2016年3月19日土曜日

知者不惑 仁者不憂 勇者不懼

私からすれば30年振りの大学受験で、発達障碍を抱えた娘意想外の合格を頂戴して、ちょうど1年が経ちました。

就学前の告知以来、「苦手を避けて 得意を伸ばす」「自己肯定感を持たせるために 成功体験を」という療育の専門家が仰る定法を遵守し、背伸びを戒め失敗をさせないことこそ、娘の「生まれ」に対する適切な合理的配慮だと、中学まで心得て来たのですが。

高校受験を控えてお世話になった進学教室で、『励ます力』の極意に気付かせて戴いたのを契機に、むしろ失敗の経験を懼れずそれを乗り越えた「成長体験」が、「生まれ」に支障された彼女の「育ち」を促せる最善かも知れない、と考えるようになりました。

改めて娘へ訊ねてみた所、疎外感の原因だった「多様性」を、「みんな」の「普通」な努力だけでは克己しがたい「障碍」と客観的に認識し、ひとりで群れずに精進する我慢の必然を、渋々ながらも承服するに至ったのは、高校2年へ進級した頃だったそうで。

具体的には何がキッカケ?と質問を重ねれば。成績不振で学年主任から呼び出され、面談では「頑張ります」と答えたものの。きっと特進クラスから外されてしまう、と内心諦めていた時に、新学期の学級編成で再挑戦の機会を与えて戴けた件、だったらしく。

国立大へ合格なさった皆さんが辞退した席を補うべく、辛くも入学をお許し戴いた受験結果にも関わらず。学業成績でも人間関係でも大過なく成長への努力が叶ったこの1年の所以は、要するに高校2年で予習済みの「難関」だったからという次第のようです。

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娘は幸か不幸か、専門家の療育指導を一度も受ける機会の無いまま、私が独学で試行錯誤を重ねた自家製療育と、学校や進学教室の先生がたから賜った手厚いご配慮で、今のところ顕著な二次障害も無く社会的支援を請う必要も無く、大学へ通えておりますが。

2016年3月12日土曜日

Nurture is above Nature

『ご本人が「障碍に納得していない」という点に、驚きました』

1月末に公開した拙文『Success but Not Enough』を、ご多忙の合間にご笑覧下さった「とある成人当事者ブロガー様」から、ご自身は『診断されて、安堵感のほうが強い』と補足の上、直截にして丁寧なご感想を頂戴しました。

世間では「発達障害(障碍/障がい)」の一語で、括られてしまいますが。

当事者さんの持って生まれた特性やら、「育ち」を支えたご家庭の環境やら、障害告知後に選んだ「生き方」の経緯やら。置かれている現況や抱えている難儀は、文字どおり百人百様 ・千差万別ゆえに、一言では括れる筈も無く。

じゃあ症候によって細分化すれば……という話でもないのは、「生まれ」「育ち」「生き方」のいずれも切り離せない、当事者さんの「多様性」をご自身がどう受容するか?という難問へ、確実な成功を保障してくれる“正解”が無いからだと、私は思うのです。

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発達障がいの特性は、一般の人々にも多かれ少なかれ認められ、特別珍しいものではありません。
けれど、五感や認知の凸凹すなわち
情報処理や行動の計画・遂行などに関わる中枢神経系の機能障がいです。
それがために、「みんな」なら「普通」の努力を積めば、いろいろ問題にぶつかったとしても・そこそこ上手に乗り切って・まずまずの成功へ落着できる人生の岐路が、発達障害当事者にとっては各人各様の『難関』になってしまいます。

「育ち」を支える親からすれば、子どもに対して「配慮と我慢」を心掛けるにしても、「育ち」に関わって下さる皆様へ配慮を依頼し続ける、我慢に申し訳を立てる意味でも。持って生まれた「障害」と諦観してしまった方が、気持ちに納まりが付いたり……

成人後に診断された当事者さんも『なぜ周りが出来ることが、自分は出来ないのか?』という疎外感を抱えつつ、されど「みんな」の「普通」に追いつく「育ち」が叶ったケースなら、全て「障害」の所為だったという“解答”に安堵を感じられるのでしょう。

2016年3月4日金曜日

親の光は七所照らす

「無論、今の娘の成績で京大が狙えるとは、夢にも思っていません」

父方の祖父も両親も、大学や大学院でお世話になった御縁から、魚屋の子が「オイラも魚屋になりたい!」と言っているようなもので。私がそう言い継ぐと、高校2年から娘を担任して下さっているT先生の表情に、安堵の色が顕れた。

「それより、私自身が一浪して、得したことはありませんでしたから」

現役合格を目指す方が、大事だと思います。
そこまで申し上げた所で、T先生は深く頷いて下さった。

「同感です。同じ努力を二年繰り返すのは、あまり意味がありません」

娘の高い志を尊重する一方で、大学受験の現実も心得た保護者だと、担任からご信任を頂戴し率直な本音を漏らして下されば、高2の秋の二者面談としては上々。最終的には本人の成績次第、という暗黙にして当然の了解に落着した。

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小学5年生の娘を担任して下さったS先生へ、家庭訪問の席で詳しくお話しして以降、娘の「育ち」を、先生がたに長々とご説明することは無くなった。別段、隠したわけではない。単純に、逐一お話する必要が無くなっただけ。

保育園で、臨床心理士から障害告知・小学校低学年で、ある“事件”をキッカケに転校……なんて経緯をお知らせするまでもなく、娘の言動から「こういう子なんだな」とご了承戴ける先生がたに、恵まれ続けた旨こそ幸甚だ。

取り分け小学生のうちに、生来苦手な同級生達との関係に代え、年少者や大人との関わりをS先生に繋いで戴いた件と、得意教科の面白さを、6年の担任だったU先生がご教授下さった旨が、大きく寄与していると感謝に堪えない。