その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ私が抱き続けていた疑問は、お子さんがひきこもりへ到り長期に渉って継続してしまうご家庭と、すったもんだがありつつも再び通うべき所へ通い続けられるご家庭を、分かつ決め手は一体なにか?ということです。
ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘への対処を学ばせて戴く、との必用も無論ありましたが、そもそもは私自身の好奇心が喚起して止まない疑義。そして当事者さんへの敬意と仁愛が主導するSense of Wonder の俯瞰を広めるにつれ、ひきこもりに陥るか否かを分かつのはお子さんが抱える障害特性の軽重より、むしろお子さんを取り巻いていた育ちの環境=家庭の文化が累積してきた日常である旨、徐々に拝察されて参りました。
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2019-01-10
日本ではなく外国で 変わるチャンスを掴んだ。山田
『日本人に怖さを感じて、ひきこもっていました。だから外国では ひきこもる必要は ないんですよ。
それがわかった僕は、今までの反動で、毎日のように街に出て、英語を使って他人と話をしました。
それにフィリピン人は とても陽気です。他人を楽しませようとしますし、自分も楽しみたい国民なのです。
「ニホンジン? アリガト。アリガト。ハイゥエイ、エアポート、トレイン、ニホンジン プレゼントシタ。サンキュ。ジャパン。」
「アナタ ニホンジンデスカ。ナンデ、イングリッシュ グッド? ニホンジン エイゴ、ワカラナイ。アナタ イングリッシュ、スゴイナ。アメリカンミタイ。」
お世辞ですよ。でも 言われて悪い気はしません。こんなふうに接してくれる日本人は いないです。
フイリピン人は みんながエンターテイナーです。僕は もっと英語が好きになっています。
あと、英語を話すと楽です。日本語は頭が混乱します。あと半年で英語を完璧にしたいです。
第1の目標は ゴールが すでに見えています。』***
「自信が無いから、ひきこもるしか無い。」
当事者の皆さんは一様に、社会から物理的に距離を置いた理由を、そう述べます。すると親御さんも支援の専門家も、ご自分の五感や認知だけを鑑みて「失敗体験を上回る成功体験があれば自信がつくはず」とお考えになってしまう。
されど当事者の自己を当事者本人より深く広く理解する俯瞰に立てば、彼らの不全感が「自分は社会に於いて尊い存在。ゆえに他者を信じ頼みにして良い」という拠り所、すなわち自己承認の不備不足に根ざしていると分かってくる。
さらに彼らが自己承認に深刻な不備不足を生じた経緯を手繰ると、これまた一様に「みんなと同じ」育ちが叶わなかった自己への失望が、長年鬱積した顛末と分かる。なればこそ「失敗体験を上回る成功体験が…」と無理ゲーを強いる親元を離れ、「みんなと同じ」を要求されない外国で再起を図る、という選択は断じて荒唐無稽ではないのです。
ところが親御さんはたぶん十中八九、「お子さんは日本以外の国での方が、きっとうまくいきます」とお話ししても、否定的な応答をなさるでしょう。吃驚なさったり失笑なさったり、最初の反応はご家庭によって様々だと思いますが、おそらく最後はこれまた一様に「だってウチの子は英語ができませんから」と、結論なさるような気がします。
と申しますのもイケずなオカンが言葉巧みに彼女をおだて、本部の語学センターでも受講させてみたところ、所属学部では好成績を修めていた娘が、なぜか数十人規模の通常クラスだと不思議なくらい単位を落としまくった次第。軽微ながら聴覚過敏を抱えているため、受講者の多さが致命的な支障となってしまうのだろうと私は推察しています。
果たして「少人数指導であれば、語学はむしろ得意教科」という自己理解を得た娘は、山田さんと同じように「日本語より外国語の方が楽」という自己承認を確立し、今や「常勤でも非常勤でも就職して資金を貯めて、海外の大学院へ留学する」という自己投資を目標に、ニッチな専門職の就活の傍ら第三外国語の自学自習に励んでいるのです。
生来の五感や認知に障害と名指しされるほど大きな凸凹を抱えた当事者が成長する術は、「失敗体験を上回る成功体験」などという無理ゲーではなく、自己理解・自己承認・自己投資という源(みなもと)・礎(いしずえ)・標(しるべ)だと、私は考えています。
ヒロさんや東大さんでお馴染みの決まり文句に倣えば、「我が娘が証明です」ね。
【拙ブログの関連記事】『ひきこもらせる文化』 『待ち設ける親 と 伸び行く子』
>> 前々篇『成長の源は成功ジャナクテ自己理解』を読む
>> 前篇『成長の礎は成功ジャナクテ自己承認』を読む
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