2016年1月29日金曜日

Success but Not Enough

『最も難関かつ大切なのは、就職活動と社会人になった最初の数年間』

ご多用を押して前回の記事をご一読下さった「とある成人当事者ブロガー様」から、『ストレートな表現になりますが』と前置きの上、真摯誠実なご忠言を頂戴しました。
ご指摘、全く仰るとおりだと、私もつくづく思います。

でも……結婚してご自身の家庭をお持ちになった後、抑鬱症状などの二次障害を契機に診断を受けた当事者さんなら、結婚準備と新婚生活最初の数年間。お子さんの障害告知をキッカケに、ご自身の“難儀”にも気付いた当事者さんであれば、妊娠出産からお子さんが診断されるまでの数年間を、『最も難関』とご忠告下さるかも知れません。
発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
けれど、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
ゆえに、「みんな」なら「普通」の努力を積むことで、いろいろ問題にぶつかったとしても・そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路が逐一、当事者さん各人各様の『最も難関』になってしまうのではないでしょうか?

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それでは何故、たかだか大学の、それも補欠でようやく頂戴できた合格なのに『大きく娘の将来を左右する成功体験』などと、僭越な一文を厚顔にも綴れたのか?

その根拠は第一に、
娘自身が、自分の障碍を客観的に認識し、主体的に配慮出来るようになったから。

大学受験を終え、“心の師匠”へ御礼状を書かせた際、娘から打ち明けられたのですが。
高校受験当時は、「みんな」と同じ「普通」の努力では妥当な成果を上げられない自分の“難儀”を、どうしても承認することが叶わず。塾の時間以外は学校で自習していると親に偽り、実は友達のお宅へ入り浸っていたそうで。

しかし、春の大雪が演出してくれた“不合格発表”が、「みんな」の「普通」に倣うだけでは、自分ひとり“難儀”を抱える疎外感ゆえに、妥当な行動化が妨げられる二次障害を乗り越え、成功をつかみ取ることなど不可能だ、と娘に“実証”してくれたらしく。

“押さえ”の私立高校で、先生がたから戴いた厳しくも手厚いご指導も相俟って、自分の障碍へ配慮した上、妥当な成果も上げられる独自のプロトコルを見つけ出すまで、ひとりで群れずに愚直な努力を根気強く重ねられる我慢が、ようやく身についた様子。

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そして第二の根拠は、
娘自身が、自分の障碍に納得していないから。

客観的な認識に基づいて、しぶしぶながらも承認は出来るようになったおかげで、五感や認知の凸凹すなわち中枢神経系の機能障碍への配慮と、適切な行動化を妨げている二次障害を克服するための我慢が、叶うようになったけれど。

何故『人類のワイルドカード』が、よりによって自分へ配られる仕儀となったのか?

これまでは疎外感に囚われるまま、激情に任せて母親へ八つ当たりするしかなかった、しかし畢竟、当事者本人が直面しなければならない、障碍あるいは多様性の存在意義。

その『問に答を与える明』を希求して、禅智内供が『法華経書写の功を積んだ時』同様に、元来備えていた能動的な意欲へ集中することを、娘自身が選び取ったからです。

「自己肯定感を持たせるために、成功体験を」ではなく
「苦手を避けて、得意を伸ばす」でもなく

「Success but Not Enough」と当事者自身が実感できる
「失敗体験」を経た上での「成長体験」

自分の中に未だ潜在している“伸び代”を、
当事者自身が実感できる「成長体験」

苦手を克服する我慢が出来て、はじめて得意を伸ばせることを、
当事者自身が客観的に認識できる「成長体験」が得られたから。

今の娘なら、人生の岐路でいろいろ問題にぶつかったとしても、独自のプロトコルを見つけ出すまで、ひとりで群れずに愚直な努力を根気強く重ね、多分そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる。

彼女自身の人生へ、そんな信頼感を持てるようになったからこそ、私も「わるいママ」の肩の荷をようやく下ろし、「みんな」の「普通」なお母さんと同じ程度の配慮我慢が、出来るようになれたんだと思います。


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