2019年1月14日月曜日

子は知らずとも の親ごころ

この4年あまり、発達障碍の二次障害で通うべき所へ通えなくなってしまった当事者・ご家族・支援者の日常を、拝読拝聴する機会に様々な奇遇で恵まれて参りました。

その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ私が抱き続けていた疑問は、お子さんがひきこもりへ到り長期に渉って継続してしまうご家庭と、すったもんだがありつつも再び通うべき所へ通い続けられるご家庭を、分かつ決め手は一体なにか?ということです。

ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘への対処を学ばせて戴く、との必用も無論ありましたが、そもそもは私自身の好奇心が喚起して止まない疑義。そして当事者さんへの敬意と仁愛が主導するSense of Wonder の俯瞰を広めるにつれ、ひきこもりに陥るか否かを分かつのはお子さんが抱える障害特性の軽重より、むしろお子さんを取り巻いていた育ちの環境=家庭の文化が累積してきた日常である旨、徐々に拝察されて参りました。

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2019-01-13
ひきこもりを やめられた理由 山田

僕が家を出ると決めて、青木さんが大きなバッグを持って家に来た。   「このバッグに君の家から持ち出したい物を入れてください。明日僕が迎えに来ます。」   
「でも できるだけ持っていかない方がいいんだ。」「嫌な思い出しか ないはずだから。」  「服は その日着ているものだけで いいよ。予備の服も靴もいらない。明日は何時に迎えにくれば いいかな?」   
「今から出ます。用意は もうできているので、10分待ってください。」  
 「じゃあ、外に停めてある車の中で待っているから。家を出るときに おかあさんに、『行ってきます。』と言って欲しい。一言、言うだけでいいから。」 
  準備していたものはノートとシャープペンとアトピーの塗り薬だけ。自分の部屋にあるものは全てゴミ袋に入れておいた。「これは全て ゴミに出して欲しい。」と書いておいた。   
「おかあさん、行ってきます。」という言葉が出なかった。玄関で立ち止まって、もう一度深呼吸をして、言葉を出そうとした。でも出ない。  
 外に出てたら、青木さんが車から出て待っていた。「言えません。」と言った。   
 そしたら、「ごめんなさい。おかあさんは 邪魔したらいけないと思われたみたいで、外に出ていたよ。今から家に鍵をかけて僕たちは行くよ。」    
「あははははは。」    
この人は おかしい人だと僕は思った。笑うことはしなかったけれど、この人なら ぼくを傷つけることはしないだろう と安心した。

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2019-01-14
家から出ると決めてから出るまでが大変だった。山田

出ると決めたら、一刻も早く自宅を出たくて仕方がなかった。僕の大切な時間が どんどんと過ぎていくので不安になったから。  
自宅を出ると決めてから、2日、3日と過ぎていくと強い焦りから、大きな声を部屋で出したり、壁を叩き始めた。   
「自宅を早く出たい。」と言葉に出して、母親にでも伝えればよかったんだけれど、怖くて できなかった。    
長い期間 母親とは話していなかったので、どうやって話せばいいのかかが わからなくなっていた。それで、母親は青木さんに相談したと思う。    
「どうして暴れているのか理由が知りたいので、ドアの下から紙を入れるから、そこに理由を書いてね。お母さんだけにみて欲しいなら、母だけ。青木さんだけなら青木さん。と書いてね。」と母親がドア越しに僕に話した。    
こんなことを思いつく母ではないから    
僕は「今日中に家から出て、サポートセンターの部屋に移動する。」と書いてドアの下から勢いよく紙を滑らせた。  母親が気づかないかもしれないと不安になったので、力を込めて、「書いた!!」と絶叫した。   
すぐに母親がやってきて、紙を回収した。そして、すぐに家から出ていった。 
青木さんに「今日中に迎えにきてまくれますか?」と携帯で電話をするために、外へでたんだと思った。

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見えないものは ないものと同じ。

サポートセンターでは当事者さんへ身辺の整理整頓を伝授する際、ヒロさんジャイアンさん山田さんもそう教えられたそうですが、この文言ほど彼らが生来抱えておられる五感と認知の凸凹を、的確明瞭に表現した惹句は無いでしょう。

ふだん身に付けている服や靴、いつも使っているスマホやゲーム機といった持ち物が、「見えない」所へ仕舞い込まれると「ないもの」になってしまうように、その時その時の感覚や感情は認知できても、心や将来といった「見えない」概念は当事者さんからすれば「ないものと同じ」です。

彼らは確かに自分の心や将来を「持っている」し、ご両親や学校の先生がたも彼らがそういった概念を「持っている」かつ「分かっている」前提で相対して来られたのでしょうが、当事者さんの五感や認知へ寄り添えばその瞬間ごとの感覚・感情だけで、いっぱいいっぱい。心や将来といった「見えない」概念を自分で把握して、周りの大人にも通じるように言葉で表現して欲しいと願うことが、そもそもの無理ゲーだったりします。

逆に言えば、これほど「親の心」から大きく深く乖離している「子の心」を、「みんなと同じ」会話で理解しようとお考えになっている大人側の方策も、無理ゲーなのです。喩えれば外国語を習得する努力を全くしないまま、外国の文化を理解してやろうという傲岸不遜な「上から目線」を向けているような状態、と申し上げても過言ではない。

お母様がたの「あなたの心を分かりたいの!」という強い志向には大いに同情を覚える一方、しかし「へそ曲がり」な俯瞰からは、我が子よりご自分の自己承認を修復する方を、咄嗟の無意識で優先しちゃった顛末なんだろうなぁと拝見せざるを得ません。

山田さんのお母様が、実の母親なのに『何もできないことが わかった』という自己理解を得て尚、他者へ対し『この人たちなら、息子を回復させてくれると信じ』られる自己承認を保ち、自分よりも我が子を「分かっている」人たちを探し出し万事相談する自己投資を実行なさった経緯は、たぶん「良いお母さん」に選択できる最善最上の方策。

たとえ息子さんが「親の心」を分かってくれなくても、配慮と我慢を尽くしたその「親ごころ」、皆々様にもお手本となさって戴けたらと蔭ながら敬服しきりの毎日です。

【拙ブログの関連記事】『子の心 親知らず』 『親にできる事 親にはできぬ事

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