サポートセンター名古屋の
ヒロさんが、
ブログ卒業と
非障害自閉症スペクトラムへの旅立ちのスケジュールを、宣言なさったお祝いにかこつけて。
“種明かし”ついでに、旧来の診断名なら
高機能自閉症児の親だった、なんて次第まで白状しちゃいましたが。
私自身はやっぱり、当事者でも支援者でも専門家でもなく……
ヒトの脳の働きに興味があり、趣味の範囲で勉強している「野次馬の傍目八目」という間合いを、この機に詰めようなどという目論見は、毛頭ございません。
当事者の親御さんの中には、一念発起して専門家の資格をお取りになったり、自ら支援の場を発足・運営なさったり。尊いお志に基づいた
「行動化の瞬発力」を、遺憾なく発揮してらっしゃる皆様が、幾人もおられますけど。
野次馬は、客観的かつ冷静な俯瞰に在るというだけで、八目も先まで手が読めちゃうワケですし。
博士号を允許戴けるまで、理学すなわち世の理
(ことわり)を究める学問にて、鍛えて参りました
メタ認知をこそ、今後も活用いたしたい所存。
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てなコトで、実は
大学受験より手に汗握ってた、娘の学期末試験真っ最中な今夏7月。ブログ
『発達障害な僕たちから』へ
好奇心と敬意と仁愛を以て、寄せさせて戴いておりましたツイートを……
衒いの無い穏やかな筆致で、たくさんの有意義な示唆を与えて下さった
俊介さんと
10年越しの粘り強い支援に応えて、熱い魂を見事に花開かせて下さった
ヒロさんへ
若干の改稿を加え、深謝を込めて再掲いたします。
『2年前には今の状況なんかまったく想像できなかった』
『そのギャップに戸惑う』
『自分じゃない気がして少しきみが悪い』
その感覚が、
メタ認知が成熟し自我が確立していく徴候なのでは……と思います。
『残念なんですけれど、僕は泣くまでにはいきません』
ぃやぃや、恬淡として穏やかな人柄こそ、俊介さんの素敵な所ですから。『なるほどそうなのかと気付き』を得て下さったなら、それに勝る幸せはございません。
明日から勉強する料理には、熱くなって戴きたいですが。
そして大野さんは、方向性さえ定まれば進捗が素晴らしく早い所が、さすがです。
ブログの続きを書こうと深く悩んでらっしゃるご様子、俊介さんは若干心配なさってますけど。ひょっとしたら沈思黙考するのが、大野さんにとっての
“安心毛布”(俊介さんにとっての格闘ゲーム)なのかも。
端から見ると、スゴク大変そうに感じられるかもしれませんけれど……
本人はあれこれ思索を巡らせること自体、案外楽しんでらっしゃる所があるのかも知れませんよ。サポートセンター名古屋的には稀なケースと拝察しますが、ワタクシ的にはむしろ、大野さんのようなタイプは馴染みがございますので。
『人の視線が怖いのです。でも幼稚園児やかなりの高齢者の視線は怖くありません』
これこそが、当事者さんの実感ならではのリアリティ。
定型多数派視点の現象論では、決して到達し得ない臨場感です。
視線は本来、他者と感覚情報を交感・共有するため、最も基本的かつ重要な非言語コミュニケーション(いわゆる共同注視)なのですが。俊介さんは鋭敏すぎる五感をお持ちなため、他者の感覚情報を精細緻密かつ大量に感受しすぎて、いわば共同注視への過剰適応状態に陥ったものと拝察します。
『自分の妄想なんです』と
メタ認知が冷静に判断していても、一度ワーキングメモリが感覚飽和=パニックに至ってしまうと、手が震えたり叫びだしたくなる衝動に駆られたり。身体の制御まで出来なくなって、その場にしゃがみ込むか、全速力で逃げ出す他に、為す術が無くなってしまうのでしょう。
就学前のお子さんや、かなりご高齢の方々は、相手の共同注視が未発達あるいは衰えてらっしゃるので、たぶん俊介さんの視覚過敏を以てしても、過剰適応を起こす危惧が無い。ゆえに、そういった皆さんの視線は、きっと怖くないのですね。
#共同注視(joint attentionの訳語です)については、脳科学辞典サイトで
「共同注意」の項をご参照下さい。
勿論『環境を変える』という具体策こそ『とても大切』ですし、支援を受けている今の俊介さんは、どうすればいいか重々分かっておられますが。
『視線が怖い』という“現象”の理
(ことわり)を解きほぐすことで、自己評価を不当に貶めていた誤学習を修整する一助となれば、身に余る幸甚です。