちゃいましたけど、発達障碍じゃなくてホッとしました〜」ではなく、紛うこと無き自閉圏の特性を生来持ち合わせた娘が、人間ドックを受診した時から都度説明してきた精査の経過を傾聴しつつ、動揺せず平らかに、しかし臨場感を持って母が癌に罹った変事を受け容れている旨こそ、なにより尊い『励ます力』です。
***
他者と関わり社会と呼応する知恵を終生自得できなかった義父と、親から顧みられなかった「平凡」を嫌厭する義姉の、隔絶の狭間で家族の「毎日」を支えるため神経を磨り減らしてきた義母は、折々の挨拶を寄越す唯一の孫娘へ宛て、彼女の母であり不肖の嫁である私の健康を、いつも過分なほど丁重に気遣ってくれます。
そんな祖母の問いへ『ママは いつでも 元気だよ』と応じるのが、娘の決まり文句。
この答えを彼女がこれからも返せるよう、「母の日」に快癒を誓いたいと思います。
2017年5月14日日曜日
2017年5月9日火曜日
An Easy Lonely Mathematician
保育園で『危うさ』を指摘された際に専門医の診察を受けていれば、高機能自閉症という診断が銘記されたであろう、拙宅の娘。彼女が抱える「多様性」は、3年前の初冬に亡くなった父方の祖父から受け継いだ可能性が、最も高いだろうと私は考えています。
私からすれば義理の父に当たるご老体は、本稿に題したとおり数学者として至って気楽な、しかし元来希薄だった他者への関わりを遂に一切喪失し、旧知とは全く疎遠な最期を迎えました。死因は肺炎でしたが、認知症の診断で随分と長く入院していたのです。
退官時に名誉教授職を拝命するまで大学での任を果たした義父でしたから、弟子に当たる方々も幾人かおられたようです。けれど義母は、認知症という病状を報知する件に越えがたい逡巡を感じたらしく、近親のみが集い密葬を執り行った後、不肖の嫁が急ぎ用意した喪中ハガキの文面で公の関係への御挨拶に代えさせて戴く仕儀に至りました。
***
診断は義父の年齢から認知症ということになったものの、運動機能の急激な低下で始まった病状は、娘の「多様性」へ緊密に接していた私から見ると自閉圏当事者の主訴とも感じられました。つまり義父の経過は、娘の育ちを逆行しているように思えたのです。
大学を退き故郷へ移転した後も、非常勤講師や翻訳(数学者の習いで、英語と露語が使えました)のお声掛けを頂戴している間は、悠々自適の隠居生活を愉しんでおりました。しかし体調を崩し仕事を一旦お断りした途端、あっと言う間に知識・知能が衰退していきました。
ただ、他者と関わり社会と呼応する知恵については、終生自得に至れなかった模様。専業主婦の義母が「毎日」を仔細綿密に支え続けたからこそ、実の娘(私にとっては義理の姉)と隔絶しながら、当人的には安閑のうちに孤高の人生を全うし得たのだと思います。
***
義理の姉が何を厭うたゆえに、孫に当たる長女長男を実父の告別にさえ参列させぬほど疎遠になってしまったのか? 理系な弟嫁には2年半経っても依然、不詳なままです。
元より「変なお母さん」を自称し不調法を憚らぬ私ですから、子を二人ともに小学生から受験勉強へ邁進させた義姉とは、お世辞にも相性が宜しかったワケがなく。実弟に当たる夫の方も長年の無沙汰を解消する機微は無いため、以下は推察に過ぎませんが……
義姉が嫌厭し続けているものの正体は、父や弟とは違って「普通」の枠から外れることが出来なかった彼女自身の「平凡」かも知れない、と私には感じられてしまうのです。
***
義姉の長女(拙宅の娘にとっては、2歳年長の従姉妹)は中学生の時分からいわゆる美術予備校へも通った後、念願叶って私立美大の双璧へ現役合格しました。とは言え、それ以降の様子は義母から伝え聞く限り、八王子と小平のどちらを選んで学んだのかも、順当に進級していれば卒業した筈の今年度はどんな進路を選んだのかも、残念ながら分かりません。
また昨年2月に拙ブログで言及した長男A君の件は、義姉の夫君(拙宅の娘にとっては伯父)から義母へ、一周忌に次いで三回忌へも不義理を重ねる陳謝と併せ1年遅れながら二度目の挑戦で志望校へ入学叶った知らせが、予備校の合格体験記公開と同じ頃に届いた由。
努力の義務履行に見合った「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「△△大学の★★学部生」といった所属意識は、人格を構築していく基盤として確かに大切ですけれど……
生まれ持った多様性を保護者が疎外/当事者が卑下していることで「育ち」の大局を歪めてしまう第一の分岐こそ、最優先で手厚く顧慮すべきでしょう。「普通」の枠から外れていない兄弟姉妹へも人格を尊ぶ敬意と個性を言祝ぐ仁愛を向けることは、お子さん達の「毎日」を支えるご家族にとって等しく重視されるべき要諦と私は考えています。
>>後篇『A Hasty Lonely Cassandra』へ続く
私からすれば義理の父に当たるご老体は、本稿に題したとおり数学者として至って気楽な、しかし元来希薄だった他者への関わりを遂に一切喪失し、旧知とは全く疎遠な最期を迎えました。死因は肺炎でしたが、認知症の診断で随分と長く入院していたのです。
退官時に名誉教授職を拝命するまで大学での任を果たした義父でしたから、弟子に当たる方々も幾人かおられたようです。けれど義母は、認知症という病状を報知する件に越えがたい逡巡を感じたらしく、近親のみが集い密葬を執り行った後、不肖の嫁が急ぎ用意した喪中ハガキの文面で公の関係への御挨拶に代えさせて戴く仕儀に至りました。
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診断は義父の年齢から認知症ということになったものの、運動機能の急激な低下で始まった病状は、娘の「多様性」へ緊密に接していた私から見ると自閉圏当事者の主訴とも感じられました。つまり義父の経過は、娘の育ちを逆行しているように思えたのです。
大学を退き故郷へ移転した後も、非常勤講師や翻訳(数学者の習いで、英語と露語が使えました)のお声掛けを頂戴している間は、悠々自適の隠居生活を愉しんでおりました。しかし体調を崩し仕事を一旦お断りした途端、あっと言う間に知識・知能が衰退していきました。
ただ、他者と関わり社会と呼応する知恵については、終生自得に至れなかった模様。専業主婦の義母が「毎日」を仔細綿密に支え続けたからこそ、実の娘(私にとっては義理の姉)と隔絶しながら、当人的には安閑のうちに孤高の人生を全うし得たのだと思います。
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義理の姉が何を厭うたゆえに、孫に当たる長女長男を実父の告別にさえ参列させぬほど疎遠になってしまったのか? 理系な弟嫁には2年半経っても依然、不詳なままです。
元より「変なお母さん」を自称し不調法を憚らぬ私ですから、子を二人ともに小学生から受験勉強へ邁進させた義姉とは、お世辞にも相性が宜しかったワケがなく。実弟に当たる夫の方も長年の無沙汰を解消する機微は無いため、以下は推察に過ぎませんが……
義姉が嫌厭し続けているものの正体は、父や弟とは違って「普通」の枠から外れることが出来なかった彼女自身の「平凡」かも知れない、と私には感じられてしまうのです。
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義姉の長女(拙宅の娘にとっては、2歳年長の従姉妹)は中学生の時分からいわゆる美術予備校へも通った後、念願叶って私立美大の双璧へ現役合格しました。とは言え、それ以降の様子は義母から伝え聞く限り、八王子と小平のどちらを選んで学んだのかも、順当に進級していれば卒業した筈の今年度はどんな進路を選んだのかも、残念ながら分かりません。
また昨年2月に拙ブログで言及した長男A君の件は、義姉の夫君(拙宅の娘にとっては伯父)から義母へ、一周忌に次いで三回忌へも不義理を重ねる陳謝と併せ1年遅れながら二度目の挑戦で志望校へ入学叶った知らせが、予備校の合格体験記公開と同じ頃に届いた由。
努力の義務履行に見合った「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「△△大学の★★学部生」といった所属意識は、人格を構築していく基盤として確かに大切ですけれど……
生まれ持った多様性を保護者が疎外/当事者が卑下していることで「育ち」の大局を歪めてしまう第一の分岐こそ、最優先で手厚く顧慮すべきでしょう。「普通」の枠から外れていない兄弟姉妹へも人格を尊ぶ敬意と個性を言祝ぐ仁愛を向けることは、お子さん達の「毎日」を支えるご家族にとって等しく重視されるべき要諦と私は考えています。
>>後篇『A Hasty Lonely Cassandra』へ続く
2017年5月4日木曜日
ひきこもらせない文化
この2年半あまり、発達障碍の二次障害で通うべき所へ通えなくなってしまった当事者・ご家族・支援者の日常を、拝読拝聴する機会に様々な奇遇で恵まれて参りました。
その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ、私自身がずっと抱き続けていた疑問は、お子さんが不登校からのひきこもりに陥ってしまう家庭と、すったもんだがありながらも通うべき所へ通い続けられる家庭を、分かつ「決め手」は一体なんなのか?ということ。
無論、不登校・ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘の就学就労支援に備えるべく…との必用もありますが、そもそも私自身の好奇心が提起して止まない疑義でした。
***
この疑問へ「不登校・ひきこもりになるか、そうならずに済むかを分けるのは、障害特性の程度に決まってるでしょ」と即答なさるのは、僭越ながら机上の学問へ没頭するのみで当事者さんを支えるご家庭それぞれの「毎日」に接しておられない専門家の方々。
されど暇に飽かせてネットの渉猟を広げてみれば、生来のいわゆる特性が「個性」の範囲で社会適応へ向かうか/「二次障害」へと増悪してしまうか、当事者さんを取り巻く育ちの環境=家庭の文化で大きく左右される「毎日」がリアルに綴られているのです。
「障害」を生じさせているのは当事者の特性ではなく調整不全の不合理へ陥った育ちの環境の方…という仮説は、金沢大学子どものこころの発達研究センターが監修した『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』の第4章で三浦 優生 先生が展開なさった『自閉的な行動パターンの表出には文化的影響が関連する』という考察にも合致します。
さらに実際の類例からは、他者と繋がる知恵を育めなかったゆえに社会へ背を向けがちになる彼らの「障害」が適応へ向かうか・増悪するかの岐路が、生まれ持った多様性を「個性」として保護者が受容/当事者が承認しているか・「障害」として保護者が疎外/当事者が卑下しているかで、まず大局を定められていく次第が垣間見えて来ます。
注視すべきは、この第一の分岐に於いて
専門家から下される診断が必ずしも善処へ向かう要諦にはならない点。
すったもんだがあっても「通い続けられる」ケースでは、特性が「個性」と「障害」の狭間にあり幼少時の見立て(保健師・保育士や幼稚園教諭などの指摘)をスルーしてしまった経緯に親御さんが綴っておられる後悔を多々拝読しましたが。診断で「障害」と銘記されなかったからこそ、お子さんの不備不足を平易に受容・承認できたとも解釈できるのです。
むしろ、それまでは「個性」と捉えていた「普通」の枠に当て嵌まらないお子さんの発達の凸凹へ、部分的な不適応(限定的な逃避や状況的な緘黙、特定課題の不消化など)を契機に「障害」という認識が賦与されてしまったことで、疎外感を喚起された親御さんの動揺からせっかく醸成されていた「うまくいっちゃう文化」が損なわれる危惧さえ生じ得ます。
***
加えて拙宅の発達障碍当事者が「自家製療育」を振り返って試みた解題に拠れば、彼らの「ひきこもらない力」すなわち社会の中で自己実現の主体となるべき人格の獲得には、「自分にピッタリの、でも息苦しくないペルソナ=自己の外的側面」が必須。
つまり、努力の義務履行に見合った成果としての「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「〇〇高校の☆☆クラス生」とか「△△大学の★★学部生」といった所属意識が、発達の凸凹を補填しつつ人格を構築していく基盤として、思いのほか大切らしいのです。
確かに不登校やひきこもりへ陥ってしまう経緯は対人的な不適応の発生とは限らず、学級や学校に対する帰属感が順当に得られなかった、あるいは少しずつ希薄になってしまったため「ひとりでに」自信を失い通えなくなったケースも相当数を占めている模様。
殊に大学以降の不適応では、他者から与えられた課題であれば知識(=既得の事実情報)と知能(=鍛錬した思考過程)を駆使できる学力を備えていながら、自身の未決問題(例えば、今学期はどの講義を受けるか? 卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 大学卒業後はどんな仕事をするか?)には回答する術を俄然見失ってしまうタイプのお子さんが「ひとりでに」自信を喪失→休学で再起を待機しても実効策を打てぬまま中退→ひきこもりへ至る事例が散見されるようです。
これら「大人のひきこもり」で予後の良し悪しを分かつ「決め手」は、自律的な生活習慣を支援者が稽古/当事者が体得できたか? 失敗するフリーハンドを支援者が許容/当事者が行使できたか? の二点であると複数の典型例から拝察させて戴きました。
支えるご家族からすれば、意外に感じられるかも知れませんが、
この第二の分岐で要諦となるのは学力でも職能でもありません。
なぜなら通うべき所へ通えなくなった当事者の不備不足は、「普通」なら「ひとりでに」獲得できる筈の自己を掌握する能力=人格が、生来抱える五感や認知の凸凹ゆえ十全に発達し得なかった旨こそ主因。五感の凸凹へ自ら配慮できる生活習慣と、認知の凸凹が招いた失敗から我慢を自得する経験が、彼らにとって一番必要な支援だからです。
そして二次障害を防ぐため/二次障害からの再起を促すため、当事者の「毎日」を支えておられるご家族に最も必要とされるのは、特性を理解する好奇心と 人格を尊ぶ敬意と 個性を言祝ぐ仁愛だと私は確信します。お子さんの特性を疎外する劣等感でも 人格を軽んずる庇護でも 個性を圧殺する共依存でもないのは、言うまでもないことでしょう。
***
さてさて斯く申す拙宅も、認知の凸凹を自己修整できる我慢と所属意識の育成を優先し、ずっと棚上げしてきた自活に必用な家事を、ようやく娘へ稽古付け始めました。
3年生への進級と共に、卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 修学後はどんな仕事に就くか?という未決問題へ彼女なりの回答を創造できつつあるためですが、実は起爆剤となる変事も勃発した所為だったり……その話は後日、追々綴らせて戴きましょう。
その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ、私自身がずっと抱き続けていた疑問は、お子さんが不登校からのひきこもりに陥ってしまう家庭と、すったもんだがありながらも通うべき所へ通い続けられる家庭を、分かつ「決め手」は一体なんなのか?ということ。
無論、不登校・ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘の就学就労支援に備えるべく…との必用もありますが、そもそも私自身の好奇心が提起して止まない疑義でした。
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この疑問へ「不登校・ひきこもりになるか、そうならずに済むかを分けるのは、障害特性の程度に決まってるでしょ」と即答なさるのは、僭越ながら机上の学問へ没頭するのみで当事者さんを支えるご家庭それぞれの「毎日」に接しておられない専門家の方々。
されど暇に飽かせてネットの渉猟を広げてみれば、生来のいわゆる特性が「個性」の範囲で社会適応へ向かうか/「二次障害」へと増悪してしまうか、当事者さんを取り巻く育ちの環境=家庭の文化で大きく左右される「毎日」がリアルに綴られているのです。
「障害」を生じさせているのは当事者の特性ではなく調整不全の不合理へ陥った育ちの環境の方…という仮説は、金沢大学子どものこころの発達研究センターが監修した『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』の第4章で三浦 優生 先生が展開なさった『自閉的な行動パターンの表出には文化的影響が関連する』という考察にも合致します。
さらに実際の類例からは、他者と繋がる知恵を育めなかったゆえに社会へ背を向けがちになる彼らの「障害」が適応へ向かうか・増悪するかの岐路が、生まれ持った多様性を「個性」として保護者が受容/当事者が承認しているか・「障害」として保護者が疎外/当事者が卑下しているかで、まず大局を定められていく次第が垣間見えて来ます。
注視すべきは、この第一の分岐に於いて
専門家から下される診断が必ずしも善処へ向かう要諦にはならない点。
すったもんだがあっても「通い続けられる」ケースでは、特性が「個性」と「障害」の狭間にあり幼少時の見立て(保健師・保育士や幼稚園教諭などの指摘)をスルーしてしまった経緯に親御さんが綴っておられる後悔を多々拝読しましたが。診断で「障害」と銘記されなかったからこそ、お子さんの不備不足を平易に受容・承認できたとも解釈できるのです。
むしろ、それまでは「個性」と捉えていた「普通」の枠に当て嵌まらないお子さんの発達の凸凹へ、部分的な不適応(限定的な逃避や状況的な緘黙、特定課題の不消化など)を契機に「障害」という認識が賦与されてしまったことで、疎外感を喚起された親御さんの動揺からせっかく醸成されていた「うまくいっちゃう文化」が損なわれる危惧さえ生じ得ます。
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加えて拙宅の発達障碍当事者が「自家製療育」を振り返って試みた解題に拠れば、彼らの「ひきこもらない力」すなわち社会の中で自己実現の主体となるべき人格の獲得には、「自分にピッタリの、でも息苦しくないペルソナ=自己の外的側面」が必須。
つまり、努力の義務履行に見合った成果としての「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「〇〇高校の☆☆クラス生」とか「△△大学の★★学部生」といった所属意識が、発達の凸凹を補填しつつ人格を構築していく基盤として、思いのほか大切らしいのです。
確かに不登校やひきこもりへ陥ってしまう経緯は対人的な不適応の発生とは限らず、学級や学校に対する帰属感が順当に得られなかった、あるいは少しずつ希薄になってしまったため「ひとりでに」自信を失い通えなくなったケースも相当数を占めている模様。
殊に大学以降の不適応では、他者から与えられた課題であれば知識(=既得の事実情報)と知能(=鍛錬した思考過程)を駆使できる学力を備えていながら、自身の未決問題(例えば、今学期はどの講義を受けるか? 卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 大学卒業後はどんな仕事をするか?)には回答する術を俄然見失ってしまうタイプのお子さんが「ひとりでに」自信を喪失→休学で再起を待機しても実効策を打てぬまま中退→ひきこもりへ至る事例が散見されるようです。
これら「大人のひきこもり」で予後の良し悪しを分かつ「決め手」は、自律的な生活習慣を支援者が稽古/当事者が体得できたか? 失敗するフリーハンドを支援者が許容/当事者が行使できたか? の二点であると複数の典型例から拝察させて戴きました。
支えるご家族からすれば、意外に感じられるかも知れませんが、
この第二の分岐で要諦となるのは学力でも職能でもありません。
なぜなら通うべき所へ通えなくなった当事者の不備不足は、「普通」なら「ひとりでに」獲得できる筈の自己を掌握する能力=人格が、生来抱える五感や認知の凸凹ゆえ十全に発達し得なかった旨こそ主因。五感の凸凹へ自ら配慮できる生活習慣と、認知の凸凹が招いた失敗から我慢を自得する経験が、彼らにとって一番必要な支援だからです。
そして二次障害を防ぐため/二次障害からの再起を促すため、当事者の「毎日」を支えておられるご家族に最も必要とされるのは、特性を理解する好奇心と 人格を尊ぶ敬意と 個性を言祝ぐ仁愛だと私は確信します。お子さんの特性を疎外する劣等感でも 人格を軽んずる庇護でも 個性を圧殺する共依存でもないのは、言うまでもないことでしょう。
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さてさて斯く申す拙宅も、認知の凸凹を自己修整できる我慢と所属意識の育成を優先し、ずっと棚上げしてきた自活に必用な家事を、ようやく娘へ稽古付け始めました。
3年生への進級と共に、卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 修学後はどんな仕事に就くか?という未決問題へ彼女なりの回答を創造できつつあるためですが、実は起爆剤となる変事も勃発した所為だったり……その話は後日、追々綴らせて戴きましょう。
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